最初から読む

 

四章 道田薫


5(承前)


 残ったのは、身体の大きな男だ。
 その身体の大きな男は、逃げもせず、そこに立っていた。
 漢は、その身体の大きな男と向き合った。
「凄ェな……」
 身体の大きな男は、つぶやいた。
 漢はその声を聞いてから、
「あんたはどうする?」
 そう訊ねた。
「逃げてもいいのかい」
「もちろん……」
「背中を向けた途端に、何かしてこないよな」
「しないよ」
「しないと言って、するやつをおれは知ってるよ」
「わたしもね……」
 身体の大きな男は、漢の顔をじつと見つめてから、唇を開いた。
「逃げようかな……」
「ちょっと、残念だがね」
「ほんとうは、やりたいってこと?」
「まあね」
「おれは、やりたくないね」
「どうして?」
「勝てる気がしない」
「体重が、そんなに違うのに?」
「ああ」
 男の方は、一五〇キロくらいはありそうだった。
 しかも、その肉体からは、むんむんと肉の香りが立ち昇っている。
 鍛えられた筋肉の香りだ。
 声も態度も落ちついている。
 何かの格闘技を経験している肉体であり、そのわずかな肉の動きからも、この男が、現役であることがわかる。
「試してみる?」
「やだね。勝てる気がしない」
「用心棒じゃないのかい」
「わがままな客を、つまんで放り出すくらいの仕事だよ。そんなにもらってるわけじゃない。二万三万の金で、素手で虎の檻に入ってゆくようなことはしない」
「残念だな。相撲とりとやれると思ったのに」
「おれのことを――」
「知ってるよ、大破山、だったよね」
「昔のことだよ」
 男が言うと、漢は、少し、黙った。
 見つめあった。
「やらんよ、息子がいるんだ」
「残念――」
「じゃ、失礼するよ」
 大きな、Tシャツ姿の男は、一歩、二歩、三歩、退がった。
「この晩のことは、忘れるよ」
 そう言って、大きな男は、にっ、と笑って背をむけた。
 河原の草を分けて、大きな男は、悠々と逃げ出した。
 すぐに、その姿は闇にまぎれて見えなくなった。
 しばらくの間、草を分ける音と、河原の石を踏む音が聞こえていたが、すぐにその音も小さくなり、聞こえなくなった。
 漢は、
 ふっ、
 と、小さく息を吐いて、天を仰いだ。
 その顔を、道田薫が身を潜めている方へ向けて、
「で、あんたはどうするんだね」
 声をかけられた。
 道田薫は、立ちあがり、草を分けて、漢の前へ出て、立ち止まった。
 相手を刺激するような距離ではなかった。
 充分に間合いの外である。
「知ってたのかい」
「凄い臭いがするからね」
「凄い臭い?」
「犬のね……」
「あ……」
 道田薫は、小さく声をあげた。
「おれの身体から、犬の臭いがするっていうことかい」
「するよ」
「犬を食ったんだ」
「へえ」
「でも、ずっと前のことだよ」
「ふうん」
「素手でね、犬とやるんだよ。それで、勝ったら食うんだ」
「勝ったら?」
「食った分、強くなる」
「そうなんだ」
 顎を引いてうなずき、
「で?」
 と、漢は、真顔で訊ねてきた。
「で、って?」
「わたしと、やるのかい」
「やめとくよ」
「わたしに勝ったら、食っていいんだよ」
「やめとく。今はね」
「今は?」
「ああ」
「もう少し、後なら?」
「わからない」
「さっきはね、むんむん届いてきたよ――」
「さっき?」
「わたしを、きみが覗いてた時……」
「犬の臭い?」
「いや、あれはきみの心臓の温度かな」
「心臓の温度?」
「どきどきしてたよね」
「――――」
「死体を見たからじゃない。わたしを見たからだ。こいつと、おれとったら、どっちが強いのかって、思ったよね」
「ああ」
「銃で人が撃たれるのを見てるのに、びびってない。妙な坊やだ。でも、やらない」
「がっかりさせた?」
「少しね」
 漢は、そう言ってから、
「しかし、やらなくてよかった」
 小さく顎を引いた。
「どうして?」
「今夜、寝るところがない」
「それは……」
「今夜、きみの家に泊まらせてもらえないか――」
「いいよ」
「ありがたい」
「でも、条件があるよ」
「何だね」
「何か、技をひとつ、教えてくれないか」
「かまわんよ。ただ、教えるけど……」
「なに?」
「それを、きみが使えるようになるかどうかは、きみ次第ってことだな――」
「決まり」
「じゃあ、行こうか」
「もう?」
「うん」
「そこに、転がってるふたりと、車は?」
「放っておくさ」
「いいのかい」
「わたしが、投げた男は、まだ生きてる。たぶん、朝くらいまではね。朝になれば、誰かが見つけるだろう」
「生きてるんだ」
「不本意だが、少し手加減した」
「不本意?」
「いざという時、そこの死体、誰が撃ち殺したのか、証言するやつを残しておかないと――」
「あんたがやったって言うかも……」
「わたしが誰だか、彼らは知らない。それに、警察はバカだが、そんな嘘を信じるほどじゃない」
「死んじゃったら?」
「そこまでのことは、知らんよ」
「なら、行くかい」
「ああ」
「あんた、名前は?」
「わたしの名前?」
「ああ。おれは、道田薫」
 漢は、道田薫を見やり、少し沈黙してから、
「翁九心」
 ぼそり、と言った。





 不思議な漢だった。
 翁九心。
 中肉、中背――いや、身長は、やや高いかもしれない。
 どちらかと言えば痩せていて、髪はざんばらで、長め。
 見ただけでは、強いかどうかの見当がつかない。むしろ、弱そうではないにしろ、強そうには見えない。
 しかし、この漢は、近い距離で銃口を向けられても、少しも動じた様子はなかった。
 気のせいか、銃口を前にして、悦んでいるようにさえ、見えた。
 バットで、脳天を砕かれたかと見えたのに、バットは、漢の額に触れただけだった。
 その時には、もうひとりの男が、漢、翁九心に銃口を向けていた。
 引き鉄は引かれたが、弾丸がめり込んだのは、みんな、バットを持った男の背中だった。
 その後、漢は、銃を奪い、投げ捨て、男を逆さにして、河原の石の上に、頭から落とした。
 なんと疾い動きであったことか。
 無駄がなく、美しかった。
 そういう記憶はあるものの、では、実際に漢がどのような動きをしたのか、疾すぎてそれを記憶でなぞることができないのだ。
 まるで、幻のようだ。
 それを見て、興奮した。
 実は、その時、自分は勃起していたのだ。
 翁九心に言われた通りだ。
 びびってなんかいなかった。
 自分は、あの時、感動していたのである。
“いつか、この漢を食ってやりたい”
 そう思ったのだ。
 それで、翁九心を、泊めてやる決心をしたのである。
 そこは、収穫した米を袋詰めしたものを、保管しておく倉庫である。
 今は、まだ収穫の時期ではないので、倉庫がまるまる空いているのである。
 中に、仮眠するための小さな部屋も、簡単なキッチンも、トイレもある。
 母屋の裏手にその倉庫がある。
 誰もいないし、夜も遅い。
 家の者に伝えることなく、倉庫を開け、道田薫はそこに翁九心を案内したのである。
 倉庫内に流しがあり、その前には小さなテーブルと、椅子が六つあった。
 そこに、翁九心を座らせ、自らも腰を下ろして、道田薫は、訊ねた。
「あんた、人を殺したこと、あるかい」
 最初からずっと訊きたいと思っていたことだった。
「知らんね」
 翁九心は、答えた。
 その会話は、それで途切れてしまった。
「あんたがやっているのは、どういう武術なの――」
 それも訊ねた。
「馬鹿なことを訊くもんだな」
 答は、それだけであり、それきりであった。
 いったい、どういうトラブルがあって、あのようなことになったのか――
 それも訊ねたいことであったのだが、それを後まわしにして、道田薫は、自身が一番気になっていることを、訊ねた。
「何か、技をひとつ、教えてくれるんじゃなかったの?」
「ならば、ひとつ――」
 そう言って、翁九心は、立ちあがった。
 道田薫を見やり、
ぬきを見せてやろう」
 翁九心は、低い声で言ったのである。

 

(つづく)