序章 関根音
3(承前)
おれは、一瞬で覚った。
磯村露風が、どうしておれたちをここに連れてきたのかを。
どうして、食い物の食べ残しを、キャンプ地の一画にそのまま捨てていたのかを。
おれに、水ではなく、ペットボトルのオレンジジュースだけをくれたのかを。
どうして、ハチミツ味のドロップを、おれにくれたのかを。
みんな、熊の好きなものばかりじゃないか。
あいつがやったのは、全部、熊をここにおびきよせるためのものだ。
精神の集中のため、ひと晩起きて火を見つめるだって?
嘘をつきやがった。
そんなことで、強くなんてなれるわけはないじゃないか。
磯村露風は、おれたちを騙したのだ。
やつは、熊をキャンプ地に呼びよせて、おれたちと闘わせようとたくらんだのだ。
それだけのことが、ほんの一瞬で、おれの頭の中を駆け抜けた。
おれは、何か叫び声をあげていたかもしれない。
あげていなかったかもしれない。
そんなことは、何も意識していられなかった。
もしもあげていたとしたら、相当にみっともない叫び声であったろう。
おれは、いきなり上体を起こして、あらためて、おもいきりでかい声をはりあげていた。
「くわわわああああっ!!」
熊は、びくんと身体をすくませて飛びのいたが、逃げたわけではなかった。
すぐそこで、二度、三度、右と左に行ったりきたりして、また、おれの方に寄ってきた。
その時には、もう、おれは立ちあがっていた。
逃げた。
走った。
いくらも走らないうちに、おれはすっころんだ。
糞!
縄で、腰を縛られていたことを忘れていたのである。
背を向けて逃げるやつを、熊は追う性質があるなんてのは、後から知ったことだ。
倒れたおれが、半身になって起きあがろうとした時、上から、熊がのしかかってきて、おれの顔を、そのでかい掌で撫でてきた。
おとなしく撫でられたら、爪で顔の肉をごっそりもっていかれてしまう。
だいたい、熊は、人の頭部をねらってくることが多い。
撫でられる前に、おれは右足で、おもいきり熊の腹を蹴って、その身体を向こうへ押しやろうとした。
岩よりも重かった。
おれの右足を、熊が、片手で引っ掻いてきた。
それだけで、ズボンの布地が裂け、脛の肉をほじられていた。
そこへ──
「何か、あったんですか……」
やけにのんびりした声が聴こえてきた。
京野の声だった。
熊の向こうに見えるテントから、京野の顔が覗いた。
その声に、熊が反応して、そちらへ顔を向けた瞬間、おれは、熊の腹を、おもいきり右足の爪先で蹴っていた。
おそろしく堅かった。
生ゴムの塊りを蹴ったようなものだ。
あまり力を込めたために、右足首を挫いたかもしれない。
「熊だ、熊がきやがったんだよ!」
おれは、
〝助けてくれ〟
という、屈辱的な声を、危うく発するところだったのだが、我慢してそう言った。
おれに向きなおってきた熊の顔面に、もう一発蹴りを入れた。
鼻に、おれの蹴りが、まともに入った。
どうだ!?
熊は、
フン、
と、鼻を鳴らしただけだった。
いくらも効いたようには見えなかった。
「熊が」
京野の、落ちついた声が響く。
京野が、テントから這い出てきた。
この時には、もう、
「どうした?」
「Oh」
磯村露風と、ジム・ヘンダースンの声が聴こえて、それぞれのテントから、ふたりが這い出てくるところだった。
「熊のやつが来……」
おれは、そこまでしか言えなかった。
熊が、おれに向かって飛びかかってきたからである。
いいタックルだ。
思わず、足が出ていた。
前蹴りだ。
もう一度、顔面にぶち込んでやった。
こんどは、カウンターだ。
さっきよりは効くだろう。
しかも、二度目だ。
しかし──
止まらなかった。
とてつもない重さが、おれの蹴り足を押しもどしてきた。
おそろしいパワーだった。
体高は七十センチ近い。
体長は、百五十センチくらいか。
体重は、たぶん百キロを少し超えているだろう。
おれの方が上だ。
おれの方が身長も体重もある。
それなのに、おれの倍以上のパワーがある。
おれの方が、肉で負けている。
熊──ツキノワグマは、格闘技なんかやってない。
おれの方が技術はある。
なのに、今、負けているのはおれの方だ。
確かに、熊には爪も、牙もある。
だが、それだけじゃない圧倒的なパワーの差があった。
「ばかたれっ!」
おれは、仰向けに倒れながら、叫んだ。
おれの先輩の中には、熊と闘ったレスラーがいる。
リングの上だ。
試合だ。
熊と試合をした、先輩レスラーが、おれに、
「おい、関根、熊は凄ェぜ」
そう言っていたのを思い出した。
カナダの、カルガリーだ。
あそこでは、よく、熊と人間とが試合をさせられる。
熊は、ブラウンベアで、体長は二メートル五十センチはあるやつだ。
それより小さい、クロクマが相手になることもある。そいつだって、日本のツキノワグマより、ふたまわりは大きい。
口輪をつけ、前歯と牙はとってある。
前足の爪も切ってある。
しかし、後足の爪は切ってない。
そんな熊と試合をさせられるのだ。
この時だけ、レフェリーが代わる。
「このレフェリーな、実は、サーカスの熊使い、調教師なんだよ」
この調教師のレフェリーが、熊と人間の闘いを、なんとか試合っぽく作ってくれるんだが、どっちにしたって、相手は熊だ、ハンパないんだよ、パワーがさ。
爪のある後足で、足を踏まれただけで、靴なんかあっという間にぼろぼろで、足の甲をざっくり、ほじられてしまうんだと、そんなことも言っていたな。
どん、
と、地面に背をぶつけながら、
〝何考えてんだ、おれ〟
こんな時に、馬鹿なことを思い出している。
今、おれの前にいる熊は、ブラウンベアより小さいツキノワグマだが、牙もあるし、前足には、全部爪が残ってるんだからな。
しかし、どうして、あいつら、助けに来てくれないんだ。
どうして、四人で、並んで見物してるんだ。
おれは、上体を起こした。
熊は、すぐおれの眼の前で、狂ったように首を振りたくっている。
靴に対する、明らかな殺意がある。
熊が、今、その口に咥えているのは、つい今まで、おれの右足に履かれていたスニーカーじゃないか。
そうか。
熊が、蹴りにいったおれの右足を咥えたんだ。
それで、靴が脱げたんだ。
脱げてよかった。
脱げてなかったら、今頃どうなっていたか。
この隙に──
逃げられなかった。
おれの腰には、まだ、縄が結ばれているのだ。
「西村、加勢しろ!」
おれは、怒鳴った。
助けてくれ──
と、言いそうになったのをこらえて、加勢しろと、うまく口にできた。
助けてくれ、などと叫んでいたら、助かってもあとで、何と言われるかわからない。
しかし、西村は動かない。
そうか、あいつが、磯村露風のやつが止めてやがるんだ。
くそったれ!!
熊が、すぐに靴に飽きて、また、おれを見た。
もの凄い眼だ。
やばい。
これは、本気の眼だ。
さっきまで、靴に向けていた殺意を、全部おれにぶつけてきている眼だ。
くるぞ。
そう思った。
死ぬ。
死ぬぞ、これは。
必死になれ。
こいつは、おれを殺して喰う気だ。
さっき、鼻の頭に蹴りを入れてやったのが、効いて、怒っているのである。
ふんっ、
ふんっ、
鼻息と、呼気を洩らしながら、熊がおれに近づいてくる。
ああ、死ぬんだ。
これからおれは、こいつに、殺されるんだ。
熊にしろ、野生の獣は、みんな、頭、眼をねらってくる。
殺す時には、頸を噛み、頸椎を歯で砕く。
それとも、爪で引っかかれて、内臓をひきずり出されて、死ぬのか。
内臓を引きずり出されても、しばらくは、一分や二分は生きているだろうから、おれは自分の内臓が喰われているのを見ながら死ぬんだ。
こんな死に方、想像しなかったよな。
痛いんだろうか。
痛みは感じないんだろうか。
肉食獣に喰われる時、草食獣は、みんな、痛みを感じているんだろうか。
脳内麻薬がどっと出て、痛みを感じないといいな。
いかん。
何を考えているんだ、おれは。
喰われる寸前の草食獣のように、眼がとろんとして、イッちまってたんじゃないだろうな。
熊は、もう、眼の前だ。
熊が、のしかかってきた。
熊の重さが、熊が乗せてきた前足に、全部乗った。
いよいよ喰われるのか、と覚悟を決めたその時、おれの中で、何かが爆発した。
喰われてたまるか!
生きて、磯村露風のやつに、復讐してやるんだ。
そんな思いも、その爆発の中で、こなごなになって消し飛んでいた。
何も考えなかった。
膝で、おれは地を蹴っていた。
おれの、高速タックルだ。
熊に、しがみついていた。
おれの腹で、
ぞりっ、
ごりっ、
ぞこっ、
という音がした。
熊の後足の爪が、おれの腹筋をほじっているのだとわかった。
くたばりやがれ!!
おれは、右手を、熊の口の中に、おもいきり突っ込んでいた。
手首と肘の中間まで、
ずぼぼっ、
と、手が潜り込んでいた。
同時に左手の指を、熊の右眼の中に、かまうことなく潜り込ませていた。