二章 松尾象山
4(承前)
ぞくり、と、背の体毛が逆立った。
体毛の一本一本が、金属の針のように尖った。
人が、いるはずのない距離だった。
一メートルあるかないか。
森からこの草地に足を踏み出した時には、誰の姿も見えなかったはずだ。
森から二歩か、三歩は出ていたはずだ。
そこから、少し斜めに、森からやや離れてゆくかたちで、小屋にむかって歩き出したのだ。
右手が森だ。
森までは、四歩、五歩は距離がある。
一番近い木立からでも三メートル前後はある。
この声の主が、森以外の他の場所からやってきたとは思えない。
ならば、その木立の蔭から出てきて、背後に立つまで、この自分に気づかれずにその動きをやりとげることのできる人間がいるのか。
いた。
いたのだ。
草を踏む音も立てず、気配も殺して、その人物は自分の一メートル背後に立って、声をかけてきたのだ。
いつであったか。
北辰館の道場で、松尾象山と会ったことがある。
あの時も、松尾象山に背後をとられた。
あの時と同じだ。
いや、あの時、道場は板の間で、草などは生えていなかった。
この人物、いったい何者か。
それだけのことを、文七は、瞬時に覚り、それが脳の中を疾ったのだ。
一瞬のきらめきのようなものだ。その、断片的な思考のきらめきが、文七の脳裏を貫いたのだ。
それをあえて描写すれば、ここに記してきたような思考になる。
しかし、文七自身は、そのような思考をしたとは、思っていない。
その思考が脳に疾った時には、足を止めずに、踏み出しかけていた左足を、さらに大きく前に出していた。
出しながら、振り向いた。
振り向いて、足を止めた。
そこに、男が立っていた。
つい今しがた、文七が想定したのと、同じ距離のところに。
老人――
そう呼んでいいのかどうか。
五〇代後半か、六〇歳になっているかどうか。
髪は、白い。
多少は黒い髪も、残ってはいるが、白髪と呼んでもいいものだろう。
洗いざらしの、古い、黒い袴を穿いていた。
着ているのは、やはり洗いざらしの白い稽古着だ。
本来ならば、自分が足を踏み出した分、距離がとれていなければならないのだが、その前に想定した距離と変化がない。
ということは、距離をとろうと、自分が前に足を大きく踏み出したのと同じ距離を、この老人が同時につめてきたということになる。
呑まれた――
文七は、そう思った。
今、自分は、この老人と向きあっている。
向きあったその瞬間に、呑まれたのだ。
文七は、そう思った。
「翁九心……」
老人の唇がつぶやく。
つられて、
「丹波文七……」
文七も、低い声で言った。
立ちあがっていた体毛が、ようやく少しずつたたまれてゆく。
思わず、文七も名のってしまった。
こうやって、互いに自分の名を口にしてしまった以上、それは、闘うことの意志表明をしてしまったことになるのか。
そんな想いも、文七の脳裏にはある。
立ちあがった体毛が、半分たたまれたとはいえ、剣呑な状態は続いている。
「知ってるよ、その顔は……」
その老人――翁九心は言った。
不思議な人物であった。
今、自分の一メートル先に、翁九心は立っている。
声も聞くことができ、その姿もきちんと見えているというのに、眼を閉じた瞬間、その気配は消えてしまいそうであった。
その肉体は、周囲の大気と同化してしまっている。
空気と同じ存在感しか、そこにない。
「何か、用かね……」
翁九心の唇が動くのが見える。
その声も、耳に届いた。
その言葉の意味もわかる。
さっきと、同じ問いだ。
しかし、本当に今、自分は翁九心に問われたのか。
「おれは……」
そこまで言って、文七は言葉を詰まらせた。
自分は、いったい何をしにここまでやってきたのか――
それが、わからなくなっている。
どうして、今、自分はここに立っているのか。
「わかってるよ……」
翁九心は言った。
その唇の端が、少しもちあがった。
「わたしと、やりに来たんだね」
言われて、気がついた。
そうだ、自分は、この翁九心とやりに来たのだ。
翁九心が、どんな人物か、それを見に来たわけではない。
ましてや、梅川丈次を倒してのけたこの人物の実力がどれほどのものか、それをさぐりに来たわけでもない。
何故、梅川をやったのだ――
それを訊きに来たわけでもない。
ここに来るまでは、翁九心とこうして向き合う寸前までは、様々な思いが渦巻いていた。
だが、こうして、対面した時、ようやく文七は、自分の思いに気がついた。
自分は、この老人と闘りたいのだと。
向き合って、熱源に触れた霧の如く、様々なゴミのような思いは、あっさりと、どこかに消え去っていた。
文七は、太い唇の左端を、きゅうっと吊りあげた。
そうだ、あんたとやりに来たんだよ――
文七は、そう言おうとした。
しかし、それを言いそこねた。
それは、翁九心が、文七がその言葉を発する前に、
「いいよ、やってもね」
そうつぶやいたからだ。
「きみが、わたしとやりたいのなら、つきあおう。ただ――」
と、翁九心が文七の眼を覗き込んできた。
瞳からその視線が蛇のように入り込んで、心の底まで覗かれたような気がした。
「きみが、やりたくないのなら、そう言えばいい。やらぬと言えば、わたしは、無理にきみとやったりはしない……」
ああ――
そうだった。
梅川丈次も、言われたのだ、この同じ言葉を。
「少し、残念だが、丹波くん、きみはきみの人生を守る権利がある。命を守る権利がある」
「それは、おれが、あんたに負けるって言ってるのかい」
「違うよ」
「違う?」
「わたしは、そんなことは言わない。丹波くん、それは、きみが心の中で思うことだよ。このわたしに、負けると思うのはきみだよ」
「おれ?」
「そう。きみが、わたしと闘いたくないというのは、正しい」
なに!?
むりっ、
と、自分の体内から、何かが膨らんでくるのがわかった。
なに!?
闘いたくないというのは、このおれがあんたに負けると考えているということなのか。
そりゃあ、こわいさ。
闘る時は、いつだってこわい。
誰と闘る時だって、そうだ。
必ず自分が勝つなんて、思っちゃいない。
しかし、負けると思ってるわけでもないんだ。
そこを、勘違いするんじゃない。
いいか、翁九心、おれは別に、あんたがこわいわけじゃないんだ。
いけない――
と、文七は、心のどこかで思う。
何か、自分の思考が、違う方向へ進んでいるような気がする。
これまで、大気と同化していたはずの翁九心の眼の中に、これまでとは違う色が宿っている。
ぬめり、
とした光。
これか。
これに、梅川もやられたのか。
翁九心に前に立たれ、眼を見つめられると、この呪にかかってしまうのか。やらざるを得ない状態に、人は踏み込んでいってしまうのか。
それこそ、すでに、翁九心の手の内に入っていってしまったということではないのか。
翁九心に見つめられて、やらなくてもいい闘いに踏み出そうとしているのか。
いいや。
そうじゃない。
金をもらって、客の前でやる試合――自分はそれを求めてるんじゃない。
金が欲しくて、誰かと闘いたいんじゃない。
金は、どっちでもいい。
闘うことで、それを人に見せることで、金が入ってくるっていうんなら、それはそれでいい。
おれが、ここにいるのは、門をくぐってしまったからだ。
後もどりできない門を。
そうだった。
誰よりも、強くなりたかった。
それだけだ。
もちろん、誰よりもということは、この翁九心よりもということだ。
その翁九心が眼の前にいて、いつでも闘ると口にしている。
いいじゃないか。
ここから逃げる理由はひとつもない。
客が欲しいっていうんなら、久我重明がいるじゃないか。
客は、百人、千人、一万人、十万人もいらない。
久我重明ひとりがいて、久我重明が結果を見届けてくれるというのなら、それで充分ではないか。
どうせ、あの黒い漢は、どこかから、この光景を見ているはずだ。
いや、久我重明が、たとえいなくたって、それが、今、翁九心からの誘いを断る理由になんて、なりはしない。
やれ。
やると言うんだ。
それが口にできないんなら、半歩前に踏み出して、翁九心の股間を、いきなり蹴ってやればいい。
それで、始まる。
身体が、震え出している。
高熱のマグマの如きものが、肉の底でぐつぐつと滾りながら動き出している。
そのマグマが、体内に溜ってゆくようだ。
それが、肉や骨を満たし、眼や、耳や、鼻、身体中の毛穴や髪の毛の先からこぼれ出し、滴るようになったその時、どうせ、始まってしまうのだ。
文七はそう思っている。
肉が、むず痒い。
どうせ始まってしまうなら、それが、今、ここでだっていいはずだ。
だよな。
うん。
小刻みに、文七の身体が震え出している。
体内に満ちてくるものの圧が極まったところで、自分は、別の存在になってしまうだろう。
「お、おれは……」
文七は、やや後方の右手に見える、木の株と、その上に突き立っている斧を視界の端に見た。
「それを使ってもいいんだよ」
翁九心が言う。
駄目だ。
見るな。
見れば気になる。
いざとなれば、相手があれを使うかもしれないし、自分が使うことになるかもしれない。
いや、自分はそんな気はない。
あるわけがない。
しかし、闘っているうちに、あの近くまで行ってしまったら、そして、自分が追いつめられていたら――
考えるな。
考えてはいけないことを、今、自分は考えている。
文七は、大きく息を吸い込み、
「やらん……」
そう言った。
声が、かさついて、自分の声ではないようだった。
自分ではない別の声が、やらないと言っている。
どうしたのだ。
どうしてそんなことを言うのだ。
自分の心とは別の言葉を、どうして自分の唇が発しているのか。
どうなっているのか。
本気か。
おれは、こんなに闘る気があるというのに。
「闘らない?」
翁九心が、問うてきた。
「そうだ、闘らん」
どうした、翁九心。
どうして、そんな哀しそうな顔をするのだ。
いや、そういう顔をしているのはこのおれか。
文七は、ありったけの力と精神力で、一歩、二歩、退がってゆく。
「闘らん……」
やっと言った。
「何故?」
不思議そうな顔で、翁九心は文七を見つめている。
「ふうん……」
翁九心は、うなずいた。
「妙な男だな、きみは――」
翁九心はつぶやき、
「ならば、きみはどうするのかね――」
ちらりと、背後に視線を向けた。
翁九心の背後に立つ者――その姿を、文七は、もう見ている。
もちろん、その人物が誰であるかわかっている。
久我重明であった。