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二章 松尾象山

 

5(承前)

 

 ちいん、

 と、高い金属音があがった。

 ふたつの飛寸が、宙で触れ合ったのだ。

 ふたつの飛寸の飛ぶ方向が、それで変化した。

 翁九心が蹴った飛寸は、久我重明の左頬の横を抜けて、背後の地に落ちた。

 久我重明が放った飛寸は、翁九心の右肩のすぐ上を抜けて、やはり背後の地に落ちた。

 ふたりとも、立ったまま、向かってくる飛寸を避ける動作をしなかった。

「試して、気がすんだかね」

 翁九心が言う。

「まあね」

 久我重明が答える。

「影踏み、おもしろい技だが、たぶん二本同時に上に投げた方が、系が複雑になっておもしろくなる……」

「ああ」

「で、どうする?」

「どうするって?」

「やるのかね、やらないのかね。まだ、きみは答えてないよ」

「そうだったな」

「やるかね」

「さて――」

 つぶやいて、久我重明は、沈黙した。

「どうするね」

「あんたが決めればいい」

 久我重明は言った。

「わたしが決めていい?」

「ああ」

「珍しいね。そんなことを言われたのは、久我くん、きみが初めてだよ」

「やる気がないなら、そう言えばいい」

 ここで、当初と、翁九心と久我重明の立場が逆転していた。

 やるかやらないかを、翁九心が預けられたかたちになった。

「ああ、嬉しいねえ、丹波くん。久我重明とやるかやらないかを、わたしが決めていいんだって――」

 翁九心の唇に、笑みが点っている。

 何かしら、背筋がうそ寒くなるような笑みだった。

 ジャンキーか。

 文七は、そう思った。

 この男も、中毒なのだ。

 闘いの中毒。

 その相手は、強ければ強いほどいい……

 それならば、自分だって同じだ、と文七は思う。

 こいつとやりたい。

 翁九心と。

 そもそも、そのために、ここへ来たのではなかったか。

 なのに、どうして自分は、引いてしまったのか。

 今、あらためて、ここで、やると宣言すれば、翁九心はつきあってくれるのか。

 久我重明と翁九心の間に入って、

〝おれがやる〟

 そう言えばいいのだ。

 一瞬、強いその思いが、背後を疾り抜ける。

 その時――

〝本気か、丹波……〟

 文七の脳の奥――いや、胸だ。胸の底の底の方、そこに声が響いた。

〝おれとやる前に、そいつと……〟

 姫川の声だった。

 ああ、違う。

 それは、自分の声だ。

 そうだ。

 さっき、翁九心から、やるのかやらないか問われた時も、この声が、心のどこかに響いたのではなかったか。

 それで、決心がつかなかったのか。

 姫川との決着が、まだついていないのではなかったか。

 いいや、決着はついている。

 おれは、姫川との闘いで、あの時、脱糞したのではなかったか。

 あの時の、自分の糞の臭いはまだ覚えている。

 忘れちゃいない。

 自分は、もう一度、姫川とやらねばならないのだ。

 それまで、誰にも負けずに――

 ということは、今、ここで翁九心とやると、自分が負けるかもしれないと、おれは考えていることになる。

 まさか。

 おれは、誰とやる時だって、自分が負けると思って、向き合ったりはしない。

 今だって、そうだ。

 やるか――

 その思いが、ふくれあがってくる。

 姫川とやる前に、自分は誰にも負けちゃいないんだ。

 相手が、この翁九心であっても。

「おやおや……」

 翁九心の声が響いた。

「丹波くんの顔色が、また、変わってきたねえ。それは、考えを変えたってことなのかい」

 文七を見た。

 誘うような眼だった。

 文七から視線をそらさぬまま、

「わたしは、少ししゃべりすぎかな……」

 ひとり言のように、翁九心がつぶやく。

「こうして、ふたりも、カキダミシの相手がわたしのところへ来てくれたんだ。それが妙に嬉しくてね、ついつい饒舌になってしまうんだ……」

 翁九心は、ふっ、と息を吐き、

「決めたよ……」

 つぶやいた。

「丹波くん……」

 文七に向かって言った。

「もう、五歩くらい、退がってもらえるかい……」

「五歩?」

「ああ」

 そうか翁九心は、自分ではなく、久我重明を選んだということか。

 屈辱的な提案じゃないか。

「いいぜ……」

 文七は、五歩退がった。

 これで、十分な距離ができた。

 いいさ、勝手にふたりでやるといい。

 そのかわり、決着がついて、どちらが残っていたとしても、その残った方に、自分はたまらずに襲いかかってしまうかもしれない。

 残った方が、たとえ、どれだけ傷ついていたとしてもだ。

 翁九心は、文七に対して半身になっていた身体を動かして、久我重明に対して半身になり、視界の中心に久我重明を置いた。

「どちらかが、死ぬかもしれないが……」

 翁九心の眼が、いつの間にか半眼になっている。

「やろうか、久我くん……」

 翁九心が、ぼそりと言った。

 腰を落としもしなければ、手を持ちあげて構えもしなかった。

 それは、久我重明も同じだった。

 ただ、そこに立って、翁九心を見つめているだけだ。

「ゆく……」

 翁九心の身体が、ゆるり、と前に出た。

 速くない。

 もう、身体や関節のあちこちが硬くなった、九十歳の老人が、散歩の途中で立ち止まり、腰を叩いてのびをし、そして再びまた歩き出す――そういう速度よりもさらにゆっくりとした動きだ。

 一歩……

 二歩……

 まだ、間合の外だ。

 通常の歩幅で言えば、間合まで一歩半の距離があったのだが、二歩進んで、まだ間合の外にいる。それは、翁九心の歩幅が短かったからだ。

 さらに一歩……

 そこが、間合ぎりぎりだ。

 しかし、久我重明は動かない。

 間合をもっととりたければ、退がるか、横に動くか――あるいは攻撃するか、何らかのアクションをする必要があった。

 しかし、久我重明は動かない。

 おそるべき胆力である。

 自分だったら――

 と、文七は思う。

 自分だったら、今の久我重明のような真似ができるか。

 できないだろう。

 自分だったら、退がるか?

 いや、退がりもしないだろう。

 自分だったら、迫ってくるものの圧に耐えきれずに、先に攻撃をしかけてゆくところだ。

 しかし、久我重明は、まだ動かなかった。

 黒い視線を、翁九心に向けているだけだ。

 次は――

 一歩ではなかった。

 半歩だ。

 半歩踏み出しながら、翁九心は、ふわりと右手を持ちあげ、前に出した。

 掌を、久我重明の方に向けている。

 その掌――掌底が、つうっと前に出てゆく。

 速くない。

 おそろしくゆっくりとした動きだった。

 小学生でもかわせる速度だ。

 しかし、久我重明は、足も、上体も、頭部も動かしはしなかった。

 しかし、避けなければ、間違いなく当る。

 何故、久我重明は逃げないのか。

 文七には、もう、わかっていた。

 逃げたら、その逃げた方向に、掌底が追ってくるからだ。

 ゆっくりした速度で掌底を前に出しているからこそ、逃げた頭部を追うことができるのである。

 退がったり、横へ逃げたり、そういうことをこれまでできなかったのも、速度がゆっくりだったからだ。

 このままだと、避けることのできない距離まで掌底が近づいてきて、いきなりその速度があげられれば、当てられてしまうことになる。

 寸頸、ワンインチパンチ、どう呼んでもいいが、至近距離から、ダメージのある打撃を当てる技術はこの世に存在するのである。

 しかし、久我重明は、動かなかった。

 いや、それは、上体や頭部、足を動かさなかったという意味であり、動いたものはあったのである。

 それは、久我重明の右手だった。

 久我重明は、右手をすうっと持ちあげ、その掌を翁九心に向け、迫ってきた翁九心の掌を、自分の掌で受けたのである。

 ふたつの掌が接触したその瞬間、

 ぱあん、

 という、鋭い音がはじけた。

 互いに、どれほどの速度でもなかったはずなのに、いったいどのような力がふたりの間で交されたのか。

 寸頸どうしが、ぶつかりあったのか。

 その時――

 ふたりの間に距離ができていた。

 互いに、半歩ずつ退がっていたのである。

 間合ぎりぎりの、その縁に互いに立って、ふたりは向きあっていた。

「おもしろいねえ、久我くん……」

 翁九心がつぶやく。

 その唇が、どうやら笑みを浮かべているらしい。

「次は、きみの番だね……」

 翁九心は言った。

 その時――

「何やってんですか――」

 声が響いた。

 男の声であった。

 文七は、その声の方を見た。

 そこに、男がひとり立っていた。

 斧を打ち込んである切り株の向こう、積みあげた薪の横に、その男は立っていた。

 身長、一八〇センチを充分に越える肉体を持った男だった。

 胸は厚い。

 ジーンズに、Tシャツ。

 そして、男は、両肩に一頭の鹿の屍体を背負っていた。

 角があるところを見ると、雄の鹿らしい。

 男のTシャツの、肩から胸にかけて、血で濡れていた。

 鹿の血であるらしい。

 男は、笑みを浮かべている。

「楽しそうなこと、やってるじゃないですか」

 男は、言いながら歩き出した。

 斧が打ち込まれた切り株のところで、男は、肩から鹿を地に投げ落とし、そのまま歩いてきた。

 三人の手前で足を止め、

「もしかして、こちら、久我重明さんと、丹波文七さん?」

 そう言った。

「二対一は、ないんじゃないの」

 三人を見つめ、

「師匠、手をかしますよ」

 一歩、前に出てきた。

「弟子にした覚えはない……」

 翁九心はつぶやいた。

「そんな……」

 笑みを消さずに、男は、左手を右手の中に包みこんで、指を鳴らした。

 金村良平であった。

 

(つづく)