序章 関根音
4
辻は、琉球――つまり現在の沖縄ということになるが、那覇の遊郭街である。
沖縄がまだ琉球と呼ばれていた頃、辻は、ただの遊郭街ではなく、琉球王朝の身分の高い士族、豪商、名士たちの社交の場であった。
当然、辻には、手――すなわち唐手の達人も顔を出すことになる。
そこで行なわれたのが、掛き試しである。わかりやすく書けば、掛け試しである。
一種の唐手の稽古であり、試合のようなものだ。
前もって、決めて行なわれる試合ではない。その場で申し込み、申し込まれた者が受ければ、そこで掛き試しは成立することになる。
野試合というのに近いかもしれないが、むろん、野試合ではない。喧嘩というのとも明らかに違う。
いきなり襲いかかってよいというものではない。
ある男が、手を学んで、ある時、ふと、自分の実力を試したくなる。
その時、辻へ出かけて、相手を見つけて掛き試しを申し込むのである。
簡単そうだが、誰でもできることではない。
暗黙の了解があった。
自他共に認めるそれなりの実力がなければ、とても辻での掛き試しに挑戦できるものではない。
申し込む相手も、強い者に限られる。
申し込まれた者が、申し込んできた者の実力を、その場で値踏みして、取るに足らずと判断すれば、断わられてしまう。
当時、唐手には、約束組手は存在しなかった。
そこで、掛き試しが行なわれるようになったのであろう。
むろん、素手。
掛き試しをすれば、大怪我をすることも、時に、死に至ることもあった。
互いに名のりあって、琉球の名士たちの眼のあるところで闘うことになる。
掛き試しは、申し込む方も、受ける方も、自身の命や名誉をかけた試合方式であったのである。
明治三〇年の頃には、もう、掛き試しをするものはいなくなっていたらしいが、沖縄が生んだ稀代の唐手家、本部朝基が、この掛き試しをやったか、やろうとしたという噂もあるので、ことによったら昭和の初め頃までは、この慣習は残っていた可能性はある。
「あの、掛き試しを、翁九心が、九歳の頃からやっていたと?」
姫川勉は、おでん屋の親父――姫川源三に問うた。
「らしいな」
源三がうなずく。
「翁九心が、何歳かは知りませんが、いくら子供の頃といったって、もう、その時掛き試しはやられていなかったのでは――」
「まあ、似たようなことを勝手にやっていたらしい」
「沖縄で?」
「ああ」
「それで、辻流」
「そういうことだな」
「しかし、自ら流派を名のらなくとも、辻流と呼ばれる以上は、弟子のような人間もいたということですか」
「おれの知る限りでは、弟子かどうかは知らんが、ふたりほどは、思い浮かべることができる」
「それは?」
「道田薫、さっき名前を出したろう」
「翁九心と闘って、車椅子生活を余儀なくされたと――」
「ああ……」
「もうひとりは?」
「金村良平――」
源三は、その名を口にして、うなずいた。
5
関根音は、狂っていた。
もう、何がなんだかわかっていない。
焼けた鉄の玉を吐き出すように、意味不明の言葉を叫んでいた。
黒いもののけの塊に、肘をあて、殴り、指でほじくり、締めていた。
「おい、関根――」
声がした。
その声が、誰の声かわからない。
「もういい」
何がもういいだ。
何がいいんだ。
「もう死んでいる」
ばか。
「おれは生きてる」
「熊がだ」
「なにい!?」
「熊は、もう死んでいる」
ここで、ようやく関根は、その声の主が磯村露風であるとわかった。
「なんだと!?」
関根は、ようやく動きを止めていた。
横倒しになった熊の上に、関根は自分が跨がっていることに、ようやく気がついた。
熱い。
全身が、かっかと肉の内部から燃え盛っている。
身につけていたTシャツとシャツが、ぼろぼろで、血まみれだった。
シャツから、ぼとりぼとりと血が滴っている。
左頬の一部が、裂けて、そこからも血がこぼれている。
右腕の、肘の前後の肉が、はじけたようになっていて、そこからも血はこぼれていた。
腹と胸の感覚が、おかしくなっている。
身体の前面の肉が、ごっそりと失くなっているようで、感覚がない。
あるとしたら、火のような湿度だけだ。
ああ、そうか。
右腕を、熊の口の中に、肘までおもいっきり突っ込んでやったんだ。
おれの、太い腕を。
肘のあたりのえげつない傷は、熊の牙にやられたんだ。
胸と、腹は――
見たくなかった。
熊の爪に何度もほじられて、ずくずくのずだぼろの、ミンチ状態になっているに違いなかった。
「窒息死だな……」
磯村露風は、関根が跨がっている熊を見下しながら、言った。
「褒めておく」
磯村露風は言った。
「スマートじゃなかったが、素手で熊を殺してしまうというのは、並の人間がやれることじゃない」
褒められても、関根音は、少しも嬉しくなかった。
「てめえ、合宿だなんて、おれたちを騙して、熊とやらせるために、こんなところでキャンプをさせやがったな」
関根は、立ちあがった。
その両肩が激しく上下している。
熊と闘って、息があがっているのが半分。あとの半分は、怒りのためだ。
「その熊より、おまえの方が、体重は上だが、野性の獣の筋力は、ハンパじゃない。力ずくだったが、それは、逆にたいしたもんだ」
「うるせえっ!」
関根は咆えた。
「ここで、勝負だ」
関根は、怒りで眼がくらんでいる。
頭から磯村露風につっかけた。
「関根さん」
関根の身体を、後ろから羽交じめにしたのは、西村一だった。
「てめえがやってみたらどうだ、こんなことをさせやがって」
「もう、やっている」
磯村露風は、言った。
ええ!?
「おれは、二頭とやった」
「二頭だと!?」
「ああ」
「それで、勝ったのか」
「二頭とも、おれが食った」
「勝ったってことか」
関根の声に、微かな驚きが混じる。
「食ったって言ったろう」
「――――」
「多少、技を使った。力で勝ったわけじゃない。関根、おまえは、力で勝った。それは凄いことだ」
いつになく、磯村露風は、正直に関根を褒めている。
「どうでえ、関根よ。もう、松尾象山だろうが、巽真だろうが、怖かあないだろう」
ほんとだ――
関根音は、そう思った。
怖くない。
松尾象山だろうが、巽真だろうが、相手が人間なら、もう、誰も怖くなかった。
「今、京野が、無線で車を呼んでいる。合宿は終りだ。おまえを、これから病院へ放り込む。半月で、傷を治せ。闘天には、充分に間に合うだろう」
磯村露風は、妙に嬉しそうだった。
「もうひとつ、褒めておく」
「なんだ」
「おまえ、馬鹿力だけは、凄いな」
「馬鹿力だって?」
「腰に結んでいたロープを見てみろ」
「なに!?」
ここで、はじめて、関根は自分の身体を見まわし、周囲を見た。
むこうに、ロープを縛りつけていたはずの杉の木が一本、見えていた。
遠い。
だが、どうして、この距離まで、自分は動けたのだろうか。
無我夢中で熊と闘っている最中にロープを引きちぎっていたらしい。
「合宿終了」
磯村露風は言った。
一章 梶原年雄
1
強くなりたかった。
ただ、それだけだった。
いじめられっこで、いじめられないために、強くなろうとしたわけではない。自分をいじめたやつに、復讐したり、見返してやるために強くなりたかったわけではない。
いじめられた経験は、ほぼ、ない。
ただ、強くなりたかった。
テレビや、映画、コミックや小説のヒーローや、主人公にあこがれたわけでもない。
校内の体力測定や、運動で、一番になりたかったわけでもない。
柔道や相撲、空手の大会で優勝したいわけでもなかった。オリンピックで、金メダルが欲しかったわけでもない。
金メダルが、強くなるための手段であるなら、それを目標にするのもいい――そのくらいの感覚だった。
何のために、強くなりたいのか。
そんなことは、考えたこともなかった。
あの漢と会うまでは、だ。
あの漢――
丹波文七である。
丹波文七に勝ちたい。
丹波文七に勝つために強くなりたい。
丹波文七の顔を、思い浮かべながら、梶原年雄は、青山通りを歩いている。
陽射しが強い。
自分は、天才ではない。
よくわかっている。
他人より、特別に運動神経がいいわけでもない。
それも、よくわかっていた。
しかし、強くなりたかった。
それだけだった。
そして、強くなるために、プロレスを選んだのだ。
人気のことは、気にしなかった。
強くなれれば、それでよかった。
自分が、他の人間と違うとすれば、努力することができたことだ。
一日、二十四時間、強くなるために全ての時間を使って、苦にならなかった。
飯を食う時も、筋肉と、身体のことを思いながら食べた。足らない筋肉があれば、そこの筋肉に、なれ、なれ、と念じながら、飯を食べた。
眠っても、稽古の夢を見た。
そして、自分は強くなったのである。