頑張った自分へのごほうびに、美味しい料理を食べる人がいれば、好きな小説の世界にどっぷりと浸かる人もいる。その両方を一度に楽しめたらどんなにいいだろう──。
 そんな夢のような、まさに読んで美味しいアンソロジーが発売!

 発売を記念し、推理小説研究家・山前譲さんによる文庫解説を特別公開! 『ミステリな食卓 美味しい謎解きアンソロジー』の読みどころをご紹介する。

 

 

 

■『ミステリな食卓』 碧野圭ほか /山前譲[評]

 

 生物学的に食べるという行為は必須である。ただ、人類はそこに「味」というファクターを加えていった。メディアにはいわゆるグルメをテーマにしたものがありふれている。人気の飲食店には行列ができているし、さりげなく何十年と営業してきたお店にもスポットライトが当てられている。そしてミステリーでも──。

 いろいろなところから情報を得て美味しい料理を堪能するのは醍醐味だが、住んでいるところの近くで思わぬお店に巡り会うのも嬉しいのではないだろうか。近藤史恵「苺のスープ」(双葉文庫『ときどき旅に出るカフェ』収録)の瑛子は、自転車に乗ってスーパーに行こうとしていたら、カフェ・ルーズが目に留まった。入ってみるとメニューには見たことのない飲み物やお菓子がたくさん!

 そこに声をかけてきた店主は、なんとかつて同じ会社で働いていた女性、葛井円だった。旅に出られるカフェというのがコンセプトとのことなので、珍しい外国の飲み物と出会えるお店だったが、瑛子は円にちょっと気になることを相談する。タイトルにある苺のスープとは北欧で食べられるものだという。『ときどき旅に出るカフェ』では、円が色々なところへ旅して味わったものを自分のカフェで提供しているのだ。作者には小さなフレンチレストランを舞台にしたシリーズもある。

 日本人の主食はやはりお米だろうが、麺類についていろいろ蘊蓄を語る人も多い。新津きよみ「雲の上の人」(徳間文庫『セカンドライフ』収録)は長野県上田市の蕎麦屋「名月庵」に生まれた姉妹、亜美と裕美の物語である。

 大手航空会社で客室乗務員をしていた亜美は、客室品質企画部への異動を命じられ、失意のうちに実家へ帰る。一方、蕎麦屋を手伝っている裕美は、二年前に別れた嶋田が突然店に入ってきて動揺するのだった。ふたりの揺れ動く心理が絡み合い、ミステリーとしての仕掛けが織り込まれていく。

 古くは飢餓に備えての雑穀扱いだったという蕎麦だが、姉妹の父で「名月庵」の店主である西沢修平が、「うまいそばさえ打っていれば客は来る」を信条にしているように、こだわりの店が多くなった。とくに長野県は蕎麦が有名である。「信州そば」は長野県信州そば協同組合が商標登録していて、長野県は選択無形民俗文化財「信濃の味の文化財」に指定しているというのだから、長野県を訪れたなら蕎麦を食べないわけにはいかないだろう。「名月庵」の西沢修平にはふたり姉妹しか子供はいない。誰が継いでくれるのか。そのあたりもちょっとスリリングだ。

 有名なシェフのお店でおいしい料理──それはやはり贅沢だろう。だが、家庭料理が日常の食生活であるのは間違いない。碧野圭「はちみつはささやく」(だいわ文庫『菜の花食堂のささやかな事件簿』収録)は大人気の料理教室の様子から物語が始まる。それは東京郊外、武蔵野にある「菜の花食堂」のオーナーの靖子先生が定休日に月二回やっている教室なのだが、彼女のちょっとしたアドバイスがじつに絶妙だ。きっと参考になるに違いない。

 そこに通っていた二十四歳の女性が欠席するようになった。結婚を意識している恋人が、「菜の花食堂」の味を気に入ったというので、料理教室に通い始めたはずなのだが……。なんとも料理というのは難しいと思わせる展開だ。料理教室だけではなく、新鮮な野菜たっぷりの料理がおいしいと評判の「菜の花食堂」のシリーズは、『菜の花食堂のささやかな事件簿』が第一作で、それからお店に来る客の相談を解決するいわゆる日常系ミステリーとなっていく。料理というテイストが加わることでより身近な謎解きとなっている。

 やはり料理教室が発端だが西村健「バスを待つ男」(実業之日本社文庫『バスを待つ男』収録)はちょっと悲哀感が漂う。主人公は元警視庁刑事だ。再就職先も辞めて1日をどう過ごしていいか分からない。そして妻が自宅で料理教室を始めた。居場所がなくなったからと外に出るのだが、利用したのはシルバーパスである。なんの目的もなく乗り、かつて通った居酒屋で酒を──いや、なんだかうらやましい。

 いつのまにか毎日行き先も決めずにバスに乗るようになった主人公だが、シリーズの第一話である「バスを待つ男」はかつて関わった事件に所縁の駅前のバス停で目撃した白髪の男から謎解きが始まる。このシリーズは第二弾の『バスへ誘う男』から思いも寄らぬ展開をとっていくのだが、おいしい西村作品には九州のラーメンをたっぷり味わえる〈ゆげ福〉シリーズがある。

 それにしても“料理は手が込んでいるからよい、というものではない。素朴な料理を美味しくさせることの方が難しいのだ。だからこれから自分は一見、簡単でありながら本当に奥深い味をこそ追求してみるべきなのかも”と言う主人公の妻はうらやましい。

 そんな家庭料理がそそっているのは太田忠司「ミステリなふたり」(幻冬舎文庫『ミステリなふたり』収録)だ。デビューして間もないイラストレーターと、年上の刑事の夫妻の軽妙な会話から始まる物語を彩るのは、捜査に疲れた妻をもてなす夫の料理だ。今日のメインは肉じゃがだったが、ある事情でそれは焦がしてしまうのだった。

 肉じゃがの発祥についてはいろいろ説があるようだ。東郷平八郎が作らせたからと舞鶴市が一九九五年に「肉じゃが発祥の地」と宣言したというが、いわゆる「おふくろの味」として、そして豚肉と牛肉のどちらを使うかなど、日常的な料理のわりには議論沸騰である。いずれにしても砂糖と醤油で甘辛く煮詰めた料理が日本人好みなのは間違いない。

 そしてイタリアンレストランなのに、斎藤千輪「京都の加茂ナス」(ハルキ文庫『トラットリア代官山』収録)の前菜はナス! 鈴音がよく足を運んでいるレストランは味は格別でリーズナブルだ。しかも居心地が素晴らしいというのだから、誰もがこんなお店が近くにあったら、と思うに違いない。

 そのお店の店主と若きシェフの間の微妙な雰囲気を背景に謎解きが展開されていくのだが、素材だけが書かれたお任せのコース料理がミステリアスだ。前菜の「加茂ナス、フルーツトマト、ブッラータ」ってなに? 加茂ナス、あるいは賀茂ナスと呼ばれる丸いナスは京都の特産品で、「京の伝統野菜」に認定されているそうだ。また「ナスの女王」とも言われているそうだが、栽培はなかなか手間が掛かるらしい。それがどんな前菜になるのだろうか。

 もちろんミステリーとしても味わいたっぷりだが、斎藤作品にはほかに〈ビストロ三軒亭〉シリーズ、〈神楽坂つきみ茶屋〉シリーズ、〈グルメ警部の美食捜査〉シリーズとおいしい作品がメニューにラインナップされている。

 かつては海外に比べると「食」にこだわった作品が少なかった日本のミステリー界だが、このところおいしいミステリーが増えている。もちろん紙上のことだから、実際に味わうことはできないけれど、ここに収録した作品から堪能できるに違いない。