最初から読む

 

序章 関根音

 

 

 

 チージは、琉球――つまり現在の沖縄ということになるが、那覇の遊郭街である。

 沖縄がまだ琉球と呼ばれていた頃、チージは、ただの遊郭街ではなく、琉球王朝の身分の高い士族、豪商、名士たちの社交の場であった。

 当然、チージには、テイー――すなわちからの達人も顔を出すことになる。

 そこで行なわれたのが、掛きカキ試しダミシである。わかりやすく書けば、だめしである。

 一種の唐手の稽古であり、試合のようなものだ。

 前もって、決めて行なわれる試合ではない。その場で申し込み、申し込まれた者が受ければ、そこで掛きカキ試しダミシは成立することになる。

 野試合というのに近いかもしれないが、むろん、野試合ではない。喧嘩というのとも明らかに違う。

 いきなり襲いかかってよいというものではない。

 ある男が、テイーを学んで、ある時、ふと、自分の実力を試したくなる。

 その時、チージへ出かけて、相手を見つけて掛きカキ試しダミシを申し込むのである。

 簡単そうだが、誰でもできることではない。

 暗黙の了解があった。

 自他共に認めるそれなりの実力がなければ、とてもチージでの掛きカキ試しダミシに挑戦できるものではない。

 申し込む相手も、強い者に限られる。

 申し込まれた者が、申し込んできた者の実力を、その場で値踏みして、取るに足らずと判断すれば、断わられてしまう。

 当時、唐手には、約束組手は存在しなかった。

 そこで、掛きカキ試しダミシが行なわれるようになったのであろう。

 むろん、素手。

 掛きカキ試しダミシをすれば、大怪我をすることも、時に、死に至ることもあった。

 互いに名のりあって、琉球の名士たちの眼のあるところで闘うことになる。

 掛きカキ試しダミシは、申し込む方も、受ける方も、自身の命や名誉をかけた試合方式であったのである。

 明治三〇年の頃には、もう、掛きカキ試しダミシをするものはいなくなっていたらしいが、沖縄が生んだ稀代の唐手家、もとちようが、この掛きカキ試しダミシをやったか、やろうとしたという噂もあるので、ことによったら昭和の初め頃までは、この慣習は残っていた可能性はある。

「あの、掛きカキ試しダミシを、翁九心が、九歳の頃からやっていたと?」

 姫川勉は、おでん屋の親父――姫川源三に問うた。

「らしいな」

 源三がうなずく。

「翁九心が、何歳かは知りませんが、いくら子供の頃といったって、もう、その時掛きカキ試しダミシはやられていなかったのでは――」

「まあ、似たようなことを勝手にやっていたらしい」

「沖縄で?」

「ああ」

「それで、つじ流」

「そういうことだな」

「しかし、自ら流派を名のらなくとも、辻流と呼ばれる以上は、弟子のような人間もいたということですか」

「おれの知る限りでは、弟子かどうかは知らんが、ふたりほどは、思い浮かべることができる」

「それは?」

「道田薫、さっき名前を出したろう」

「翁九心とって、車椅子生活を余儀なくされたと――」

「ああ……」

「もうひとりは?」

「金村良平――」

 源三は、その名を口にして、うなずいた。

 

 

 関根音は、狂っていた。

 もう、何がなんだかわかっていない。

 焼けた鉄の玉を吐き出すように、意味不明の言葉を叫んでいた。

 黒いもののけの塊に、肘をあて、殴り、指でほじくり、締めていた。

「おい、関根――」

 声がした。

 その声が、誰の声かわからない。

「もういい」

 何がもういいだ。

 何がいいんだ。

「もう死んでいる」

 ばか。

「おれは生きてる」

「熊がだ」

「なにい!?」

「熊は、もう死んでいる」

 ここで、ようやく関根は、その声の主が磯村露風であるとわかった。

「なんだと!?」

 関根は、ようやく動きを止めていた。

 横倒しになった熊の上に、関根は自分が跨がっていることに、ようやく気がついた。

 熱い。

 全身が、かっかと肉の内部から燃え盛っている。

 身につけていたTシャツとシャツが、ぼろぼろで、血まみれだった。

 シャツから、ぼとりぼとりと血が滴っている。

 左頬の一部が、裂けて、そこからも血がこぼれている。

 右腕の、肘の前後の肉が、はじけたようになっていて、そこからも血はこぼれていた。

 腹と胸の感覚が、おかしくなっている。

 身体の前面の肉が、ごっそりと失くなっているようで、感覚がない。

 あるとしたら、火のような湿度だけだ。

 ああ、そうか。

 右腕を、熊の口の中に、肘までおもいっきり突っ込んでやったんだ。

 おれの、太い腕を。

 肘のあたりのえげつない傷は、熊の牙にやられたんだ。

 胸と、腹は――

 見たくなかった。

 熊の爪に何度もほじられて、ずくずくのずだぼろの、ミンチ状態になっているに違いなかった。

「窒息死だな……」

 磯村露風は、関根が跨がっている熊を見下しながら、言った。

「褒めておく」

 磯村露風は言った。

「スマートじゃなかったが、素手で熊を殺してしまうというのは、並の人間がやれることじゃない」

 褒められても、関根音は、少しも嬉しくなかった。

「てめえ、合宿だなんて、おれたちを騙して、熊とやらせるために、こんなところでキャンプをさせやがったな」

 関根は、立ちあがった。

 その両肩が激しく上下している。

 熊と闘って、息があがっているのが半分。あとの半分は、怒りのためだ。

「その熊より、おまえの方が、体重は上だが、野性の獣の筋力は、ハンパじゃない。力ずくだったが、それは、逆にたいしたもんだ」

「うるせえっ!」

 関根は咆えた。

「ここで、勝負だ」

 関根は、怒りで眼がくらんでいる。

 頭から磯村露風につっかけた。

「関根さん」

 関根の身体を、後ろから羽交じめにしたのは、西村一だった。

「てめえがやってみたらどうだ、こんなことをさせやがって」

「もう、やっている」

 磯村露風は、言った。

 ええ!?

「おれは、二頭とやった」

「二頭だと!?」

「ああ」

「それで、勝ったのか」

「二頭とも、おれが食った」

「勝ったってことか」

 関根の声に、微かな驚きが混じる。

「食ったって言ったろう」

「――――」

「多少、技を使った。力で勝ったわけじゃない。関根、おまえは、力で勝った。それは凄いことだ」

 いつになく、磯村露風は、正直に関根を褒めている。

「どうでえ、関根よ。もう、松尾象山だろうが、巽真だろうが、怖かあないだろう」

 ほんとだ――

 関根音は、そう思った。

 怖くない。

 松尾象山だろうが、巽真だろうが、相手が人間なら、もう、誰も怖くなかった。

「今、京野が、無線で車を呼んでいる。合宿は終りだ。おまえを、これから病院へ放り込む。半月で、傷を治せ。闘天には、充分に間に合うだろう」

 磯村露風は、妙に嬉しそうだった。

「もうひとつ、褒めておく」

「なんだ」

「おまえ、馬鹿力だけは、凄いな」

「馬鹿力だって?」

「腰に結んでいたロープを見てみろ」

「なに!?」

 ここで、はじめて、関根は自分の身体を見まわし、周囲を見た。

 むこうに、ロープを縛りつけていたはずの杉の木が一本、見えていた。

 遠い。

 だが、どうして、この距離まで、自分は動けたのだろうか。

 無我夢中で熊と闘っている最中にロープを引きちぎっていたらしい。

「合宿終了」

 磯村露風は言った。

 

 

一章 梶原年雄

 

 

 

 強くなりたかった。

 ただ、それだけだった。

 いじめられっこで、いじめられないために、強くなろうとしたわけではない。自分をいじめたやつに、復讐したり、見返してやるために強くなりたかったわけではない。

 いじめられた経験は、ほぼ、ない。

 ただ、強くなりたかった。

 テレビや、映画、コミックや小説のヒーローや、主人公にあこがれたわけでもない。

 校内の体力測定や、運動で、一番になりたかったわけでもない。

 柔道や相撲、空手の大会で優勝したいわけでもなかった。オリンピックで、金メダルが欲しかったわけでもない。

 金メダルが、強くなるための手段であるなら、それを目標にするのもいい――そのくらいの感覚だった。

 何のために、強くなりたいのか。

 そんなことは、考えたこともなかった。

 あの漢と会うまでは、だ。

 あの漢――

 丹波文七である。

 丹波文七に勝ちたい。

 丹波文七に勝つために強くなりたい。

 丹波文七の顔を、思い浮かべながら、梶原年雄は、青山通りを歩いている。

 陽射しが強い。

 自分は、天才ではない。

 よくわかっている。

 他人より、特別に運動神経がいいわけでもない。

 それも、よくわかっていた。

 しかし、強くなりたかった。

 それだけだった。

 そして、強くなるために、プロレスを選んだのだ。

 人気のことは、気にしなかった。

 強くなれれば、それでよかった。

 自分が、他の人間と違うとすれば、努力することができたことだ。

 一日、二十四時間、強くなるために全ての時間を使って、苦にならなかった。

 飯を食う時も、筋肉と、身体のことを思いながら食べた。足らない筋肉があれば、そこの筋肉に、なれ、なれ、と念じながら、飯を食べた。

 眠っても、稽古の夢を見た。

 そして、自分は強くなったのである。

 

(つづく)