それは、新型コロナウイルスのパンデミックがはじまって、二年目の秋のことだった。
一年目は不安と恐怖に翻弄され、生活のなにもかも変わってしまうこと、死の不安が間近にあることに怯えた。二年目は一年目に比べると、ワクチンができたこともあり、ひりひりするような不安を感じることは減った。
代わりにやってきたのは、いつまでこの生活が続くのだろうかという、じれったさと、諦めの境地だった。
今のところ感染拡大は収まっているが、たぶん、また新しい変異株だとかが出てきて、感染者が増えることになるのだろう。そう簡単にすべてが元通りになるとも思えない。
それでも、みんなもういい加減に疲れてしまったのだろうし、うんざりもしたのだろう。少しずつ、感染に気をつけながら、生活を取り戻そうとしているように感じる。
今月に入ってから、やけに友達から、食事やお茶の誘いがくるようになった。
仕事関係の打ち合わせなどもよく入ってくる。無理もない。ほぼ、二年近く、人と会って話すことは推奨されていなかった。ようやく、会って話しても問題ないような空気が戻ってきたのだ。
旅に出たい人は旅に出るし、人と会いたい人は人と会うだろう。ただ、完全にすべてが終わったわけではない。ヨーロッパでは、もう何度目かわからない感染拡大が起こり、一度緩めた規制を再び強める方向になっていると言うし、またいつ感染者が増え、前のように人と会えなくなるかわからない。だからこそ、今のうちに、と、考えている人もいるのだろう。
奈良瑛子はというと、楽しみが減ったり、仕事がテレワークになったりと、環境の変化はあったが、それでも自分がこのコロナ禍では、比較的安定していて、守られている立場であることを痛感していた。
勤めている会社の業績は下がったが、それでもなんとかやり過ごし、ここから巻き返しをはかろうとしているような状況で、すぐに大きなリストラがあるような様子はない。一人暮らしだから、自分さえ気をつけて感染対策を取っていれば、家族から感染することもない。子供や老人など、うつしたくない人と生活しているわけでもないから、少しは気が楽だ。なにより性格的にも、ひとりで過ごすのが苦にならない方だ。
もちろん、まったく不安がないわけではない。感染者が多いときには、コンビニに行くのも怖かったし、一人暮らしであるがゆえの気楽さは、もし感染したとき、誰にも看病してもらえないということと、背中合わせだ。
だが、看護師をやっている友達が、毎日へとへとになるまで働いたり、家を出てウィークリーマンションのようなところで、不自由な一人暮らしをしていることを聞いたり、飲食店や旅行関係で働いている人たちが、直接大きなダメージを受け、仕事を続けられるか、下手をしたら借金を負うことになるかもしれないという苦悩を、SNSなどで発信してたりするのを見ると、胸が痛む。
瑛子の不安など、たいしたことではない。
ともかく、完全に収束したわけではないが、今は良い兆しが見えていて、そのことに安心している。ひさしぶりに、深い水の中から出て、息をついたような気持ちだ。
ただ、ひとつ気になっていることがある。
カフェ・ルーズが閉まったままなのだ。
カフェ・ルーズは、瑛子の自宅マンションの近くにあるカフェだ。
オーナーの葛井円が、たったひとりでやっている。彼女とは、昔、少しの間だけ一緒に仕事をしていたこともあり、自然に足繁く通うようになっていた。
もちろん、居心地が良く、飲み物やスイーツがおいしいという理由もあった。
カフェ・ルーズのいちばんの特徴は、円があちこちを旅して知ったいろんな国のスイーツや飲み物を再現して出しているところだ。作るのが難しいドリンクなどは個人で輸入したりもしていたらしい。
新型コロナの感染者が世界で少しずつ増え始めた頃、カフェ・ルーズを訪れると、円は険しい顔をしていた。
「アルムドゥドラーが届かないんです。オーストリアからは発送されているのに、どこかでコンテナが止まってしまっていて……」
アルムドゥドラーという不思議な名前の飲み物は、オーストリアの炭酸ドリンクだ。甘すぎず、爽やかなハーブの香りがして、瑛子のお気に入りだった。
船や飛行機も感染症の影響を受けているのだろう。ちょうどその頃、日本でも感染者の出た豪華客船が帰港したことなどもあり、社会全体がぴりぴりしはじめていた。
その後、突如としてイベントなどが中止になり、学校も休校になった。
円もしばらくカフェの営業をやめ、テイクアウトのみでやっていくと話していた。
「正直言うと、きついです。うち、けっこう、夜の時間帯の売り上げが大きかったから……」
夜になると、カフェ・ルーズは落ち着いたバーになる。食べ物のメニューはカレーやパスタ、パニーニくらいだが、珍しいお酒などもあり、お酒は飲みたいが騒がしいのが嫌いな客が、よく訪れていた。
瑛子も、仕事帰りに立ち寄って、一杯だけ飲んだり、食事をしたり、円おすすめの珍しいスイーツを食べたりしていた。ともかく、遅くまでやっていることが便利なカフェだったのだ。
瑛子が心配そうな顔をしていたのだろう。円はリスを思わせるような前歯を見せて笑った。
「大丈夫です。うちみたいな店は意外にしぶといですよ」
カフェの土地は、彼女が祖母から受け継いだもので、そこに建物を建てたから、家賃を払う必要もなく、働いているのも彼女ひとりだ。
たしかに、こういう事態が起きたときは、息をひそめてやりすごしやすい営業形態かもしれない。
だが、彼女だって霞を食べて生きているわけではない。いつまでも、というわけにはいかない。
しばらくは、カレーや、お気に入りのスイーツをテイクアウトしていた瑛子だったが、仕事はテレワークになり、買い物もネットスーパーなどを利用するようになってしまうと、そもそも外に出ることがなくなる。
ひどく暑い夏がきて、散歩すらしなくなり、その後感染者が急に増えて、医療逼迫などがマスメディアで騒がれるようになると、なんだか怖くなって家に籠もるようになってしまった。
健康によくないことはわかっていたが、不用意に出かけて感染したくはない。暑いせいか、マスクを外して、騒いでいる若者たちをよく見かけたり、中高年でもマスクをせずに話しかけてくる人がいた。
たぶん、その頃になると、瑛子も気持ちが参ってしまっていたのだと思う。
直接の知人で感染した人も何人かいたし、日々、増えていく感染者と死者のニュースで頭がいっぱいだった。自分は比較的安全で守られているから、愚痴など言ってはいけないという気持ちもあった。
自然と、カフェ・ルーズからも足が遠のいていた。
ようやく、好きなロシア風チーズケーキでもテイクアウトしようと思い、カフェ・ルーズに向かうと、そこには一枚の張り紙があった。
「しばらく休業致します」
その後も、何度も前を通った。ブラインドの下りた店の中を覗こうとしたこともある。
だが、いつになっても張り紙はそのままで、ブラインドは下ろされ、明かりもついていない。
円はどこにいってしまったのだろう。
もちろん、しばらく休業するのは不思議なことではない。だが、心配なのは、彼女が感染して重い症状に悩まされていたり、もしくは他の理由でも体調を崩していたりはしないかということなのだ。
親しく話す関係になっていても、彼女個人の電話番号などは知らない。店に行けばいつでも会えるのだと思っていた。
今思えば、瑛子が不安に苛まれて家に籠もっていたとき、円も瑛子以上に不安で、難しい状況にいたはずなのだ。それなのに、瑛子は円のことを少しも考えなかった。感染が落ち着いてから、またカフェ・ルーズに行けば、変わりなく円が笑っているのだと勝手に信じ込んでいた。
そのことに、どうしようもなく胸が痛むのだ。