巻ノ七 邪拳聖拳編
序章 関根音
1
「さあ、籤をひくぞ」
そう言ったのは、磯村露風だった。
磯村露風の、突き出された左拳から、四本のマッチ棒の軸が突き出ている。
頭薬部分は、拳の中に握り込まれていた。
焚火の炎の灯りで、その拳とマッチ棒の軸に、火の色が映っている。
食事が、済んだばかりだった。
磯村露風の椅子の肘掛けに備えつけになっている小さなテーブルには、コーヒーの入ったコッフェルが置かれていた。
焚火を囲んで、他に、関根音、京野京介、西村一、ジム・ヘンダースンが、それぞれキャンプ用の椅子に腰を下ろしている。皆、上着を着込んでいるが、関根と、ジム・ヘンダースンだけが、Tシャツ一枚である。
五月――
秋田県の山の中は、夜ともなればかなり冷える。
米代川の支流の阿仁川のさらに支流――小猿部川の上流部にある、地元の者しか来ないような小さなキャンプ場だ。
あたりには、まだ雪が残っている。
通常は、連休あけには、もう車が入ることのできる場所なのだが、今年はまだ雪が多く、積雪と倒木が林道を塞いでいて、車は通ることができない。
五人は、途中まで地元の者に軽トラックで送ってもらい、あとはキャンプ道具や食料を担いで、ここまでたどりついたのである。
もちろん、携帯電話は通じない。
五人は、すでに、四泊五日をここで過ごしていた。
この夜が、五泊目ということになる。
焚火の近くに、テーブルがある。
天板に使われているのは、アルミでできた細い板を、何枚も横に繋いだものだ。それをここで広げて、アルミフレームの上に天板としてのせたものである。
その上に、調理に使った食材の残りが、まだのっている。山菜のくずや、カンヅメの蓋が開いたもの。岩魚の頭や、鳥の骨、その他色々だ。
汁で汚れた食器や箸。
まだ蓋を、閉めていないケチャップの瓶。
ビールの空きカン。
焚火には、半分火に身をよせるようにして鉄鍋が置かれている。その中には、まだ、煮つまった汁が残っていた。
ここへ持ってきたものは、主に、米と味噌と醤油だ。肉は、鶏と豚を少しだけ。少しと言っても、皆、食べる量が桁違いなので、五人分のキャンプ飯くらいは充分にある。
魚と山菜は、現地調達だ。
魚は、釣る。
渓流は、すでに解禁しており、釣るのは問題がない。持ってきたのは、竿とテグスと鉤だけだ。
エサは、ミミズか、川虫だ。
ミミズは、コツさえつかめれば、簡単に捕まえることができる。道の横に積もった枯れ葉を木の枝などでほじくれば、何匹も捕ることができた。
川虫は、川に入って、水底の石をひっくり返せば、適当な量はすぐに捕れた。
渓流は解禁したものの、まだここまで釣り人が入った気配はなく、釣れてくるイワナやヤマメは、案外に大きい。人数分釣るのは、まったく問題がなかった。
山菜は、周囲の森の中に入れば、いやになるほど採れた。
コゴミ、フキノトウ、ヤブレガサ、ネマガリタケ、タラノメ、さらにワサビなどが採れたのである。
新緑――とはまだ呼べないほどのあわあわとした緑が萌え出していて、少し遅めの二輪草や、キクザキイチリンソウ、カタクリ、などの花も、渓流沿いの森の中を歩けばいくらでも見つけることができた。
美しい谷のキャンプだった。
焚き火を中心にして、思いおもいの場所に、テントが五張り。
夜になっても、夜気の中に溶けているのは、萌え出たばかりの新緑の匂いである。その香りが、毎夜の如くに濃くなってゆくのがわかる。
三日で、用意してきた肉はほぼなくなって、山菜を食べる量が増えた。山菜だけは、どれだけ採っても減ることはなかったからである。
昨日あたりから、何かというと、
「ああ、糞が緑色になっちまった」
関根がそう口にするようになっていた。
関根は、始めから、この山ごもりには不満そうであった。
「そろそろ大事な稽古を始めるからな」
磯村露風がそう言い出したのは、二〇日ほど前のことだった。
世田谷にある、道場でのことだ。磯村露風の知り合いに、運送会社の社長がいる。その社長に頼み込んで、使ってない倉庫を、道場として借りているのである。
中央に古びたリングが組んであり、その周囲にトレーニング器機が置かれている。床はコンクリートだ。
「何ですか?」
スクワットをしていた。西村一が訊いた。
「山ごもりだ」
それをリングの上で耳にした関根が、
「何スか、それ」
不満そうな声をあげた。
「今どき、山ごもりって、何をやるんスか――」
「だから、山にこもって、稽古をするんだよ」
「本当に、それ、効果あるんスか」
「ある」
「稽古って?」
「色々だ」
「どこかの山小屋に入って、何かやるんスか――」
「山小屋には入らない。テントだ」
「テント?」
「みんなおれが用意してやる。自炊だ。自分で飯を作って、食べる。食器洗いから何から、全部自分でやる」
「それって、強くなれるんスか」
「今よりは――」
「今よりって……」
「おれの足元くらいには、近づけるようになる」
「あ、それって、磯村さんの方がおれより強いってこと?」
「そうだよ」
「どうして、そんなことわかるんスか」
「最初に会った時、おれにさんざ転がされたのは誰だったかな」
「あの時は、あの時っしょう」
「あの時も、今もだねえ」
「今もって、あのあと、おれたち、本気でやってないっしょう」
「関根くん、それ、みっともないよ」
「何がみっともないんスか。あの時だって、本気の勝負とは違うでしょう」
関根音と西村一が、磯村露風と初めて会ったのは、熊本の人吉市である。
当時、ふたりが所属していたのは、カイザー武藤が率いる東海プロレスであった。
その晩、東海プロレスの興行が、人吉市の体育館であったのである。
一五〇〇人は入る会場で、チケット代を払って入った客は、わずかに九八人だ。
地元の興行主が、ただ券をばらまいて多少は客の数を増やしたが、それでも、二〇〇人を超えることはなかったのである。
巽真の東洋プロレスに、ほとんど人気も客もとられてしまっていたのだ。
試合後、関根音と西村一は、それでも、宿となっていた民宿を出て、走ってトレーニングをしていたのである。
そこへ、磯村露風が現われて、
「どうだい、東洋プロレスの連中と、ガチンコでやってみたくはねえかい」
「北辰館の松尾象山な、あのでかい面を張りとばしてみたいとは思わないかい」
このように、ふたりに声をかけたのである。
その時、磯村露風は、身体を触れ合わせるだけで、西村一を投げとばしてみせた。
次が、関根音だった。
関根は、磯村露風に、指を折られた。
その折られた指を、拳の中に曲げて押し込み、関根は両拳を持ちあげて構えた。
そして、あらためて磯村露風と対峙したのである。
その後、前へ出た。
誰がどう考えても、それは、打撃でゆくぞという意志表示に見えた。
しかし、関根は、打撃に行かなかった。
打撃でゆくと見せて、タックルに行ったのである。
アマレス時代、正確無比と言われたタックルだ。
本気の本気だった。
そして――
意識が飛んだのである。
気がついたら、西村と、磯村露風が、上から見下ろしていたのだ。
「大丈夫か!?」
西村が心配そうに言った。
「大丈夫さ、手加減しといたからな」
磯村露風の、そう言う声が聴こえた。
「なんだ、何があった?」
上体を起こしながら、関根は言った。
「山嵐だよ……」
磯村露風の、そういう声が響いた。
「山嵐?」
いったい、どのようにやられたのか、記憶にない。
あとで、西村に訊ねたら、投げられたのだという。投げられ、身体が宙で逆さになり、脳天から地面に落とされたのだと。
ともあれ、それで、関根は、磯村露風に弟子入りすることになったのである。
「あの時、関根くん、本気だったじゃん」
「だけど、その前、磯村さん、まだ本気じゃないおれの指、折ったっしょう」
「それが、どうしたの」
「それって、ズルくね?」
「ずるい?」
「だって、指折ってもいい勝負だったら、始めからそう言うべきじゃん。こっちは、素人に怪我させちゃいけないから、手加減してたら、勝手に指折ってもいいルールにしちゃうんだからさあ。もしも始めから、そういう試合だって言ってくれたら、指折られることなかったし、指折られてなければ、たぶん、タックル決まってたんじゃないの」
「関根くん、もしもも何も、そのもやしたられば炒めはいただけないねえ」
京野と、すでに多少の日本語は理解できるジム・ヘンダースンは、興味深そうに、ふたりのやりとりを見つめている。
「じゃあさあ、試してみる?」
関根が言った。
「試す?」
「山ごもりの最中にさあ、おれのルールで、いきなり磯村さんを試しちゃってもいいってこと?」
「もちろんだよ」
「オレ、本気になると、かなりエゲツないっスよ」
「知ってるよ」
「じゃあ、山ごもり、行こうかな」
「いいねえ」
「決めた、行くよ」
「念のため言っておくと、わたしは、本気にならなくても、エゲツないことできるからね――」
「知ってるよ」
「まだ、キミたちに教えてない、エゲツない技、わたし他にもたくさん知ってるからねえ――」
「楽しみだなあ」
にいっと笑ってから、関根は、
「そうだ、磯村さん、京野のやつに、何か新しいこと、教えたでしょう」
「ふりこのこと?」
「うん。何かやばそうな名前だけど、どんな技か訊いても、京野のやつ、教えてくれないんだよ」
「おれが、教える時、誰にも話すなって、言ったんだよ――」
「へえ」
「知らない技は、よくかかるからね。めったなことでは使うなとも京野には言ってあるからね。見られたら、世間に知られちゃうからさあ」
「おれにも、何か教えてくんないかなあ」
「エゲツない技を?」
「うん」
「巽真が、白眼をむいてぶっ倒れちゃうようなやつでどうよ」
「オレ、巽さんを潰しちゃうかも」
関根音が、楽しそうにそう言った。
かつて、関根音は、磯村露風と共に、渋谷のアイアンマッスル・ジムでトレーニング中の、巽に会いに行っている。そのおり、磯村露風は、
「できるだけ短い時間で、この関根を、あんたのいるところまで上らせるからね」
巽にそう言っている。
「関根に、あんたを潰させる」
それで、磯村露風とその弟子たちは、秋田のこの山中までやってきたのである。