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二章 松尾象山

 

 

 

「東北で、山ごもりをしてたんだって?」

 太い声で問うたのは、松尾象山だった。

 声だけでなく、その身体も太かった。

 頸の太さが顔と同じくらいある。

 僧帽筋を頸の太さと考えると、太さはさらに増える。

 左右の肩の筋肉――三角筋の占める分を肩幅から引いた分が、そのまま頸の太さということになる。

 とにかく、太い。

 吐く息、視線、感性までが太い。

 言い終えて、右手の人差し指の先で、こん、とカウンターを叩いたのだが、その指も、先まで太かった。

 着ているのは、高価そうなアルマーニのスーツである。

 色は濃紺。

 シャツは第三ボタンまではずしている。

 ネクタイをおもいきり緩めていた。

 肉体の内圧そのものが太すぎるので、シャツやスーツでは、その肉の力を包みきれていない。

 肉の持つ圧倒的な力が、スーツの外にまではみ出ているのである。

 シャツの袖ごと、スーツの袖を、肘のところまで無造作にめくりあげている。二本の太い腕が、はしたないほどむき出しになっている。

 どのような高価なスーツであれ、たとえTシャツであっても、この漢がそれを身につけると、似合わぬということがない。

 松尾象山のその肉体から放たれているものが半端ないほど、太く、強いのだ。

 その肉のエネルギーが、あらゆる服のデザインの持つ力を凌駕しているのである。

「ええ」

 と、答えたのは、磯村露風である。

 露風は、Tシャツに革ジャン、ジーンズを穿いていた。

 どうということのない、年季の入った革ジャンに、似たような古めのジーンズ。身長も一七〇センチ台の後半くらいか。

 街の雑踏の中にいれば、その人の渦の中に埋没してしまいそうな風体である。

 しかし、それなりの人間が見れば、その何げない立ち姿、座している姿に、不思議な気配が立ち昇っているのがわかる。

 見た目が普通、どこにでもいそうなおっさん――それでいて、とてつもなく強い。それを、松尾象山はよくわかっている。いざという時には、その表情のまま、顔つきを毛ほども変えずに人を殺すことのできる人間だと理解している。

「で、成果はあったのかい?」

「まずまずってところかな」

「ふうん……」

「関根くんがね、もうグレート巽も、松尾象山もこわくないって――」

「へえ……」

 松尾象山の肉が、じわりと膨らんだように見えた。

「そりゃあ、結構なことだねえ、磯村くん」

「いや、わたしが言ったんじゃありませんよ。関根が、関根音のやつが言ったんですからね――」

「磯村くんね、わたしのことこわくないんだ……」

「こわいですよ、今だって、こうやって隣りに座ってるだけで、身体、震えちゃってるんですから――」

「どうなのよ、世界征服。この松尾象山がこわくないんなら、もうやれるんじゃないの。あ、それで、キミんとこの関根くん、闘天に出るんだね。いいじゃない、それ。関根くん、それから京野くんだったっけ、出場するんだよね。京野くんとは、ちょっとタオルだかなんだかの引っぱりっこをして遊んだことあったけど、まさか、あのコまで、この松尾象山のこと、こわくないって言ってるの?」

「言ってませんよ」

 磯村露風は、微笑しながらそう言った。

「まあ、いいけど……」

 松尾象山の前のカウンターには、グラスがひとつ。

 大きな氷を転がした、バカラのグラスだ。

 ラフロイグのスモーキーな香りが、そのグラスから漂ってくる。

 磯村露風の前のカウンターには、カクテルグラスがひとつ。

 淡い赤紫の液体が入っていて、細い小枝に刺したレッド・チェリーと、グリーン・ミント・チェリーがあしらわれている。ドライジンをベースにした、スターリー・ナイトというカクテルである。

 かなり、カラフルで、可愛い。

「でも、磯村くん、キミねえ、そういうもの飲んでるところ、青山の連中に見られたらどうするの」

「どうするって……」

「強そうに見えないよ」

「見えなくったって、いいですもん、わたし。ほんとうに強いんで――」

 ここで、松尾象山が口にした「青山」は、巽真の東洋プロレスのことだ。

 近くに、道場と呼ばれるジムがあるのである。

「つい、この前もね、巽くんと久我重明とここで飲んだんだけどさあ、巽くんたらウーロン茶しか飲まないし、久我重明くんなんて、トマトジュースだよ、トマトジュース――」

 バー・バッカス。

 青山にある、バーだ。

 カウンターの中で、表情を変えることなくグラスを磨いているのが、オーナーでバーテンダーの宮崎である。

「ずい分、危ないヒトたちと飲むんだ、松尾さん――」

「あれから、ひとりで来たこともあるよ」

「でも、ここって、東洋プロレスのシマじゃないんですか。松尾さん、ひとりでよくのんびりできますね」

「ここが気に入っちゃったんだよ」

「へえ、だけど、何でそんな物騒なヒトたちと飲んだんですか――」

「ここのところ、何かもやもやしたものがあってさあ……」

「もやもやしたもの?」

「さっき、ちょっと出た闘天のことなんだけどさあ……」

「闘天が、どうかしましたか」

「磯村くんにとってはさ、いいチャンスじゃない。仮にさ、キミのとこの京野くんか関根くんが勝って優勝したりしたらさあ、ぐっと近づいちゃうよね、世界征服」

「わたしのところって、所帯が小さいし、関根以外は、表の世界じゃほぼ無名ですから。でも、裏の世界じゃ、実力だけじゃなく、わたしの知名度はかなりのものでしょう?」

「知名度?」

「噂じゃ、北辰館の松尾センセイよりも強いんじゃないかって――」

「あ、今のせんせいは漢字じゃなくって、カタカナに聞こえたんだけど――」

「そう?」

「それにね、噂って、誰がそんなこと言ってるの?」

「ですから、噂ですよ、噂。誰が言ってるかわかんないから、噂なんです」

「わたしから呼び出しといて、こういうこと言いたくないんだけど、こりゃあ、ここはワリカンだな、ワリカン」

「え、いいんですか?」

「何がだね」

「天下の松尾象山が、呼び出しておいて、さすらいの貧乏格闘家磯村露風とワリカンにしたって、言われますよ」

「誰に?」

「ワタシ。ワタシは、こういうこと、あちこちで言いふらす人間ですから――」

「キミはやりかねんねえ、なにしろ性格がセコいから――」

「どっちがセコいんですか」

 大人ふたりがじゃれあっている。

「話をもどしてくださいよ。闘天のことで、何かもやもやしてるんじゃなかったんですか――」

「まあ、そこなんだよ」

「どこですか」

「キミは、知ってるよね、闘天の金を出しているのが誰だか――」

「道田薫」

「そうなんだよ。でも、表向きはうちと北辰館、巽くんとこの東洋プロレスが主催ということになっている」

「ええ」

「会場費から、選手のファイトマネーまで、みんな道田薫もち。その上、あがりはみんなうちと巽んとこで山分けしていいことになっている……」

「そのようですね」

「いい話だ。悪いこたあひとつもない。ただ、天下の松尾象山としてはねえ、どうもそこんところが、何か、こう、もやもやしてねえ……」

「おもしろくない?」

「そうなんだよ」

「それで?」

「道田薫の条件は、みっつだ」

「みっつ?」

「翁九心を出場させること――」

「はい」

「闘天の出場者は、道田薫が決めた者、あるいは許可した者に限ること――」

「ええ」

「出場が決まった者には、闘天が終了するまで他の試合をさせないこと――」

「そのようですね」

「試合をさせないってことなら、東洋プロレスとうちは、それができるが、他の人間は、契約書で縛るしかない……」

「はい……」

「おまけに、この松尾象山と巽、それからおまえさんは、特別枠だよねえ」

「ええ」

「まさか、おれやグレート巽に、あのトーナメントに出場しろたあ、さすがに道田薫も言えなかったんだろうなあ……」

「だと思いますよ」

「だから、おれや巽についちゃあ、まだ何も決まっちゃあいないんだ。そこで、世間的には、特別枠ってえことになっている」

「それが、何か?」

「道田薫は、何がしたいんだ?」

「さあ――」

「うちの姫川の話じゃ、道田薫は、翁九心が負けるのを見たいんだそうだ」

「――――」

「翁九心が、勝ちあがって優勝したら、おれと巽をあてたいんだろう。そのための特別枠なんだろうよ」

「――――」

「丹波とやる予定だった、梅川丈次が、野試合で、翁九心にやられたよねえ。あれも、裏で動いたのは、道田薫だろう」

「そうなんですか?」

「そうだよ。まったくの無名じゃ、トーナメントに出しにくい。トーナメントで、翁九心とやるやつが、知らずに油断するかもしれないしね。そのために、あれを仕組んだんだろう」

「そういうものですか――」

「おいおい、磯村先生、とぼけるのはそのくらいにしたらどうだい」

「とぼける?」

「磯村先生、おまえさんが、どうして特別枠なんだい」

「そこですか」

「おれや巽が特別枠はわかる。しかし磯村露風が、どうして、特別枠なんだ」

「――――」

「おまえさん、山ごもりに行ってたって言ったよねえ」

「はい」

「その金は、どこから出ている? どこかに、道場もあるらしいじゃないの……」

「よく御存じで」

「スポンサーは、どこなんだい」

「おそれいりました」

 磯村露風は、カウンターに両手をあて、頭を下げた。

「全部お見通しってことですね」

「全部かどうかは知らんがね。どっちから話をもちかけたのかは、ともかくさあ、そういうところが、ちょいともやもやしてるってわけなんだ」

「世界征服、道田さんもお好きみたいで――」

「ふうん……」

 松尾象山がうなずく。

「でよ、頼みがあるんだよ」

「頼み?」

「おいらの口から伝えてもいいんだが、あんたの口から伝えてもらった方がいいと思ってね」

「誰にです」

「道田薫先生にさ」

「何を伝えますか」

「おもしろい試合が、ひとつ決まったんだよ」

「おもしろい試合?」

「グレート巽対カイザー武藤」

「え!?」

「それを、闘天にぶつける」

「凄い!」

「カイザー武藤は、リザーブ枠で、まだ口約束だけだ。巽くんも、特別枠だ。問題はない――」

「試合は、それ一試合だけ。そして、レフェリーは――」

「誰なんです」

「この松尾象山だよう」

 ひゅ~~、

 と、磯村露風が口笛を吹いた。

 

(5月号につづく)