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序章 関根音

 

 

 夜の、公園である。

 遊具が少しあって、林のような一角もあって、ベンチもいくつか。

 街灯も、何本かある。

 それなりに人通りがあるのは、公園を斜めにつっきった方が近道になるからだ。

 サラリーマンが仕事を終えて、一杯やって、適当にきりあげて、電車にのってもよりの駅で降り、家まで歩いて帰る――その途中にある公園。

 早くはないが、遅くもない時間――公園をつっきってくる人間の中には、女性の姿もある。

 その公園の街灯の下に、屋台が店を出している。

 庇の下に、〝おでん〟と書かれた提灯がぶら下がっている。

 椅子は、五人分。

 屋台の背後に、軽トラが一台停まっている。

 車でやってきて、軽トラを停め、積んでいたものを出して、屋台を組みたてた――それだけの店だ。

 今どき、どうして、このような屋台を、こんな場所に出すことができるのか。

 どこかに、よほど強力なコネを持っているのであろう。

 店の親父は、五十歳を少し出たくらいの男だ。

 五十三歳か、その前後だろう。

 身長は、一七〇センチを二、三センチ、オーバーしているかどうか。

 頭にねじった手ぬぐいを巻いている。

 それが、似合っているのかいないのか、判断できない風貌をしている。

 姫川源三ひめ かわ げん ぞうである。

 客は、ひとりだった。

 ちょうど、おでん屋の親父――姫川源三と向かい合わせになる位置だ。

 客は、座っていても、背が高いとわかる男だった。

 長い髪には、癖がない。

 隙のないスーツを着ている。

 夜だからいいものの、日中だったら、このスーツ姿でおでんを食べたら、五月とはいえ、いっぺんに汗が吹き出してしまうだろう。

 姫川つとむ――屋台の親父、姫川源三の息子である。

 姫川の前には、一枚の皿が置かれ、その上に、串に刺したこんにゃくがひとつ、載っている。

 すでに、半分ほど食われている。

 その皿の横に置かれているのは、日本酒の入ったコップだ。

 量は、ほとんど減っていないと思われた。

闘天とう てんに出ることを決めたようだな」

 姫川源三が言った。

「ええ」

 と、姫川勉の紅い唇が動く。

「出るのはいいが……」

 源三が、途中まで口にして、残りの言葉を唇の外に出さず、喉の奥で止めた。

「まさか、相談しなかったことが不満だとでも――」

「そんなことじゃない」

「では、何です?」

「剣呑なやつばかりだぞ」

「承知してますよ」

 姫川の唇に、強い笑みが点った。

「だから、出場したいってことだろう」

「ええ」

「出場するなとは言わんよ。ただ、ひとつ、おまえの知らんことを教えておこうと思ってな」

「知らないこと?」

翁九心おきな きゆう しん

「しばらく前、梅川うめ かわを、丹波たん ばとの試合前に潰したやつですね」

「おまえが知っているのは、そのくらいだろう」

「他に、何か」

「翁九心、かなり、おかしい」

「おかしい? 危ないんじゃないんですか」

「危ないのは、もちろんだよ。ただ、こいつは、奇妙なんだ」

「奇妙?」

「危険と言えば、丹波だって、他の誰だってみんな危険だ。相手をする者が、死ぬ可能性はある」

「あたりまえでしょう。丹波じゃなくたって、全員がそうだ」

「しかし、この翁九心は違うんだよ」

「何が違うんです?」

 姫川が問うと、源三は、唇を閉じ、ややあってから、

「わからん。うまく言えん」

 小さく首を振った。

「ふうん……」

 姫川も、自分の父である源三の実力、他の人間の強さを見抜く眼力については、認めている。

 その源三が、どうして、このように口ごもるのか。

「仮に、闘いで、おまえがやられて死ぬとする――」

「それで――」

「その相手が、丹波や松尾さんだったら、おそらくあるはずの納得というか、そういうものが、やられる方にないんだよ」

「相手が翁九心だとそれがない?」

「そうだ」

「――――」

「たぶん、闘いに対して翁九心が何かもっているとしたら、それは興味だな」

「興味?」

「勝ちたいだとか、負けたくないとか、そういうことじゃない。闘う時に、人の心に生ずるはずの、色々なものが欠落してるんだ」

「わかりませんね」

「わかっていることを、教えてやろう。今度の闘天な、あれは、道田薫どう でん かおるが、翁九心ただひとりのために開くイベントだよ。おそらくな――」

「本当に?」

「道田薫が、車椅子にいつも乗っているだろう。あれは、その昔、翁九心にやられたからだよ」

「へえ……」

 姫川の、双眸が光った。

「翁九心の流派だが、つじ流と呼ばれている」

「知ってますよ」

「しかし、これは、そういう流派があるわけではない。本人が創始して、自らがそう呼んでいるわけでもない。周りが勝手にそう言っているだけだ。沖縄の、掛き試しカキダミシは、わかるか――」

「もちろん」

「翁九心、子供の頃、あそこでっていたらしい」

「子供の頃?」

「九歳の頃からだそうだ……」

 姫川源三は言った。

 

 

 ちぇっ、

 ちぇっ、

 と、関根音は、舌打ちを繰り返している。

 夜――

 二メートル四方のブルーシートに腰を下ろして、すぐ向こうの炎を見つめている。

 焚火だ。

 山から見つけてきた、太い木を、何本か転がしてある。

 適当に湿っているので、簡単には燃えあがらない。

 中程度の火が、いつまでも燃えているのである。

 雨が降っていないのがありがたかった。

「雨が降っても、テントにもどるのはいかんぞ――」

 磯村露風には、そう言われている。

 雨が降ったらこのブルーシートを被って、雨をしのがなくてはならない。

「この火を、朝までずっと見つめるんだ」

「それが、修行っスか」

「そうだよ。精神を集中させるんだ」

「それで、強くなれるんスか」

「なれる」

 ほんとか。

 どうして、火を朝まで見つめていれば強くなれるのか。

 そんなことあるわけがない。

 あちこちに張ったテントからは、ごうごうといういびきが聞こえている。

 みんなテントに潜り込んだら、すぐにあの鼾だ。

「糞!」

 関根音は、思わず声に出す。

 こっちは、テントも寝袋もない。

 寒くて眠れない。

 足元に置いてあるのは、ペットボトルに入ったオレンジジュース。

 そして、ハチミツ味のドロップだけだ。

 どれだけ、腹が減っても、喉が渇いても、口にしていいのはそれだけだ。

 ハチミツ味に、オレンジジュース――ガキかおれ。

 オレンジジュースは、もう、半分以上飲んだ。

 ドロップは、五粒舐めた。

 ドロップを舐めた後は喉が渇く。しかし、その後に飲むのがオレンジジュースでは、うまくない。

 どうして、こんなことになってしまったのか。

 関根音は、くやしまぎれに考えている。

 仕方がない。

 籤に当ってしまったからだ。

 頭薬部分のないマッチ棒を、引いてしまったのだ。

 これまでの四夜は、籤に当ったのは、ジム・ヘンダースンと、西村のやつと、京野のやつだ。京野は、二晩もこの火を見つめることになって、妙に真面目なあいつは、朝まで起きて、二晩ともずっと、火を見つめていたらしい。

 たぶん、京野なら、それくらいはやるであろう。

 しかし、どうしてこのおれが、そんなことをやらねばならないのか。

 みんなが寝静まったら、テントに潜り込んで勝手に寝てやるつもりだったのだが、腰の縄が解けないのである。

「おまえが逃げ出さぬよう、これで縛ってやるからな」

 磯村露風が用意してきたのは、登山やロッククライミングで使用される、太いザイルだった。

「二百キロの荷物が二十メートル落下した時でも、このザイルがあれば、その衝撃を止めることができるからな」

 そう言って、磯村露風のやつは、ザイルの一方の端を近くの幹に、もう一方の端をおれの腰に巻きつけて、結んだのである。

「これは、特別な結び目でな、素人には解けない」

 それを口にした時の磯村露風は、その口に、いやな笑みを浮かべていたのである。

 これまでに、何度か挑戦して、その結び目を解こうとしたのだが、磯村露風のやつが言った通り、解けなかった。

 そのたびに、磯村の親父のその笑い顔を思い出すのがいやで、おれは、そのむだな努力を、もうやめてしまった。

 いやな臭いもする。

 磯村の親父が、帰る時に燃やすからというので、すぐ向こうに、これまで口にした食べ物の残りや、余ったものを、キャンプ地の一角に、そのまま集めて放置してあるのである。

 しかし、火を見つめろったって、そんなこと、ひと晩やっていられるものか。

 見ていれば、自然に瞼が重くなる。

 腹も減ってくる。

 いつの間にか、おれは、眠ってしまった。

 そして、おれは、夢を見ていた。

 屋台で、熱いおでんを食っている夢だ。

 そのおれを、横から、こづいてくるやつがいる。

 別の客がやってきて、おれを力ずくでのけて、おれの席に座ろうとしているらしい。

 とんでもないやつだ。

 おれは、おもいきり、そいつをぶん殴ってやった。

 右手に、いやな手応えがあった。

 ふん、

 ふん、

 という、凄い鼻息が、おれの顔にかかってくる。

 むなくそ悪くなるような臭い息だ。

 糞!

 それで、おれは、眼を覚ましたのだ。

「!」

 おれは、リンゴくらいの大きさの息を丸ごと呑み込んで、それに気がついていた。

 眼の前に、熊がいたのである。

 

(つづく)