二章 松尾象山
5
「おれのことかい……」
文七の背後で、久我重明がつぶやく。
文七は、左に、一歩、二歩、三歩移動した。
これで、翁九心と久我重明が、正面から向き合うこととなった。
「久我重明……」
翁九心が言った。
「おれの名前を知ってるのかい」
「萩尾流の暗器の重明なら、きみが考えているよりも、その名は世間に通っているよ」
「へえ……」
「えげつないことが好きらしい……」
「当ってる」
「聞いてる」
「何をだい」
「和歌山県の串本で、水上流柔術の水上喜左衛門を殺したんだってね……」
「殺してないよ。やつは、癌で死んだんだ……」
「そういうことにしておこう」
翁九心が、うなずく。
「あらためて訊ねるが、久我くん、きみはどうするのかね」
「どうするって?」
「わたしとやりに来たんではないのかい」
「おれは、あんたと丹波が、ここでやり合うのを見物に来たんだよ」
「丹波くんは、わたしとはやりたくないそうだ。きみも、それは聞いてたろう」
「ああ――」
「きみが、丹波くんのかわりになるんじゃないのかね」
「カキダミシを、ここでやろうと?」
「なつかしい言葉を久しぶりに耳にしたよ」
カキダミシ――普通に書けば、掛け試しだ。
これを、沖縄風に発音すれば、カキダミシとなる。
かつて、沖縄の遊廓街である辻と呼ばれた町で、実際に行なわれていた、試合――ストリートファイトである。
腕に覚えのある武術家――沖縄では手(空手)に覚えのある者が、これはと思う強そうな相手に声をかけ、そこで試合うという闘いの形式だ。
素人には声をかけない。
強そうな、あるいは世間に名の知れた、手の使い手に声をかける。
そこで、集まっている者たちが見守る中で、試合をするのである。
基本的に、ノールールだ。
声をかけられた方は、もちろん、断ってもいい。
相手が断ったら、闘いが行なわれることはない。
場合によっては、試し掛けなどと呼ばれることもある。
「あんた、昔、辻でだいぶカキダミシをやったんだろう」
「さあ……」
「そう言えば、辻流の、金村良平という男が、闘天に出場することになるようだな……」
「金村良平か……」
「知ってるんだな」
「多少はね」
「あんたの弟子らしい」
「弟子にした覚えはないね」
「辻流だと、本人は言ってるらしい。〝辻〟なら、自然に翁九心の名前が浮かぶ……」
「辻流など、わたしは、そんな流儀も、どんな流儀も名のったことはないよ」
「ふうん……」
「羽柴彦六とは、カキダミシをやったんじゃあないのかい」
「――――」
「場所は、辻じゃあない。新宿公園だったって、耳にしているよ」
「へえ……」
「羽柴彦六を潰したんだってね」
「潰しちゃいないよ」
「羽柴くん、車椅子生活になったって――」
「もう、自分の足で歩いてるよ。一年ほど、鳴海俊男の鳴海塾で教えて、今はまた、前のようにどこかを放浪してるらしい……」
久我重明の黒い顔に、何かをなつかしむような表情が浮かんだ。
「久我重明とやって、生きてたんだ」
「彦六は、殺したって死ぬようなタマじゃない」
「で、羽柴くんとはやって、わたしとはどうするのだね」
「いつか、機会があればとは、ずっと思っていた」
「興味深い発言だが、答えてないよ」
久我重明は、そこで、沈黙した。
黒い沈黙であった。
この黒い漢が口をつぐむと、その沈黙すら黒く見える。
ややあって、
「試したい……」
ぼそりと久我重明がつぶやいた。
「試す? このわたしを?」
「違うね。翁九心を試すなどと、そんな失礼なことはしないよ」
「ほ?」
「試すのは、技だよ」
「技?」
「影踏み……」
「聞かぬ名だな……」
「萩尾流にもない」
「あんたが考えた?」
「そういうことにしておこう」
「ふうん……」
翁九心の声が、小さくなる。
「この影踏みを、あんたに試してもらいたい――」
「結局、わたしを試したいということだね」
その問いに、久我重明は答えない。
ただ、半歩、退がった。
これからやろうとすることのために、必要な距離をとった――文七にはそう見えた。
だらりと、両腕を、身体の両側面に垂らした。
「なんだか、このまま始まってしまいそうだね……」
翁九心の声が、さらに小さくなっている。
「もしも、これで始まってしまうんなら、それでいいよ」
久我重明が言った。
ふたりの間の空気が、張りつめている。
脆いガラス質の空気だ。
ごくり、
と、唾を呑む音がした。
唾を呑んだのは、丹波文七だ。
文七は、一歩、二歩、三歩――五歩退がった。
これから始まろうとしているものの邪魔にならないようにするためだ。
久我重明が、右手をゆらりと持ちあげて、掌を、翁九心に向けた。
何も握られてはいない。
その手首がくるりと回る。
回った手が動きを止めた時、その手に握られていたのは、黒い、金属の棒であった。
長さは、十五センチほどだ。
太さは、細いエンピツほどだ。
その両端が尖っている。
「飛寸だね……」
翁九心がつぶやく。
飛寸――萩尾流の、隠し武器、暗器のひとつだ。
飛鉄は、一方の端だけだ。が尖っている。飛寸は、その両端が尖っている。
「これから、この飛寸を投げる……」
久我重明は、左手を少し持ちあげ、人差し指を立てて、その先を空へ向けた。
「上へね」
久我重明が、ほんのわずかに、眼球だけを動かして、視線を上に向けた。
普通であれば、ほんの一瞬、つられて相手も視線をあげてしまう絶妙のタイミングだった。
しかし、翁九心は、ただ黙って、久我重明を見つめているだけだ。
「すると、この飛寸は、この切先を下にして落ちてくる。ちょうど、あんたの脳天のまん中あたりだよ」
「丁寧に教えてくれるんだな」
「たぶん、あんたがどこへ逃げても、ちょうどそこへ落ちてくるようになっている」
「おもしろそうだ」
翁九心の口元に、笑みが浮いている。
「じゃ、いくよ」
久我重明は言った。
しかし、久我重明は、動かなかった。
ただ、そこに立っているだけだ。
一秒……
二秒……
三秒……
動いたのは、七秒後だった。
右手と、左手。
正確には、両手とも、動いたのは手首から先だけだ。
同時――
ではなかった。
わずかに左手が先で、右手がわずかに遅れた。
いずれも、下から上へ。
どちらの手が、飛寸を投げたのか。
翁九心からは、わからない。
視線を上へ向ければ当然わかるが、翁九心は視線を動かさない。
もしも、視線を動かせば、その隙をねらって、一方の手に残っていた飛寸を投げてくるかもしれないからだ。
飛寸を、上へ投げる。――久我重明はそう言った。
行為としたら、おそろしくシンプルで、単純だ。
しかし、そこには、実に複雑な思考を生むものが含まれていたのである。
投げると言って、投げないかもしれない。
投げずに、正面から久我重明が襲いかかってくるかもしれない。
あるいは、本当に投げる。
しかし、それが、一本であるのか、二本であるのか。わざと、左手に握った暗器を投げると見せて、右手で、あらたな飛寸を投げるかもしれない。両手で、わずかな時間差をつけて、二本を投げたかもしれない。
それが、宙に浮いて、落ちてくる。
切先を下に向けて。
どこへ落ちるのか。
投げた時には、確かに時間差があった。
しかし、落ちる時は、その時間差通りとは限らない。
手首の速度や力の加減で、同時に落ちてくるようにも、さらに時間差をつけて落ちてくるようにもできるからだ。
しかも、仮に二本の飛寸が宙に浮いたとして、どこへ落ちるのか。
一本は頭の上としても、もう一本は?
避ける。
動く。
その移動した先へ、もう一本が落ちてくるかもしれない。
しかし、落ちてくる飛寸を避けるための動きをしたら、それが、どれほどわずかでも隙になる。
その時に、次の飛寸を打ち込まれたら?
さらにそれをかわしていたら、隙が大きくなる。
久我重明は、凄まじい複雑系の中に、翁九心を追い込んでいたのである。
しかも、これから勝負をするとも、しないとも、久我重明は口にしていないのだ。
〝これで始まってしまうんなら、それでいいよ〟
久我重明が口にしたのはそれだけだ。
すぐには、翁九心は動かなかった。
しかし、それは、わずかな間だ。
つ、
と、翁九心が退がった。
一歩半――
浅く、左足で退がり、続いて右足を退げる。
「ひゅっ」
と、翁九心の唇から呼気が洩れた。
退げた右足が、前に出ていた。
上から、飛寸が落ちてきた。
翁九心の顔の前だ。
もしも、翁九心がそのまま立ち続けていたら、その脳天にその飛寸が突き立っていたろうと思われるところだ。
翁九心の右足の中足――親指の付け根が、落ちてきた飛寸を、胸の高さで蹴っていた。
飛寸が、飛んだ。
久我重明の胸に向かって――
文七は、その光景を見ていた。
見ながら驚嘆していた。
翁九心が、その場でやったことについてである。
もしも、左か右に避けていたら、久我重明の攻撃を受けていたかもしれない。
しかし、久我重明は仕掛けてこなかった。
翁九心は、退がったことによって、久我重明の、肉体の攻撃を避けたのである。
翁九心が退がった時、隙ありと見て久我重明が突っかけてきたら、久我重明は、自身の身体のどこかに、落ちてきた飛寸を受けてしまうことになる。
だから、久我重明は、追ってこなかったのだ。
飛寸を、あらたに投げるにしても、それにはひと手間かかってしまう。
飛寸が隠されているのは、おそらくは、久我重明の袖の中だ。
そこから、掌に飛寸を落とし込むのに、わずかながら時間がかかる。
もしも久我重明がそうくるのなら、そのわずかな遅れ、わずかな隙き間に、翁九心の方が攻撃に出ることもできる。
だから、飛寸を蹴って飛ばしたのだ。久我重明の方へ向けて。
が――
同時に、翁九心に向かって、宙を飛んでくるものがあった。
久我重明があらたに放った、飛寸であった。