序章 関根音
2
夜の、公園である。
遊具が少しあって、林のような一角もあって、ベンチもいくつか。
街灯も、何本かある。
それなりに人通りがあるのは、公園を斜めにつっきった方が近道になるからだ。
サラリーマンが仕事を終えて、一杯やって、適当にきりあげて、電車にのってもよりの駅で降り、家まで歩いて帰る――その途中にある公園。
早くはないが、遅くもない時間――公園をつっきってくる人間の中には、女性の姿もある。
その公園の街灯の下に、屋台が店を出している。
庇の下に、〝おでん〟と書かれた提灯がぶら下がっている。
椅子は、五人分。
屋台の背後に、軽トラが一台停まっている。
車でやってきて、軽トラを停め、積んでいたものを出して、屋台を組みたてた――それだけの店だ。
今どき、どうして、このような屋台を、こんな場所に出すことができるのか。
どこかに、よほど強力なコネを持っているのであろう。
店の親父は、五十歳を少し出たくらいの男だ。
五十三歳か、その前後だろう。
身長は、一七〇センチを二、三センチ、オーバーしているかどうか。
頭にねじった手ぬぐいを巻いている。
それが、似合っているのかいないのか、判断できない風貌をしている。
姫川源三である。
客は、ひとりだった。
ちょうど、おでん屋の親父――姫川源三と向かい合わせになる位置だ。
客は、座っていても、背が高いとわかる男だった。
長い髪には、癖がない。
隙のないスーツを着ている。
夜だからいいものの、日中だったら、このスーツ姿でおでんを食べたら、五月とはいえ、いっぺんに汗が吹き出してしまうだろう。
姫川勉――屋台の親父、姫川源三の息子である。
姫川の前には、一枚の皿が置かれ、その上に、串に刺したこんにゃくがひとつ、載っている。
すでに、半分ほど食われている。
その皿の横に置かれているのは、日本酒の入ったコップだ。
量は、ほとんど減っていないと思われた。
「闘天に出ることを決めたようだな」
姫川源三が言った。
「ええ」
と、姫川勉の紅い唇が動く。
「出るのはいいが……」
源三が、途中まで口にして、残りの言葉を唇の外に出さず、喉の奥で止めた。
「まさか、相談しなかったことが不満だとでも――」
「そんなことじゃない」
「では、何です?」
「剣呑なやつばかりだぞ」
「承知してますよ」
姫川の唇に、強い笑みが点った。
「だから、出場したいってことだろう」
「ええ」
「出場するなとは言わんよ。ただ、ひとつ、おまえの知らんことを教えておこうと思ってな」
「知らないこと?」
「翁九心」
「しばらく前、梅川を、丹波との試合前に潰したやつですね」
「おまえが知っているのは、そのくらいだろう」
「他に、何か」
「翁九心、かなり、おかしい」
「おかしい? 危ないんじゃないんですか」
「危ないのは、もちろんだよ。ただ、こいつは、奇妙なんだ」
「奇妙?」
「危険と言えば、丹波だって、他の誰だってみんな危険だ。相手をする者が、死ぬ可能性はある」
「あたりまえでしょう。丹波じゃなくたって、全員がそうだ」
「しかし、この翁九心は違うんだよ」
「何が違うんです?」
姫川が問うと、源三は、唇を閉じ、ややあってから、
「わからん。うまく言えん」
小さく首を振った。
「ふうん……」
姫川も、自分の父である源三の実力、他の人間の強さを見抜く眼力については、認めている。
その源三が、どうして、このように口ごもるのか。
「仮に、闘いで、おまえがやられて死ぬとする――」
「それで――」
「その相手が、丹波や松尾さんだったら、おそらくあるはずの納得というか、そういうものが、やられる方にないんだよ」
「相手が翁九心だとそれがない?」
「そうだ」
「――――」
「たぶん、闘いに対して翁九心が何かもっているとしたら、それは興味だな」
「興味?」
「勝ちたいだとか、負けたくないとか、そういうことじゃない。闘う時に、人の心に生ずるはずの、色々なものが欠落してるんだ」
「わかりませんね」
「わかっていることを、教えてやろう。今度の闘天な、あれは、道田薫が、翁九心ただひとりのために開くイベントだよ。おそらくな――」
「本当に?」
「道田薫が、車椅子にいつも乗っているだろう。あれは、その昔、翁九心にやられたからだよ」
「へえ……」
姫川の、双眸が光った。
「翁九心の流派だが、辻流と呼ばれている」
「知ってますよ」
「しかし、これは、そういう流派があるわけではない。本人が創始して、自らがそう呼んでいるわけでもない。周りが勝手にそう言っているだけだ。沖縄の、掛き試しは、わかるか――」
「もちろん」
「翁九心、子供の頃、あそこで闘っていたらしい」
「子供の頃?」
「九歳の頃からだそうだ……」
姫川源三は言った。
3
ちぇっ、
ちぇっ、
と、関根音は、舌打ちを繰り返している。
夜――
二メートル四方のブルーシートに腰を下ろして、すぐ向こうの炎を見つめている。
焚火だ。
山から見つけてきた、太い木を、何本か転がしてある。
適当に湿っているので、簡単には燃えあがらない。
中程度の火が、いつまでも燃えているのである。
雨が降っていないのがありがたかった。
「雨が降っても、テントにもどるのはいかんぞ――」
磯村露風には、そう言われている。
雨が降ったらこのブルーシートを被って、雨をしのがなくてはならない。
「この火を、朝までずっと見つめるんだ」
「それが、修行っスか」
「そうだよ。精神を集中させるんだ」
「それで、強くなれるんスか」
「なれる」
ほんとか。
どうして、火を朝まで見つめていれば強くなれるのか。
そんなことあるわけがない。
あちこちに張ったテントからは、ごうごうという鼾が聞こえている。
みんなテントに潜り込んだら、すぐにあの鼾だ。
「糞!」
関根音は、思わず声に出す。
こっちは、テントも寝袋もない。
寒くて眠れない。
足元に置いてあるのは、ペットボトルに入ったオレンジジュース。
そして、ハチミツ味のドロップだけだ。
どれだけ、腹が減っても、喉が渇いても、口にしていいのはそれだけだ。
ハチミツ味に、オレンジジュース――ガキかおれ。
オレンジジュースは、もう、半分以上飲んだ。
ドロップは、五粒舐めた。
ドロップを舐めた後は喉が渇く。しかし、その後に飲むのがオレンジジュースでは、うまくない。
どうして、こんなことになってしまったのか。
関根音は、くやしまぎれに考えている。
仕方がない。
籤に当ってしまったからだ。
頭薬部分のないマッチ棒を、引いてしまったのだ。
これまでの四夜は、籤に当ったのは、ジム・ヘンダースンと、西村のやつと、京野のやつだ。京野は、二晩もこの火を見つめることになって、妙に真面目なあいつは、朝まで起きて、二晩ともずっと、火を見つめていたらしい。
たぶん、京野なら、それくらいはやるであろう。
しかし、どうしてこのおれが、そんなことをやらねばならないのか。
みんなが寝静まったら、テントに潜り込んで勝手に寝てやるつもりだったのだが、腰の縄が解けないのである。
「おまえが逃げ出さぬよう、これで縛ってやるからな」
磯村露風が用意してきたのは、登山やロッククライミングで使用される、太いザイルだった。
「二百キロの荷物が二十メートル落下した時でも、このザイルがあれば、その衝撃を止めることができるからな」
そう言って、磯村露風のやつは、ザイルの一方の端を近くの幹に、もう一方の端をおれの腰に巻きつけて、結んだのである。
「これは、特別な結び目でな、素人には解けない」
それを口にした時の磯村露風は、その口に、いやな笑みを浮かべていたのである。
これまでに、何度か挑戦して、その結び目を解こうとしたのだが、磯村露風のやつが言った通り、解けなかった。
そのたびに、磯村の親父のその笑い顔を思い出すのがいやで、おれは、そのむだな努力を、もうやめてしまった。
いやな臭いもする。
磯村の親父が、帰る時に燃やすからというので、すぐ向こうに、これまで口にした食べ物の残りや、余ったものを、キャンプ地の一角に、そのまま集めて放置してあるのである。
しかし、火を見つめろったって、そんなこと、ひと晩やっていられるものか。
見ていれば、自然に瞼が重くなる。
腹も減ってくる。
いつの間にか、おれは、眠ってしまった。
そして、おれは、夢を見ていた。
屋台で、熱いおでんを食っている夢だ。
そのおれを、横から、こづいてくるやつがいる。
別の客がやってきて、おれを力ずくでのけて、おれの席に座ろうとしているらしい。
とんでもないやつだ。
おれは、おもいきり、そいつをぶん殴ってやった。
右手に、いやな手応えがあった。
ふん、
ふん、
という、凄い鼻息が、おれの顔にかかってくる。
むなくそ悪くなるような臭い息だ。
糞!
それで、おれは、眼を覚ましたのだ。
「!」
おれは、リンゴくらいの大きさの息を丸ごと呑み込んで、それに気がついていた。
眼の前に、熊がいたのである。