食事が終わったあと、ベッドに倒れ込んでしばらく眠った。
 目が覚めたときにはすでに真夜中だった。
 無理もない。日付変更線を越えて、ここまでやってきた。飛行機の中で少しは眠ったが、そのあとは起きっぱなしだ。指先まで疲れ切っている。
 ただ、心地よい疲れなのは事実だ。
 仕事をやめてからは、立っていられないほど疲れたことなどなかった。身体が疲れなくなった代わりに、心にぬるぬるとしたものがまとわりついて蓄積していく。
 不思議なことに、身体が疲れた分、その心の澱が流されたような気がするのだ。
 きてよかった。少なくとも今はそう思っている。
 だれもぼくの過去になど関心を持とうとしなかった。どうして教師を辞めたのかと聞かれたら、どう答えようかとばかり考えていたのに、ここにくるまでになにをしていたかも聞かれなかった。
 桑島さんがいたから、ぼくに好奇心を向ける暇がなかったという可能性もあるが、それでもいい。
 今はできるだけ、どうでもいい存在でありたかった。
 ふと気づく。今日、夕食時に会ったのは、佐奇森と蒲生。だが、和美さんは車の中で、男性が三人泊まっていると言わなかっただろうか。
 いや、夕食を食べなくてもおかしくはない。外で食べてきたかもしれないし、時間をずらして自炊しているかもしれない。
 宿とはいえ、ここはユースホステルではないし、交流を望まない人間もいるだろう。もちろん、ただ出かけていただけかもしれない。
 窓を開けると、心地よい風が吹き込んでくる。
 部屋に冷房がないことを、最初は不安に思ったがこうやって夜になってみるとよくわかる。冷房など必要はないのだ。
 夜半過ぎの風は、むしろ肌寒いほどだ。日本の夏は、夜になっても熱気が残っているが、この島の暑さは、日のあるうちだけだ。
 日が沈むと同時に、地面も空気も冷える。
 それにしても静かだ。信じられないほど静かだ。
 椰子やしの木を揺らす風の音以外、なにも聞こえない。外は闇に塗り込められているが、音もまたどこかに封じ込められてしまったようだ。
 ふいに、水音が響いた。
 決して大きい音ではないのに、この静けさの中でははっきりと聞こえる。
 水音は続いている。水を打つような音だった。まるで泳いでいるような。
 そういえば、ホテルの横に小さいながらもプールがあったことを思い出す。
 だれかがこんな時間にプールで泳いでいる。不思議だが、音からはそうとしか思えない。
 いつの間にかすっかり目が冴えてしまっていた。ベッドから起き上がり、おそるおそるドアを開けた。
 ドアの外に出て驚いた。夜なのに明るい。
 いや、もちろん街灯で照らされた東京の夜よりは暗い。だが、なにひとつ灯りがないにしては明るすぎる。
 空を見上げて気づく。月だ。月がすぐ近くにある。
 満月だった。手を伸ばせば届きそうなほど空が近い。
 ぼくは息をのんで、空を眺めていた。
 ハワイ島は星が美しいとは聞いていた。各国の天文台もマウナケアという山にあり、島全体が星の観測のため、街灯を控えめにしているらしい。
 だが、思ったほど星は見えない。月のせいだ。
 月が大きすぎて、星がかき消されているのだ。
 ぼんやりと見とれていると、下から声がした。
「新入りか?」
 見下ろせば、プールで立ち泳ぎをしながら男がこちらを見ていた。
 はっきりと姿は見えないが、声の響きからは若い。たぶん、ぼくと同じくらいだ。
 名乗ろうかと思ったが、こんなお互い顔の見えない状況で名乗っても仕方がない気がする。
 とりあえず、「そうです」と答えた。
 彼はまた泳ぎはじめた。戸惑いながら、それを見下ろす。
 プールの端までたどり着くと、プールサイドに上がり、身体を拭く。痩せたシルエットが月明かりのせいで、長く伸びる。
 黙って見下ろしているのも妙な気がして、尋ねた。
「寒くないんですか?」
 返ってきた返事はシンプルだった。
「寒い!」
 身体をぬぐい終わると、パーカーのようなものを羽織って、階段を上がってくる。
 やっと顔が見える。想像したとおり、ぼくと同い年くらいの男だった。長めの髪を後ろでまとめている。
 ぼくは笑った。
「寒いのに泳ぐのか?」
「日焼けするのがいやなんだよ」
「美白?」
 からかうように言うと、大げさに顔をしかめた。
「日に焼けると、体中が痛くなる。真っ赤になって因幡いなばの白ウサギみたいになる」
 そう言われてはじめて気づいた。近くで見た彼の皮膚は、病的なくらい真っ白だった。身体には適度な筋肉がついているが、ここまで色が白いと確かに日焼けはきついだろう。
 彼は、廊下の手すりに身体を預けてこちらを見た。
「これから三ヶ月いるのか?」
「ああ、そのつもりにしている。きみは?」
 彼は顎のあたりに手を当てて、息を吐くように笑った。
「俺は……あと一ヶ月ってとこだな……」
 なぜか彼の口調に、嘲笑のようなものが潜んでいる気がした。
 彼はパーカーの前を合わせて身震いをした。唇が白い。
「やっべえ、こんなところにいたら風邪引く」
 彼は自分の部屋のドアに手をかけて、鍵を開けた。ぼくの隣の隣の部屋だった。
 部屋に入る前に、彼はこちらを見て笑った。
「楽しみにしてろよ。きっとおもしろいものが見られる」
「え?」
 聞き返す間もなく、ドアは閉まった。名前を聞き忘れたことに気づいたのは、そのあとだった。

 

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