四章 道田薫
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犬を狩るのは、素手だ。
棒などを握っていては、まず、犬を狩ることはできない。
実際に対峙すると、犬は、人が想像するより、三倍か四倍は素早い。それが、薫の体感だった。
逃げる犬には、たとえ棒や日本刀を持っていても、傷を負わせることはできない。
向かってくる犬なら、棒――木刀を持っていれば、叩くことはできる。しかし、最初の一撃で致命傷を負わせることは、かなり難しい。
ただ、叩いただけでは、逃げてしまう。
敵わないと見れば、犬は、すぐに逃げてしまう。
犬は頭がいい。
バットは、致命傷を負わせるには優れた武器だが、それは最初の一撃を加える時だけで、たとえ両手で持っていても、バットは重くて、一撃目が失敗した時、次の二撃目にゆく時、動きに遅れが生じてしまうのである。これでは、犬の動きについてゆけない。
片手だと、バットは重すぎて、一撃目でさえ、動きが鈍くなる。
それに、犬は、木刀もバットも、手の延長として考えることができるので、素手の時と得物を手にしている時では、犬の間合のとり方が違うのだ。
これが、薫の実感である。
だから、素手でやるのである。
素手の方が、達成感が大きい。
脳内にいる母親の声も、喜びに満ちたものになる。
「薫ちゃん、凄いわ」
男根の勃起度も大きくなる。
だから、素手。
こちらも傷を負うし、噛まれたりしたら、猫とは比較にならない怪我を負わされることになる。
薫のこだわりは、素手だ。
北辰館の、松尾象山は、素手で牛を殺したことがあるという。
噂だから、本当か嘘かはわからないが、薫は事実だと思っている。
松尾象山、まだ、二〇代のはずだ。
それで、自流を起こし、他流派参加自由のオープントーナメントを昨年から始めて、話題となった。
犬を、あと一頭食べたら、東京へゆく。
秋に開催される北辰館の、トーナメントに出場して、そこで優勝するのだ。
そして、松尾象山も倒す。
自分は、別に流派などは起こさない。
日本一、いや、世界一強い男の称号が欲しいだけだからだ。
松尾象山を見よ。
北辰館の連中は、強い。
多流派の名のある錚々たる連中が北辰館のトーナメントに出場して、誰も二回戦へ出場できなかったではないか。
北辰館のトーナメントで優勝するには、北辰館に入門して、そこの技術を盗むことだ。北辰館で、北辰館ルールに馴じむ必要がある。北辰館の内部でのしあがる。しかし、そんなことは、自分はしない。
考えてみればいい。
松尾象山は、北辰館の頭に君臨しながら、北辰館の流儀を学んでいないではないか。
キリストが、キリスト教徒でなかったことと同じだ。
そういうひとりに、自分はなればいい。
なれる気がしている。
だから、四頭目の犬を食って、この土地を出てゆく。
人の一生は短い。
その中で、やれることは限られている。
金を稼ぐことに、興味はない。
そんなことは、父の泰三と兄の典明にまかせておけばいい。
しかし――
何夜か通ったのだが、もう、犬は寄ってこなくなっていた。
知っているのだ。
この自分が、彼らの仲間を殺して食っていることを。
まだ、何頭かは、この河原に居ついている犬がいるはずなのだが、気配も感じられない。
草の中に身を沈めて、犬が近づいてくるのを待っている。
すぐ、近くには、牛の生肉を置いておいた。匂いに敏感な彼らは、もう、この匂いに気づいているはずだ。
しかし、彼らは同時に、自分のこの臭いにも気づいているはずだ。仲間を殺して食った、この道田薫の臭いに。
だから、寄ってこないのだろう。
月が、雲の中に出たり入ったりしている。
ほぼ満月に近い月だ。
すぐ向こうを流れる赤石川の瀬音と、風が草を揺する音が響いている。
犬の気配はない。
今夜は、もう、あきらめようと思いかけた時、頭上を光が薙いだ。
少し下流にある橋のあたりから、車が土手の上にある道に入ってきたのだ。
何事かと思っていると、土手から河原の方へ、その車が降りてきた。下まで降り、そこで車は停まった。
ヘッドライトが消えた。
そして、エンジン音も消えた。
ドアが開く音、閉じる音。
何人か、人がその車から降りたらしい。
こちらへ、足音が近づいてくる。
釣り人が、川岸へ出るため、歩く道が草の中にできているのである。
河原の石がごろごろと転がっている道だ。
月明りに見ると、人数は、四人。
いずれも無言だ。
薫は、頭を下げて、草の中へさらに身を沈めた。
ただならぬ気配が感じられたからだ。
途中で、足音が止まった。
そこで、人が踏んでできた道が終って、そのあたりが少し広くなっているのである。
ランドクルーザーなど、悪路走行が可能な車は、そこまで来て方向転換をする。そのためにできた広場だった。
その広場のすぐ横に、赤石川の川岸があるのである。
薫がいるのは、その広場から、草の中を少し歩いたところだ。
四人は、ここまでやってくるつもりはないらしい。
薫は、四つん這いになって、草を分け、彼らのいる広場の少し手前まで進んだ。
そこで、足を止める。
草の中から覗くと、そこに、四人の男が立っていた。
ひとりの男が、川を背にして立ち、三人の男が、半円形にその男を囲んでいる。
いったい何事が、そこで起ころうとしているのか。
見ただけでわかるのは、三人の男が、川を背にして立つひとりの男に対して、何かをしようとしていることだ。
川を背にした男と、この三人の男たちの間に、何かのトラブルがあって、このひとりの男がここまで連れて来られたというところだろう。
話し合いで収まるようなトラブルではないらしい。それならば、こんなところまでやってくる必要はない。
これからここで始まるのは、ひとりの男に対するリンチだろう。
さもなくば、殺人かもしれない。
そう考えた時、薫の股間のものは、いきなり大きくなり、硬度を増した。
心臓の鼓動が早くなったのがわかる。
三人並んだ男のうち、中央の男が、右手を軽く持ちあげ、どうやらその手に握られているのは、拳銃らしい。
川を背にしているのは、二〇代か三〇代かとも見える人物であった。
月光の中に立っているその姿に、怯えのようなものは、なかった。
落ち着いているように見え、むしろリラックスしてさえいるようであった。まるで、煙草を吸うためにだけ、この河原までやってきた人物のようであった。
緊張し、興奮しているように見えるのは、三人の男の方だった。
中央で、拳銃を持っている男は、興奮をおさえているように見える。
拳銃を握った男の右側の男は、両手でバットを握っていた。この男が、今にもキレて、バットで、川を背にした男に向かって、殴りかかっていきそうであった。
拳銃を持った男の左側の男は、ただただ大きかった。Tシャツを着ていた。
胸の分厚い筋肉を、Tシャツの生地が包みきれずに、裂けそうになっている。
レスラー体形だ。
何かの運動、ことによったら格闘技をやっているのは、ほぼ間違いがない。
三人の男たちの誰かが、今にもキレて、何かが始まってしまいそうだった。
当然、最初に声をかけるのは、三人の男たちのうちの誰かと思われたその時――
「馬鹿だな……」
川を背にした男が、ぼそりとつぶやいた。
乾いた、落ち着いた声だ。
「なんだと!?」
バットを持った男が、バットを斜め上に持ちあげて言った。
「おれを、こんなに人気のないところに連れてきたからだよ。おまけに、拳銃まで用意してきたじゃないか。こっちは素手だからね。手を抜くことができない。安心して好きなことができるじゃないか――」
「好きなことだと!?」
「ああ」
男の声は、静かで、はっきり言えるのは、そこにいる人間たちの中で、誰よりも落ち着いているということだ。
「ここで、謝ったって、もう遅いよ」
「なに!?」
「下げた頭の後ろへ、このバットを打ち下ろしてやろうか」
男たちのテンションがあがった。
「あんたを殺して、顔を潰して、川に放り込んでおけば、あとはすぐに死体は海へ運ばれて、見つかってももう誰だかわからんようになる……」
「悪くない死にかただな」
「馬鹿か、あんた」
「馬鹿はあんたたちだな」
男は、ちょっと笑ったようだった。
「くたばれ!」
バットを持った男が真上からバットを打ち下ろした時、男は、頭上から落ちてくるバットをかわそうとしなかった。
すうっ、と男の右手が伸びて、頭上から落ちてくるバットを握ったのである。
コン……
バットの芯が、男の頭を打つ音が響いた。
小さな音だった。
男が、頭上でバットを掴み、落ちてくる勢いを殺してしまったのである。
たあん、
と、銃声が響いた。
「ぐわっ」
呻いたのは、バットを持った男だった。
男が、握ったバットを引いて、バットを持った男を、自分の前に引き寄せたのだ。
銃弾は、バットを持った男の背にめり込んだのである。
続いて、二弾目が発射され、それもまた、バットを持った男の背に潜り込んだ。
バットを持った男は、二度目には声をあげなかった。
そのまま、つんのめるように前に倒れ込んでいた。
水しぶきがあがった。
バットを持った男の顔が、水面を叩いたのだ。
そのまま、バットを持った男は、顔をあげなかった。
そして、バットを持った男の向こう側にいたはずの男は、バットを持った男が倒れた時、もう、その向こう側にいなかった。
男は、拳銃を握った男の右側にいて、拳銃を掴んでいる男の右手首を右手で握っていた。
男の左手は、拳銃を持った男の右腕の肘にあてられていた。
その瞬間、男の右手首が、異様な方向に曲がっていた。
「シャッ」
男の呼気が発せられた時、拳銃を持った男の身体が逆さになっていた。
そのまま地面に落とされた。
地面は石だ。
その石の上に、拳銃を持った男の頭部が、脳天からぶつかった。
拳銃を持った男は、声もあげなかった。
ただ、頭蓋の潰れるいやな音が響いただけであった。
拳銃は、すでに、男の右手に移っていた。
身体の大きな男は、この間、ほとんど動くことすらできずに、男を見つめていた。
男は、拳銃を、いったん身体の大きな男の方へ向け、
「つまらん……」
持っていた拳銃を、放り投げた。
水音がして、拳銃は川底に沈んだ。