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四章 道田薫

6(承前)

「ぬき?」
 道田薫が問う。
ぬきあわせだ。貫を見せれば、自然にあわせも見せることになる」
 翁九心の声は、低い。
「――――」
 道田薫には、どういう意味のことかわからない。
「宿代だ」
 翁九心が、立ちあがる。
「コップはあるか」
「コップなら、そこに――」
 道田薫が、流しを指差した。
「うむ」
 翁九心は、洗面台に向かって歩き出した。
 道田薫も立ちあがった。

 道田薫が歩き出した時には、もう、翁九心は洗面台の前に立っていた。
 翁九心の前に、流しがあり、蛇口があり、その蛇口の後ろの壁に木製の棚があって、その上にガラスのコップがふたつ、伏せてあった。
「これを使おう」
 翁九心は、右手にコップをひとつとった。
 左手で、コックをひねり、蛇口から水を出した。その水を、翁九心は、右手のコップで受けた。
 コップが水でいっぱいになった。
 コックをもどし水を止める。
 表面張力のため、コップに、水が山盛りになっている。
 翁九心は、左手にからのコップを握り、後ろにいる道田薫に向きなおった。
 翁九心は、右手に水の入ったコップを、左手に空のコップを持っている。
 右足が、わずかに前だ。
 左足が、やや後方に引かれている。
 右手の水の入ったコップが、やや前に。
 左手の空のコップが、やや手前。
 ふたつの手、ふたつのコップの距離は、肩幅より狭い。
 両肘が、浅く曲げられている。
 両膝も、浅く曲げられている。
 右手のコップと、左手のコップの高さはほぼ同じ。
「二度はやらぬ……」
 翁九心がつぶやいた。
「見よ」
 言って、翁九心が、唇を閉じた。
 鼻から、浅く息を吸ったと見えた。
 スッ、
 と、腰があがった。
 次の瞬間、右手が、真下に引かれた。
 翁九心は、声もあげなかった。
 その時、道田薫は、信じられないものを見た。
 宙に、水が浮いていたのである。
 しかも、その水は、さっきまでその水が入っていたコップのかたちをしていたのである。
 コップのかたちをそのまま残した水が、裸電球の光の中で、きらきらと輝いていた。
 確かに、そう見えた。
 が――
 そう見えたその直後、その水は、全て、翁九心が左手に持っていた、空であったはずのコップの中に入っていたのである。
 一滴もこぼれなかった。
 左手に持ったコップの中に入った水は、表面張力のため、コップの縁から上に、山盛りになったままだ。
「見たか」
 翁九心が言った。
 道田薫は、口を開いたままだ。
 どういう言葉も発することができなかった。
「右手のコップから、水を抜いたのが、ぬきじゃ。それを、左の空のコップで受ける。これがあわせだ……」
 翁九心は、左手のコップの水を流しにこぼし、ふたつのコップを棚にもどした。
「これができれば、人体が作り出す速度で繰り出される全ての攻撃を、無効化できる――」
「――――」
「バットで、脳天を叩かれても、頭蓋骨の表面にある肉の厚みを打撃の力が通過して骨に届くまでの間に、とつの力を押え込むことができる。くび、腰、膝、足首、人体の全ての関節を同時に使う。古流の中には、これを無寸受けと呼ぶ連中もいるがな……」
「――――」
「力は、あるにこしたことはないが、一四〇キロのバーベルを持ちあげられなくとも、充分に人は殺せるということだな」
 翁九心は、元の椅子に、もう腰を下ろしている。
 原理は、わかる。
 右手に持った水の入ったコップを、膝と腰のバネを使って、上へ持ちあげる。
 手の力を抜けば、すぐに上へゆく力が消えて、手の支えがなければ、コップも水もいったん宙の一点で静止した後、自由落下をする。
 その自由落下する直前、コップも水も、一瞬、無重力状態になる。その時に、右手を下に引く。すると、中の水だけが宙に残り、しかも、その水は無重力状態にあるので、宙に、コップの形状を保ったまま、静止する。その静止した水を、左手に持ったコップを持ちあげて、中に入れる。
 原理はそうだ。
 しかし、水には、粘性がある。
 いくら素早くコップを引いても、コップに水がくっついて、宙にコップの形状が残るほどきれいには抜けない。さらに、いくらコップの形状が残っても、たとえ無重力状態にあっても、水には球体になろうとする性質がある。
 それを、あのようにみごとにぬきあわせることなど、人力であれ、機械であれ、できるわけがない。
 しかし、それができる人間がいた。
 その人間が、今、目の前に立っている。
 翁九心――
「しかし……」
 と、翁九心は、溜め息と共につぶやいた。
「おまえは、あやうい」
 翁九心は言った。
「その眼は、自分の力以上のものに、挑もうとする眼だ。だが、いつか、自分の力以上のものに出会い、その時、死ぬ。それでよければ、好きにしろ……」
 淡々と、翁九心は言った。
「わかったよ……」
 道田薫は、そう言った。
 その声が震えている。
 わかった。翁九心は、本当のことを言っている。おれは、そういう人間だし、それをおれは自覚している。それを、翁九心は見破ったのだ。
「それが、できるようになる」
 普通なら、やろうとなどは考えない。
 不可能なことだからだ。
 しかし、見た。
 それはできるし、できる人間がいる。
 ならば――
 自分にも、それができるだろう。
「できるようになったら、あんたに会いにゆくよ。その時、あんたの言うことが本当かどうか、確認できるだろう」
 道田薫がそう言った時、なんとも嬉しそうに、翁九心は、にいいっ、と笑った。

転章 カイザー武藤



 ホテルの、スウィートルームだった。
 ベッドルームがふたつ。
 ふたつのベッドルームに挟まれて、広い部屋があった。
 大きなテーブルに、八脚の椅子が、四脚ずつ向かい合わせになっている。
 さらに、ライティングデスクまでが備えられている。
 それとは別に、大理石の低いテーブルがあって、それをソファーが囲んでいる。
 大理石のテーブルを間にして、ふたりの男が向き合っていた。
 どちらも、身体が大きい。
 一方は、一九二センチか、一九三センチはあるだろうか。
 ボタンを上からふたつはずした、濃いグリーンのシャツだ。その光沢から、素材が絹であるとわかる。
 ズボンも、絹で黒だ。
 胸は、たまらなく厚い。
 呼吸をするたびに、胸が前に膨らみ、もどる。
 もうひとりの男は、そのグリーンのシャツを着た男より、さらに大きかった。
 身長は、二メートルを優に超えているであろう。
 このふたりが、呼吸するたびに、部屋の酸素が、音をたてて減っているのではないか。ふたりの肉の圧力で、部屋の気圧が何ヘクトパスカルかあがっているような気さえする。
 身体が大きい方の男は、カイザー武藤だ。
 武藤は、膝の上に両肘を乗せ、両手を組んで、前にいる男を見つめている。
 前にいるのは、巽真だ。
「久しぶりだなあ、たつつあん。こうしてふたりきりで会うのは――」
 カイザー武藤が言った。
 組んだ両手の上から、その眼が巽真を見つめている。
 巽つあん――というのは、武藤が巽を呼ぶ時の癖だ。ふたりきりになると、武藤は、かつて同僚であった頃の呼び方で、巽のことを呼ぶのである。
「膝は?」
 巽が訊く。
「もう、動く」
 カイザー武藤が、病院から退院して、このホテルに入っていることは、巽も知っていた。
 このホテルには、大きなトレーニングジムがあって、貸切ることのできる個室もある。宿泊したセレブ客が、よく利用する。
 宿泊客だけでなく、外部からこのジムに通っている人間もいる。
 武藤は、この前の試合で、猿神さるがみとびに、右膝をこわされている。
 その膝の治療が済んで、今は、このホテルに入って、リハビリをしているのである。
「そりゃあ、よかった」
 巽が言う。
 武藤の全身を眺め、
「減ってないね」
「何が?」
「筋肉だよ。前より厚みが増したんじゃないか――」
「右膝以外は、入院中もずっと鍛えていたからね」
「だろうな」
 そこで、少し、沈黙がおとずれた。
 ややあって、
「巽つあんには、感謝してる」
 武藤はつぶやき、組んでいた手を解いた。
「何のことだい?」
「おれの団体が潰れた後、巽つあんに拾ってもらった」
「拾ったんじゃないよ。カイザー武藤をスカウトしたんだ」
「カイザー武藤の名前は、まだ金になると……」
「そうだよ」
「おれで、結構稼いだな」
「結構ね」
「おれと、巽つあんは、古い……」
「そうだな」
「何年になるかな」
「三〇年にはならないが、二〇年はたっている。数えたことはないけどね」
「東洋プロレスは、妙なとこだな」
「妙?」
「伊達がいて、川辺がいて、今はおれがいて、巽つあんがいる。この間は、平田まで出てきやがった……」
「ほんとだ」
「何だかんだで、おれたちは、生き残ってきた」
「うん」
 うなずいてから、巽は、背をソファーの背もたれに預け、
「武藤さん……」
 前にいる自分より大きな男を、静かに見つめた。
「何だい」
「そろそろ、用件を言ってくれ。まさか、昔話をするために、おれを呼んだんじゃないんだろう」
 武藤は、眼を閉じ、
「そうだな……」
 つぶやいてから、眼を開き、巽を見た。
「おれの、引退試合のことさ」
「引退試合」
「そうだ」
 武藤は、にっ、と笑い、
「おれの最後の試合、巽つあんが相手をしてくれないか――」

 

(つづく)