一章 梶原年雄
1(承前)
まがりくねりながら、ここまでやってきた。
負けながら、強くなった。
負ける度に、その前よりも確実に強くなってきた。
それが、おれの誇りだ。
何故、自分は、プロレスを選んだのか。
空手でもなく、柔道でもなく、ボクシングでもなく、どうして自分はプロレスに決めたのか。
「おまえ、何故、プロレスだったんだ」
かつて、同門の長田弘にそう問われたことがある。
その時、自分は、その問いに答えなかった。
長田が、北辰館のトーナメントに出場するのが決まった時だ。
そのおり、長田と飲んだのだ。
ふたりで、一升瓶を二本空けた。
長田がひとり暮らしをしている、マンションとは名ばかりの狭い部屋だった。
その時、東洋プロレスは、長田が北辰館のトーナメントに出場することには反対だった。
東洋プロレスをやめても――
長田の覚悟は本物だった。
どうあっても出場するという長田に、結局、東洋プロレスは許可を出した。
ただし、出場前の、東洋プロレスのリングで、ある試合が組まれた。
その相手が、この自分――梶原年雄だったのである。
自分が、勝つ試合だった。
梶原は、その時のことは、まだ覚えている。
忘れようがない。
自分が長田に勝ち、梶原に負けた後なら、仮に長田が北辰館のトーナメントで敗北してもいいだろうと、東洋プロレスが考えたのである。
酒を飲みながら、自分は、長田に提案をした。
その試合で、リアルファイトをやろうと。
「やりてえよな」
その時、長田は、低い、絞り出すような声で言った。
「本気の本気をやりてえよな。おれたちが習った技を、本気で使ってもいい試合をやりてえよな。はらわたをふりしぼるような、負けちまっても、もしかして死んじまってもかまわねえような、本気の本気をやりてえよな。血を吐くような、本気の勝負を、一度でいいから、やってみてえよな……」
「独りじゃ、できないよ」
おれは、その時、長田にそう言った。
それで、そういう試合をやったのだ。
プロレスの試合を支配しているのは、レフェリーだ。そのレフェリーが、止めることのできないような試合。反則がなく、リング下にも落ちない試合。ルール通りに真剣勝負をする。これなら、レフェリーだって、試合を止めることはできない。
いい試合だった。
しかし、この試合は、途中で、ミスター・ゼンというレスラーが乱入して、ノーコンテストになってしまったのだ。
東洋プロレスが、乱入させたのだ。
「こんな会社、やめてやる!」
長田は、子供のように泣きながら、リング下で川辺の顔を殴っていた。
川辺は、抵抗しなかった。
川辺もまた、涙を流しながら、長田の拳を受けていたのである。
あれがきっかけだ。
今思えば、あれがきっかけで、東洋プロレスのリングで、リアルファイトができるようになったのだ。
あの時、始まったのだ。
もともと、プロレスが好きだった。
プロレスは、世界一の格闘技――そう信じていた。
投げてもいい。
関節を極めてもいい。
蹴ってもいい。
顔面以外なら、拳で殴ってもいい。
拳で顔面を殴ることも、レフェリーがスリーカウントまで数えている間ならOK。
ここに、全部あるじゃないか。
そう思ったのだ。
レスリングはもちろん、ボクシングも。
空手も。
柔道も。
その全部を、プロレスラーになれば学べるのだ。
だから、プロレスラーになったのだ。
本当に?
そうに決まってる。
2
そういう時に、やってきたのだ。
丹波文七が。
道場破りに――
「ここで一番強いのと、勝負させてくれるかい」
丹波のやつにそう言われた。
そうしたら、川辺が、この自分を選んだのだ。
闘った。
丹波は、おそろしく強かった。
丹波の打撃は、速く、そして重かった。
防御できたのは半分くらいだ。
後の半分は、当てられた。
しかし、そのさらに半分は、当てられはしたものの、何割かは威力を半減させたりすることができたはずだった。まともに当たったのは、攻撃の四分の一くらいだろう。
それが効いた。
だが、その全部は、自分の肉体で受けきった。
試合は、勝った。
丹波が、悲鳴をあげたのだ。
チキン・ウィング・フェイスロックという関節技だった。
その技が入っていたため、丹波の口から洩れたのは、細い呻き声のようだったが、確かに丹波は悲鳴をあげたのだ。
それで、勝った。
しかし、殴られた。
川辺にだ。
「何故こいつの腕でも肩でも、やっちまわなかったんだ」
どうして丹波の骨を折らなかったのかと、殴られたのだ。丹波の見ている前で、殴られ、踏みつけられ、罵倒された。
どうして、折ることができなかったのか。
わかっている。
少し前の試合中に、うっかり、相手の長田弘の腕を折ってしまったからだ。
いやな音だった。
自分の腕の中で、人間の骨が折れる音が響くのを聞くのは、ぞっとする。
耳で聞くのではない。
肉体から肉体へ直接響いてくるのである。
半分、事故のようなものだ。
それで、丹波の骨を折ることができなかったのだ。
自分が悪い。
あの時、丹波の腕を折るべきだったのだ。
それが、できなかった。
そして――
そして、おれは北辰館に入門したのだ。
グレート巽が、口を利いてくれたのだ。
そこで、手と足での打撃を学んだのだ。プロレス以外の打撃を学んだのだ。
打撃を学ぶことの必要性を感じたからである。
自分がやっていたのは、イングランドのランカシャーで発達した、キャッチ・アズ・キャッチ・キャンという、関節技の技術だ。
ランカシャーは炭鉱の街だ。
そこで発達したスタイルのレスリングだ。
真剣勝負で、相手の関節を極めて、ギブアップを奪う。
タイでのムエタイがそうであるように、賭け試合だ。
昼は炭鉱で働いていた連中が、夜、酒を飲みながら、試合に金を賭けるのだ。
そこで育った技術だ。
グレート巽が、このスタイルの達人だった。
それにプラスして、北辰館の空手を学んだ。
そして、ふたつの技術を、自分流に総合して使えるようにしたのだ。
トーナメントに出場しないかと声までかけてもらえるようになった。
そういう時に、六年後、再び丹波文七が、眼の前に現れたのだ。
二度目の闘いは、路上だった。
この時は、互角。
途中、パトカーのサイレンが近づいてきて、闘いをやめたのだ。
三度目は、北辰館のトーナメントで対戦をした。
丹波は、凄い奴だった。
自分にやられて、よほどの鍛錬をしたのだろう。
自分だってそうだ。
負けるたびに、強くなってもどってくる。
丹波もそういうタイプなのだろう。
三度目は、互角に近い勝負をしていたはずだった。
はず、というのは、その三度目の試合で、自分が丹波に負けてしまったからだ。
試合中に、丹波が、おれの頭を両手で掴んできたのだ。その時、丹波のふたつの親指がおれの眼を押さえてきたのだ。
その瞬間、自分の脳裏に、恐怖がよぎったのだ。
両眼を潰される!?
骨を折ったり、折られたりはいい。
死ぬわけではないからだ。
折れた腕や足は、いずれ治る。
しかし、眼は――
もしも失明したら、残りの一生を盲目で過ごすことになる。
それは、自分にはできない。
だから、丹波もそれはやらないだろうと、勝手に思っていたのである。
それは、反則だからだ。
しかし、丹波はやってきた。
いや、正確に言えば、丹波は、自分の眼を潰しはしなかった。潰すぞ、と脅しをかけてきただけだった。
それに、おれは、一瞬、ひるんでしまった。
その隙に、いい肘を顎に入れられてしまったのだ。
敗北――
はじめて、丹波文七に負けた。
それまでは、一勝一分けだった。
それが、一勝一敗一分けになった。
対戦成績は五分と五分。
しかし――
だからといって、今のおれと丹波が、本当に五分五分だとは思っていない。
一番近々の勝負に負けているのだ。
今は、丹波に勝ちたい、ただそれだけだ。
世界一強い漢でなくていい。
他の誰よりも弱くたっていい。
ただ、丹波文七に勝ちたい。丹波より強い人間――それだけを手に入れたい。
他の称号などはいらない。
今回の闘天のイベント、それが、丹波と闘うための唯一の機会なのだとわかっている。
しかし、丹波なら――
いつだっていい。
路上だろうが、電車の中だろうが、おまえがやりたいと思った時、おれを襲ってくればいい。
そう言うだろう。
糞。
腹が煮えている。
自分はいら立っている。
青山通りの歩道。
人混みの中だ。
そこで、おれは、街にまぎれ込んだ獣のようにいら立っている。
「糞――」
声に出してつぶやいた時、梶原は足を止めていた。
眼の前に、大きな肉の壁が立ち塞がっていたからだ。
その壁とぶつかる寸前だった。
顔を持ちあげると、そこに、知った顔があった。
「どうした。梶原――」
その壁が声をかけてきた。
長田弘だった。
「道場を通り過ぎたぜ」
ああ、そうだった。
知らない間に、道場を通り過ぎていた。
五〇メートルもだ。
「道場から、おまえの姿が見えたんでな。入ってくるのかと思っていたら、そのまま行っちまったんで、追いかけてきたんだ。声をかけても聞こえていないようだったんでな、おまえの前に立ったんだ」
そうか。
そうだったのか。
「どうした、梶原――」
長田は、そういった。
妙に優しい声だった。