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二章 松尾象山

 

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 丹波文七は、岩や木の根が這う山の道を歩いている。

 車の通らない――いや、通れない道だ。

 通れたとしても、軽トラ一台がやっとというところだろう。

 ゆるやかな登りだ。

 タクシーを下の林道に停めてから、もう、十五分は歩いているだろうか。

 聞こえているのは、頭上の新緑の梢を揺らす、わずかな風の音と、自分の呼吸音、そして、自分が履いているスニーカーの靴底が、岩や根を踏む時の音だけだ。

 だからといって、文七は、ただひとりで歩いているわけではない。

 少し後ろを、久我重明が歩いているのである。

 しかし、久我重明は、足音もたてないし、呼吸音さえたてない。

 いないのと同じだ。

 同じタクシーに乗って下までやってきて、そこから一緒に歩き出しているので、久我重明がいると文七にはわかっているが、もしも、歩いている途中、もの陰からふいに現われて、後ろを歩き出したのであれば、そこに久我重明がいるとはわからないかもしれない。

 タクシーに、そこで待つよう指示して、ふたりは歩き出した。

 伊豆、天城山中の山道である。

 歩き出す時に、

「おまえが先だ」

 久我重明は、そう言って文七を先に歩かせた。

 以来、ずっと、久我重明は文七の後ろを歩いているはずであった。

 ただ、その気配がない。

「気になるのか、丹波……」

 すぐ後ろから、黒い声が、背から入り込んで肺まで届いてきた。

 思いがけなく近い背後を、久我重明は歩いていたことになる。

「気になるね」

 文七は、正直に言った。

 ただ、後ろは振り返らない。

 抜き身の刃物が、自分の背にその切先を向けたまま、ずっとついてきているような感覚である。

 しかし、実際に、そういう気配や殺気があるわけではないので、その感覚は、自分の心がもたらしたものであることは、文七も理解している。

 その心のうちを、久我重明に覗かれたか。

 気にならないと、虚勢を張っても、意味はない。心のままを口にしておく方が、虚勢を張るよりずっとましだとわかっている。

 他に人のいない山中の道を、久我重明とふたりきりで歩いているのだ。しかも、久我重明は自分の後ろを歩いているのである。気にするなと言われて、そうできるものではない。

「おもしろいな、丹波――」

 久我重明が、黒い声を、文七の背に注ぎ込んでくる。

「何がおもしろい?」

「おまえがだよ」

「どういうことだ」

「試しているのが、おれではなくおまえだからだよ」

「――――」

「おれが、おまえに試されている。こういう時、久我重明は、いったいどうするのかと、おまえはそれを見たがっている……」

 ああ、なるほど。

 そういうことか。

 確かにそういう心がないわけではない。

 先を歩けと言われた時、その通りにしたのは、そうすると久我重明はいったいどうするのかと、そこに興味を持ったことは確かだった。

「見たがっちゃいないよ」

 文七は言った。

 妙な言葉で刺激すると、久我重明が何をしてくるのかわからないからだ。

「いやだいやだと言いながら、わざと暗い人通りのない夜道を歩く、襲われたい願望のある女もいるらしいからな……」

 久我重明の、黒い含み笑いが聞こえたような気がした。

 そんな女がいるものか――

 文七はその言葉を口にしかけたのだが、それはできなかった。

 口の中が、やけに乾いていたからだ。

 口の中が乾く理由は、もうひとつ、あった。

 それは、これからゆく先に、あの漢がいることがわかっているからだ。

 あの漢、翁九心である。

 

 

「いいよ、教えてあげよう」

 道田薫がそう言ったのは、いかにして、自分が、翁九心によって車椅子生活を余儀なくされたのかを、自身の口で語り終えた後だった。

 翁九心が、今、どこにいるかを教えてやろうと、道田薫は口にしたのである。

「きみの顔を見ているうちに、気が変わったのだよ」

 道田薫は、文七の顔を覗き込むようにして、微笑した。

「会いにゆくも、ゆかぬも、きみの自由にしていい。もし、そこで何かが始まってしまうなら、それを見ることができないのは、残念だけどね、わたしは、一緒には行かない。ただし、立ち合い人を、ひとり、きみにつけたい――」

「立ち合い人?」

「そこにいる、久我重明くんだよ」

 言われて、文七は、そこにいた久我重明を見やった。

 久我重明の唇の両端が、つううっと持ちあがって、そこに黒い笑みが浮くのを、文七は見た。

「いいんですか……」

 その笑みのかたちを残したまま、久我重明の唇が動いた。

「丹波と、翁九心と、わたし――何が始まるか、どういう約束もできませんよ……」

「きみにまかせるよ。けれど、ひとつ、約束はしてもらうよ。もしも、きみのせいで、丹波くんが闘天に出場できなくなったら、君がかわりに出場するんだよ」

「それなりの相手を用意してくれるのなら……」

「おう」

「ただし、人のいないところでね。夜のゆうえんち、人気のない公園、野試合なら……」

しば彦六ひころくとは、どこだったっけね」

「新宿公園……」

「ああ、そうだった。あれは、ぜひとも見たかったのだが――」

 言いながら、道田薫は、文七を見やった。

「そういうところでどうかね、丹波くん。もしも、そこで何かが起こり、仮に翁九心が闘天に出場できなくなったら、きみがかわりに出場することで、どうかね」

 問われて、文七は、黙したままだ。

 今、急にそう言われて、返事ができることではない。

「久我重明くんに、翁九心の居場所は教えておく。もしも、きみが、どうしても翁九心に会いたくなったら、久我くんに連絡をすればいい」

「――――」

「それから、もうひとつ教えておくとね、梅川丈次くんが、どこで稽古をしているのか、翁九心に教えたのは、わたしだよ」

「あんたが……」

「念のために言っておくよ。翁九心は、相手がやりたくないと言えば、やらないよ。きみが、彼から、やろうかと請われても、いやだと言えば、彼から手を出すことはないんだ。梅川くんの時も、そうだったはずだよ。なんなら、いやだ、やりたくないと嘘をついて、いきなり後ろから襲いかかっても、翁九心は怒らない。たぶん、その方が悦ばれるかもしれないねえ――」

「――――」

「丹波くん。わたしの権限で、闘天の第一試合で、きみと翁九心とがぶつかるように手配はできるが、わたしは、それをする気はないよ。対戦相手は、くじで決めることにしているからね。ただ、どうしても、翁九心とストリートファイト以外でやりたかったら、闘天に出場すればいい。そして、翁九心とやるためにきみができることは、負けないこと、勝つことだ。そうすれば、必ず彼と闘うことができるよ。何故なら、翁九心は、負けないからだ。それが、第一試合か決勝かはわからないが、きみが負けなければ、どこかで必ず翁九心と闘うことになる。それは間違いない――」

 

 

 その言葉は、今も、森の中の道を歩いている文七の耳の奥に、まだ残っている。

 あれから、梅川丈次には、会っている。

 病院に入院している梅川に会いに行ったのだ。

 そのおりに、梅川自身の口から聞かされている。

「安心していい。きみがいやだと断われば、闘わなくても済む」

 翁九心は、最初、そう口にしたという。

 見た目は、六〇歳前後の老人のようであったとも。

 梅川は、受けた。

 そして、梅川は、河原の石の上に頭から落とされて、負けたのである。

「丹波、すまん。おまえとやりたかった……」

 梅川は、病室のベッドの上で、文七にそう言った。

 その言葉も、文七の脳裏に蘇っている。

 その時――

「止まれ……」

 そういう低い声が、背後から届いてきた。

 久我重明の声だった。

 文七も足を止めた。

「あそこだ……」

 久我重明はそう言った。

 三〇メートルほど先が、やや明るい。

 そこから向こうは、広場になっているようだった。

 生えている樹が、少ないのか、ないのか、そこによく陽が当っていて、生えている草の種類が違っている。

 地面が多く見えている。

「あそこまで行けば、おまえの会いたがっている奴がいる……」

 おまえの会いたがっている奴――翁九心のことだ。

「たぶん、小屋が一軒建っていて、奴はその中にいるか、外にいるか……」

「ふうん……」

「ここから先は、ひとりで行くんだな。おれは、少し遅れてついてゆく……」

「――――」

「もしも、奴がいて、その気があったら、そのままやっちまってもいいぜ。後ろから、襲ったっていい。その方が、奴は悦ぶだろうからな」

「へえ……」

「ここから、森の中へ入って、この道からいったん逸れて、そうっと忍び込んでいくのもおもしろいだろう。だが、その場合は、奴に、敵意ありとみなされるだろうけどね――」

「そうすると、どうなるんだい?」

「奴が、どこかでいきなり、丹波文七に襲いかかってくるかもな」

「それもいいな……」

 文七の唇の端が、わずかに動いた。

 笑おうとして、それを途中でやめたように見えた。

「行け」

「わかった」

 文七はうなずき、右足を、ゆるりと前に踏み出した。

 気配を殺して、足音をたてぬようにした方がいいのか、普通に歩いた方がいいのか、まだ、文七は迷っていた。

 広場から、一〇メートルほど手前になったら、それを決めねばならない。

 一九歩目で、その場所を通過した。

 速度は変えなかった。

 気配もあえて殺さない。

 そのまま、広場の入口まで歩いてゆき、そこで、文七は再び足をとめた。

 そこに、広場があった。

 テニスコート一面半ほどはあるだろうか。

 右手奥に、小さな小屋が建っていた。

 平屋で、さほど大きくない。

 粗末な小屋だった。

 屋根は板葺で、石が、その上に幾つも載せてあるのが見えた。

 掘建小屋よりは、かなりましな造りであったが、手造り感が強い。

 洋風の山小屋というよりは、大正の頃に建てられた、農家の納屋といった趣の小屋だった。

 小屋に向かって、左側に、四本柱を立て、その上に板屋根を掛けただけの設備があり、そこに、薪が積まれていた。

 その前に、杉の根元近くを、分厚く輪切りにしたものがあって、そこに、一本の斧が突き立てられていた。

 殺風景な眺めだった。

 そこで、ようやく、文七はあることに気がついた。

 小屋の、屋根と壁の間、軒下から薄青い煙が出ているのを――

 小屋の中で、火が焚かれているらしい。

 二歩、三歩、四歩――

 文七は、小屋の方に向かって、足を踏み出していた。

 と――

「何か用かね」

 声をかけられた。

 すぐ、背後からだった。

 

(つづく)