第一章 阿片の園 ――上海 1934
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一九三四年四月、上海租界。
今年も洋館の窓辺で花が咲き乱れ、大気が甘く香る季節になった。日本と同じく川辺や庭園では桜の花が満開だ。気温も、ぐんぐん上がってきた。
吾郷次郎は、柔らかな陽射しが落ちる軒先に、小さな椅子をひとつ持ち出した。そこに腰をおろし、紙巻き煙草に火をつける。紫煙をくゆらせながら、道ゆく日本人の姿をのんびりと眺めた。
共同租界の虹口は、日本人が大勢暮らす地区だ。一九三一年の満州事変以降、もとの住民である中国人を押しのける勢いで、日本人居留民が増えていった。ここでは内地と同じく日本語が飛び交い、三角マーケットでは日本産の食材が売られている。日本料理を出す料亭があり、日本人のための旅館が並び、内地に本店を置く菓子屋の商品名を記した幟が通りではためく。
日本から地方都市を切り取ってきて、そのまま置いたような町。それが虹口だ。ここは上海であって上海ではない。中国語を喋れなくても暮らせる特殊な地区である。
次郎は一年半ほど前、二十五歳のときに、ここで雑貨屋を開業した。穴蔵じみた狭い店だが、ひとりで切り盛りするので気は楽だ。二階は住居になっており、自分のような若造が仕切る規模としてはちょうどいい。
中肉中背の平凡な顔立ちの男が、地味なシャツとズボン姿で静かに座っていると、風景の中に完全に埋もれてしまう。それを幸いに、次郎は通行人を観察する楽しみに耽った。人々の身なりは、この町での生活水準を如実に伝えてくれる。いま、何をほしがっているか、これから何が売れそうか。一秒でも早く先回りして品物を手配できれば、金と幸運を得られるのだ。
洋装の紳士が通り過ぎた。上品な和装の婦人たちも。幼い子供が母親に手を引かれてよちよちと歩いていく。無表情に会社や工場へ向かう男女、疲れきった顔で夜勤から社宅へ戻る男たち。天秤棒の両端に野菜籠を吊るして歩く中年女、荷が山積みになった台車を押していく痩やせた老人。自転車に乗った若い郵便配達夫、客待ち顔のタクシー運転手、厳しい眼差しで巡回中の警察官。
日が高いうちは堅気の人々でにぎわう界隈だが、夜になれば雰囲気は一変する。酔っぱらいが増えるだけでなく、薄暗い路地には客引きの野鶏(娼館に属さない中国人娼婦)が立ち、スリが獲物を求めて雑踏を徘徊する。虹口の外には、もっと妖しい世界が広がっている。莫大な賭け金が動く賭博場、若い女や少年を抱かせる娼館、阿片を吸わせてくれる煙館、上海は夜の遊び場も華やかな土地だ。
東洋のパリとも呼ばれる上海は、古くから栄えてきた中国の港町である。いまは欧米人や日本人が会社を興し、そこからあがる収益が都市全体を潤している。とりわけ、欧米が中国とのあいだに租借地契約を取り交わしたこの租界には、壮麗な西洋建築物が建ち並び、彼らの祖国にも似た風景が広がる。
先進的な国際都市であると同時に、どの路地にも退廃と悪徳の匂いが漂っている。それがいまの上海だ。この落差の激しさを、次郎はこよなく愛していた。
煙草をふかしながら、思いきり伸びをする。
今日も人がようけおって、にがこい(にぎやかだ)な。だが、大半は、わいの店には、こーへんような連中や。
次郎にとって、雑貨屋は、あくまでも「つなぎ」の仕事だった。せっかく内地の寒村から抜け出してきたのだから、大金を儲けられる機会がほしい。だが、いまの次郎の身分では、これがなかなか難しい。
煙を深く吸い、目を閉じた。昨晩見た夢が鮮明に甦ってきた。
鉛色の空から、しんしんと冷たい雪が降ってくる。真っ白な空間の中で、雪に埋もれる苦しさと寒さに震えて目を覚ます。上海は暖かい土地で、いまは桜も満開なのに、なぜこんな夢を見てしまうのか。
ふっ、と苦笑いが洩れた。
雪は嫌いだ。雪あけ(雪かき)も、雪おろしも。
生まれ故郷の貧しさが嫌だった。冬になってあたりが白くなり始めると、貴重な年月が雪と共に埋もれていくような気がして焦った。空から降るのはいつも粉雪だった。粒が硬くて崩れにくいので、積もると、ひどく重くなる。玄関の前をふさぐ雪を除けるのも、屋根から雪をおろすのも重労働だ。それは次郎から体力と気力と時間を奪い、家にわずかにある本を読む時間も、都会で働くための知識を得る時間も削っていった。実家は小さな農家で、長男以外の兄弟に継げる財産はなかった。好きな女ができても、金持ちに横からかっ攫われた。思い返すだけでも腸が煮えくり返る。死んでも故郷には帰りたくない。
上海では、雪は冬の一番寒い時期にわずかに降る程度だ。この暖かい気候がうれしい。梅雨どきや台風の季節の湿気には閉口するが、商売で身を立てる才覚さえあれば、この町ではいくらでも金が手に入る。
だが、まだまだ財産と呼べるほどではない。心も満たされない。魂が飢えて渇いている。もっと金と豊かさをくれと叫んでいる。
分限者(金持ち)相手の仕事を見つけんと、いつまでたっても、このまんまではなあ――。
二本目の煙草に火をつけかけたとき、視界に萌黄色の婦人服を着た人影が入り込んだ。顔をあげると、ワンピースを着た女性と目が合った。女は次郎の店の前で足を止め、軽く会釈した。顎のあたりできっぱりと切りそろえた髪が、さらりと揺れる。
女は日本語で言った。「買って頂きたいものがあります。よろしいですか」
次郎は煙草をくわえたまま、相手を、まじまじと見つめた。
目鼻立ちの整った女だが、化粧はほとんどしていない。装飾品もつけず、手提げ鞄をひとつ持っているだけだ。身にまとった無地のワンピースは、本人が選んだというよりも、どこかで借りたか、安い店で適当に見繕ったといった印象で似合っていない。
だが、田舎臭さや貧乏臭さは感じられず、女としての素地はなかなかよい。いっそ男装などさせてみれば、異様な色気を放ちそうでもある。歳は三十を過ぎた頃、人妻か後家さんといったところか。熟れた果実を思わせる甘い香りが、ほんのりと漂ってきた。香水の選び方がうまいのか、驚くほど本人の雰囲気と馴染んでいる。日本人で、これほどさりげなく香水をつけられる者は珍しい。和服に忍ばせる匂い袋と違って、西洋の香水は日本人の体質に合わせて使うのが難しいのだ。
甘い香りにとろけそうになりつつも、次郎は、あえて無愛想に言った。「うちは買い取り屋じゃなくて、物を売るほうの店だ」椅子に座ったまま体を少しひねり、店内を指さした。「食器、鍋、釜、旅行鞄。なんでもいいから買ってくれ。その代金が、金じゃなくても構わんというだけの話だ」
「とりたててほしいものは見あたらないんですが――」
平然と失礼なことを言う。次郎が顔を歪めると、女はすっと店に入り、陳列棚から、ペイズリー柄のシルクスカーフを無造作に手に取った。偶然選んだのであれば値を聞けば驚くに違いないが、価値をわかったうえで選んだのであれば、それなりの目利きだ。
女は言った。「これを頂きます」
「払えるのか」
「ええ」
次郎が値段を口にすると、女は手提げ鞄から財布を取り出し、ためらいもなく紙幣を差し出した。次郎はそれを受け取り、勘定台の端に置かれた金銭登録器のレバーを叩いた。チンと音が鳴って抽斗が飛び出す。受け取った紙幣をしまい、おつりを女に手渡すと、あらためて言われた。
「さっきの続き、いいですか」
「どうぞ」
「これを見て下さい」女は財布とスカーフを鞄に入れ、代わりに小さな軟膏入れを取り出した。蓋をあけ、次郎に向かって差し出す。「いくらになりますか」
軟膏入れの中には、粘性を帯びた黒い塊が詰まっていた。わずかな分量だが、阿片煙膏だとひとめでわかった。
次郎は視線をあげて相手を見つめた。「こういうものを持ち込まれても、うちではどうにもならん」
「さばいてくれる先をご存じでしょう。こちらへ来れば、うまくやってくれると聞きました」
「誰から」
「あちこちで耳にしますよ。あなたには中国人の知り合いが大勢いらっしゃると」
軟膏入れの蓋を閉じながら次郎は言った。「こういうのは、すぐに話がつくもんじゃない」
「これは普通の阿片ではありません」女は語気を強めた。「わかる人なら驚くはずです。熱河省産の中でも、とりわけ質が高い品ですから」
「馬鹿を言え。熱河省の阿片は関東軍の管理下だ。勝手に持ち出せるもんか」
「混乱期のどさくさにまぎれて持ち出しました。これをお金に換えたい。在庫はもっとあります」
「どれぐらい」
「買って頂けると決まったら教えます」
次郎は黙りこくった。
阿片売買については門外漢の次郎でも、熱河省産阿片の値打ちぐらいは知っている。阿片は吸ったときに「甘い」「辛い」と感じる「味の違い」があるそうで、大陸では「甘い」商品ほど人気が高い。ペルシャ産は辛く、中国産は甘い。熱河省で栽培されている阿片芥子は甘いほうだ。その中でも特別品となれば、売りさばく相手は、苦力や炭鉱労働者ではなく、たっぷりと金を持っている連中がいいだろう。得られる利益は計り知れない。
体中の血が燃えてきた。これは、ものすごい運勢が、おれにも巡ってきたということか?
次郎は言った。「わかった。知り合いに訊ねてみるから、何日か経ったらまた来てくれ」
「明日ではだめですか」
「無茶を言うな。最低でも三日はかかる」
「では三日後に。そのとき、はっきりとお返事がなければ、この話はなかったことに」
「こいつは返さなくていいんだな」
「二回ほど吸えばなくなる量です。惜しくはありません」
「あんたの名前と素性を教えてくれ。得体の知れん人間では、誰にも紹介できん」
「天津租界から来ました。原田ユキヱといいます。それ以上は言えません」
上海租界のどこに逗留中かと訊ねても、ユキヱは「友人の家に泊まっています」としか答えなかった。面倒くさいので、次郎はそこで話を打ち切った。
ユキヱが立ち去ると、次郎は受け取った容器をポケットに入れた。雑貨屋の扉を閉め、錠をかける。休業の札を吊るし、馴染みの薬屋・桃樹薬房を目指して歩き出した。
桃樹薬房は昔ながらの漢薬を売る店である。欧米や日本の製薬会社の商品は扱わない。店主は中国人で、訪れる客もほとんどが近所の中国人だ。
次郎は、ここによく漢薬を買いに来る。買った漢薬を雑貨屋へ持ち帰り、日本人客に転売するのだ。次郎の店は薬局としての認可を得ていない。だから、薬を求めている客から金をあずかり、代理購入の形をとる。勿論、次郎は、もとの値段に上乗せして商品を売るので、客は自分で桃樹薬房へ行って買うよりも余分に支払うことになる。だが、中国語が苦手な者にとっては、このほうが安心できるし便利なのだ。次郎自身、ひとりでは漢薬の善し悪しがわからないので、店主が薦める商品を買って転売する方法は楽だった。ちょっとした体調不良や長期にわたる婦人病には漢薬がよく効く。定期的に買っていく客は多く、漢薬の転売は、ささやかだが堅実な実入りになった。
大通りから路地へ入って十分ほど歩き続けると、薬房に着いた。次郎は店の扉を開くと、「譚さん、お邪魔するよ」と、中国語で声をかけた。
甘苦い香りが漂う店内の棚には、乾燥させた植物やキノコを収めた箱が並んでいる。高麗人参や毒蛇を漬けた酒瓶、中国茶の箱、雄鹿の陰茎や睾丸からつくられる精力剤を収めた容器などもある。本場の漢薬を見慣れない日本人にとっては怪しすぎる光景だろうが、どれもよく効く薬だ。
譚中方は、勘定台の向こう側に座っており、次郎の呼びかけに反応して新聞から目をあげた。痩せた体を長袍で包み、丸眼鏡をかけて丸帽子をかぶった老人は、笑みを浮かべて言った。「ジローか。今日は何が必要だ。鹿茸か、それとも、冬虫夏草か。どちらも入荷したばかりだから、どっさりあるぞ」
次郎は、勘定台に、原田ユキヱから受け取った軟膏入れを置いた。「悪いな。今日は買うんじゃなくて相談に来た。こいつの質の善し悪しを見てほしい。譚さんならすぐにわかるだろう」
譚中方は骨張った指で蓋をねじり、容器をあけた。中身に顔を近づけ、鼻をひくつかせた。「なぜ、こんなものを持ってきた」
「おれの店に、素性の知れない女が持ち込んだ。こいつを売りたがっている」
「おまえさん、いつから売人の真似ごとを始めたんだね。こういうのは朝鮮人に任せておくものだ」
「金になるのか、ならんのか。それだけ教えてくれ」
「質は、吸えばすぐにわかる」
「おれは自分ではやらんのだ。阿片なんか吸ったら、頭がぼーっとして仕事にならん」
次郎は勘定台に肘を載せ、身を乗り出した。「上海で阿片をさばくには、青幇を通さなきゃ殺される。譚さんなら青幇に知り合いがいるだろう。話をつけてほしい。取り引きが成立したら謝礼を渡す」
譚中方は言った。「青幇が、おまえさんに金を払うと思うのかね」
「今回は分け前がゼロでもいい。譚さんにはおれの懐から謝礼を出すよ。おれが本当にほしいのは、この阿片の代金じゃない。これをきっかけに青幇と知り合って、この町での暮らしを楽にしたい」
「なるほど。もう、そこまで踏み込む気か」
「おれは、この町を流れている『地下水脈』に触れたいのさ。桁外れの儲け話があるのはそこだろう」
譚中方は容器の蓋を閉じて言った。「早ければ今日中にも連絡がつき、明日には会える。もっとも、わしが話をつけられるのは昔ながらの小さな組だ。あんまり期待せんほうがいい」
「わかってる。顔つなぎだけでいい。あとはこちらで努力する」
「うまくやれ」譚中方は珍しく真面目な顔で言った。「彼らに真摯な敬意を示せるなら、おまえだって青幇の門下に入れるかもしれん」
次郎は、まじまじと譚中方の顔を見返した。「日本人が門下になれるって? 冗談だろう?」
「日本人にも義や侠を尊ぶ気持ちがあるではないか。義を貫き、侠としての誇りを守るのが青幇だ。それができるなら、民族の違いなど問題にはならん。ただ、今回は阿片がらみの話だ。よくよく注意しておくんだぞ。うまい話ほど破滅の始まりになるものだ。こいつを売りに来た女は、おまえさんにとって疫病神か死神なのかもしれん」
「ありがとう」次郎は、にやりと笑った。「まあ、せいぜい気をつけておくよ」