第一章 密命
1
一九四七年六月
中国山西省 日本兵捕虜収容所
独房に収容されてから、もう一週間以上経つ。そろそろ我慢も限界だ。鉄格子がはめられた窓は小さく、湿気った狭い部屋には光がほとんど射し込まない。カビやシミで汚れた壁や床には未だに慣れない。寝台はただの薄い板にすぎず腰が痛む。糞壺は蓋を閉じても中から臭いが洩れてくる。外面だけを綺麗にとりつくろい、内面は腐りきっている人間そのものだ。
体がだるい。前線で戦っていたときのほうが、よほど元気だった。こんなところでくすぶっていると、心も体もだめになってしまう。刺激に乏しい空間では、昼夜を問わず、ぼんやりと眠くなってくる。脳味噌が霧に沈んでいくような感覚。いつのまにか、また夢の中へ落ちていく。
加藤道雄が微睡みの中で見るのは、いつも同じ夢だ。嫌な汗が滲む、曜邱での戦い。特務団第七団が壊走したあの戦いが繰り返される。色彩までもが鮮やかな悪夢である。
夢の中でも、段々畑の向こうから共産党軍が押し寄せてくる。国民党軍(正式名称は「国民革命軍」。これが「中華民国国軍」と改称されるのは一九四七年十二月から)との合作と対立を繰り返し、常に日本軍の敵であった軍隊。軍閥とのつながりを持たない、新たな時代の申し子だ。
その勢いはすさまじい。撃たれた仲間の骸に隠れ、斃れた者を踏み越えて丘を駆け登ってくる。三八式歩兵銃やチェコ機銃で応戦しても怯まず迫ってくる。夢の中ゆえの幻影ではない。現実でも同じ光景を目にしたのだ。数と動きに圧倒され、道雄たちは敵兵を押し返せない。これまでの戦いとは何もかもが違っていた。
小銃を撃ち続ける道雄の周囲で、部下がひとり、またひとりと斃れていく。皆、道雄よりも若い者ばかりだ。あの暑い夏の日。一九四五年八月十五日、大東亜戦争は日本が負けて終わった。それと同時に中国での戦いも終わったはずだった。だが、道雄が所属していた北支那方面軍第一軍は終戦後も山西省に残った。武装解除も行わず、道雄たちに新たな命令を下した。
『終戦後も、大陸の各地で共産党軍が鉄路の破壊を続けている。これでは引き揚げ者(敗戦によって日本へ帰る人々)が港まで辿り着けない。そこで我が軍の一部は山西省に留まり、共産党軍の破壊工作を阻止することとなった』
戦争が終われば、兵隊とて一刻も早く祖国へ帰りたい。その気持ちは一般人と同じだ。そこを「あと二年だけ山西省に残ってもらいたい」と引き留められたのだ。しかもそれは、共産党軍と対立している山西省軍(国民党軍のひとつ)と協力し合う形で行われるという。
兵隊たちは誰もが動揺した。こんな事態は初めてだ。戦争はもう終わったのに、軍による命令はまだ絶対なのか。
道雄が見る夢には、いつも、痩せこけた軍人がひとり出てくる。五嶋という名の曹長である。朱に染まり、よろめきながら道雄に近づき、語りかける。『おれたちは騙された。軍の偉い連中に騙されたのだ。このままだと全員が、日本へ帰れぬまま死ぬ』
背筋がぞわっと震え、道雄はその場に立ち尽くす。
死者たちが嘆きの声を洩らしつつ地面から起きあがる。
頭が吹っ飛び、腹から内臓をはみ出させた兵隊たちが、道雄に向かって口々に訴える。日本へ帰りたかったのに、故郷へ戻りたかったのに、なぜ、おれたちはここで戦い、死んでいくのですか。これは本当に鉄路を守るための戦いだったのですか。誰かが仕組んだ陰謀ではないのですか。
死者たちは道雄の手足をつかむ。肩をつかんで激しく揺さぶる。軍曹殿、おれたちを日本へ帰してください。故郷へ戻って両親を安心させたいのです。「いま帰ったぞ」と叫び、兄弟姉妹を喜ばせたいのです。お願いです。どうかお願いします。
道雄は、ぼろぼろになった死者の手を、ひとつずつしっかりと握り返す。血と泥にまみれた冷たい肩を抱き、大声で言い聞かせる。わかっている、わかっている。おれは絶対に、おまえたちの死を忘れない。日本へ帰ったら、必ず世の中に伝えてやる。おれたちが何を命じられ、どんな犠牲を強いられたのか。軍司令部にいた人間にも証言させる。永遠に記録を残してみせる。決して世間に忘れさせたりはしない。
道雄たちの頭上では、九個の太陽がぎらぎらと輝いている。敗戦の日に仰いだ太陽よりもさらに激しく、虚空で踊り狂っている。
あれは本物の太陽じゃない。世界と人とを焼き尽くし、戦争が終わってもなお、この世を嘲笑しながら炎を噴き出している偽の太陽。だが、地上にいる道雄には、それをどうにもできない。目が潰れるのも構わず、九個の太陽を睨みつけるだけだ。
そのとき、ひゅっと風を切る音がして、一個の太陽に何かが突き刺さった。
肌が震えるほどの轟音が鳴り響き、大地が揺れた。
炎の尾を引きつつ、太陽がひとつ地平線の彼方へ落下していった。道雄は思わずあたりを見回した。
高い山の頂に、男がひとり悠然と立っていた。丈の長い衣服を帯でしばり、毛皮の靴を履いている。髪は漆のように黒い。肌は陽に焼けて赤い。桁外れに大きな弓を手にし、矢をつがえて限界まで弦を引き絞った。黒曜石を思わせる鏃が、まっすぐに太陽の群れに向けられる。
大気を震わせて矢が飛んだ。またしても太陽がひとつ射貫かれた。矢を受けた太陽は断末魔の叫びをあげ、くるくると回転しながら谷底へ落下していった。
残り七個の太陽が口々に怒鳴り声をあげた。いっそう激しく身の内から炎を噴き出す。男は平然と次の矢をつがえた。男の周辺には常に涼しい風が吹き、彼を守っているかのようだった。
道雄は叫んだ。危ない。そこから逃げろ。そこにいたら、太陽に焼き殺されてしまう。
男は怯まなかった。
ぐんと引き絞った弓から、三本目の矢をひょうっと放った。またしても矢は見事に太陽を貫いた。三つ目の太陽は地の果てに転がり落ちていった。
残りの太陽のすすり泣きが、道雄の鼓膜を震わせた。錐を揉み込まれるような嫌な感触に、道雄は両耳を押さえてその場にうずくまった。
2
背中の痛みで目が覚めた。
道雄はしばらく、独房の寝台の上で微動だにしなかった。
夢の世界が現実に思え、現実が夢の世界のように感じられた。奇妙な気持ちがしばらく続き、なかなか消えてくれなかった。
日は既に昇っている。鉄格子付きの窓の外が明るい。
あの夢に太陽を射落とす豪傑が出てきたのは初めてだ。子供の頃に読んだ本に、あんな場面があったような気がする。あるいは、父が教えてくれた神話のひとつだろうか。
道雄の父は世界中の神話や伝説に詳しかった。子供の頃、面白い話をよく聞かせてくれたものだ。父の顔を思い出すと、しんと胸が冷えた。胸苦しさが込みあげてくる。
そのとき、誰かが廊下を歩いてくる靴音に気づいた。わずかな音のズレから、ふたり連れだろうと道雄は見当をつけた。
身を起こし、寝台の縁に腰かける。
ただの巡回か、それとも。
道雄が見つめる扉の前で音は止まった。鍵が鳴り、蝶番をきしませながら鉄製の扉が開いた。小銃を構えた山西省軍の兵士がふたり、中へ入ってきた。道雄に向かって「立て。外へ出ろ」と命じた。
道雄は深く息を吸い、両手で太腿を軽く叩いてから立ちあがった。片方の兵士が道雄の背後に回り、両手首を拘束した。道雄は背筋を伸ばして立っていた。
あきらめるな。まだ、あきらめるな。実際に処刑場へ引き出され、中国兵から銃を向けられるときが来るまで、絶対に希望を失ってはならない。
兵士に前後から挟まれる格好で、道雄は独房が並ぶ薄暗い廊下を歩き始めた。裏庭まで近づいたとき、中正式歩槍の一斉射撃音が遠くから響いてきた。さすがに気が滅入った。歩みが鈍った道雄の背中を、中国兵が小銃の筒先でつつき先を急がせた。
この捕虜収容所は、もとは日本軍が中国兵を収容するために建てたものだ。いまは国民党軍の管理下にある。日本人が大陸につくった施設や設備は、戦後、すべて中国政府に接収された。最新式の建築物も、水道や道路などの生活基盤も、日本人が日本人のためにつくったすべてが、戦後の中国を復興させるために使われている。仕方がないものの、やはり悔しい。
ふと気づけば、中国兵は、処刑が行われる裏庭ではなく別棟へ向かっていた。
新たな不安が道雄の胸に広がった。
処刑でなければ尋問を受けるのだろうが、それはここへ来たときに既に済ませている。これ以上、何があるというのか。
さらに厳しい尋問が始まるのだろうか。尋問とは名ばかりの拷問が。
ふいに、妻と幼い娘の笑顔が脳裏に浮かんで消えた。兵士としての誇りを保ち続けてきた心が、ほんの少しだけ乱れた。
すまない、佐知子、慈子。おれは、遺骨になってすら日本へ戻れないかもしれん。
廊下の南側に並ぶ窓ガラスから陽が射し込んでいた。
別棟は静かだった。人が人を殴る音も聞こえず、吐き気を催す饐えた臭いも感じられない。
廊下の一角で止まれと命じられた。堅い木材でつくられた扉を中国兵が叩く。中へ呼びかけると、室内から中国語で返事があった。
中国兵が把手を握り、扉をあける。
道雄は背中を押されて、前へ進んだ。
窓のない部屋だった。机がひとつ置かれ、それを挟んで椅子が二脚ずつ並んでいる。
左側の席に、背広を着て中折れ帽をかぶった男がいた。中国人ではなく日本人に見えた。きりっと上がった眉毛の下で、少し垂れぎみの双眸が、人懐っこく優しげな光を湛えている。囚人生活で無精髭が伸びた道雄とは違い、顔つきも身なりも瀟洒だ。ここへ来られるなら一般市民や官吏ではあるまい。下級であっても将校だろう。
隣の席には、凜とした面持ちの中国兵が腰をおろしていた。目の前に帳面と万年筆がある。通訳兼記録係といったところか。
道雄は手首の拘束を解かれた。ふたりの向かいに座るように命じられ、席についた。道雄を連れてきた中国兵が部屋から退くと、背広の男は帽子を脱ぎ、机の端に置いた。今度は中国語ではなく、訛りのない日本語で喋った。「君の名前と所属を確認したい。氏名は加藤道雄。階級は軍曹。山西省保安総隊第七団に所属。これに間違いはないか」
道雄は即答した。「氏名と階級は間違いありませんが、保安総隊というのは存じあげません。我々の所属は特務団です」
「ああ、そうか。上はこの件で、頻繁に組織名を変えたからな」男は微笑を浮かべた。「鉄道修理工作部隊、あるいは、鉄路公路修復総隊と呼ばれた時期もあったはずだ。君たちのあいだでは、いまでも特務団で通っているのか」
「少なくとも、自分は、これ以外の名称は知りません」
男は軽くうなずいた。「私も君と同じく第一軍に留まっている身だ。名は、坂木悠一郎いう。階級は少尉だ。君の部隊は五月に曜邱で共産党軍と戦ったあと、帰投途上でスパイ容疑をかけられ、山西省軍に捕縛されたそうだな。共産党軍との関係を疑われ、ここにぶち込まれた。収容されるまでの経緯について話してくれ」
坂木の隣に座っている中国兵が帳面を開き、万年筆を手にした。道雄には目もくれず、話が始まるのを待っている。
日本人将校による尋問を中国兵が記録するとは、どういう状況なのか。不審に思いながらも道雄は話し始めた。「我々が無実であることは、ここへ来た直後に所長に伝えました。報告書が作成され、軍司令部にも到着済みかと存じます」
「君自身の口から聞きたいのだ。なぜ、君の部隊は共産党軍のスパイと疑われたのか。怪しまれるような行動をとったのか」
道雄は記録係を一瞥し、答えた。「日本軍に関する機密ですから、部外者の前では話せません」
「この男は、我々の新たな任務を手伝ってくれる仲間だ。何を話そうとも秘密は守ってくれる」
そう言われてしまうと逆らいにくい。
道雄は仕方なく、口を開いた。「曜邱での戦いはこれまでになく激しく、我が軍は共産党軍の侵入を許してしまいました。戦闘現場には、複数の特務団と山西省軍が駆けつけておりましたが、総崩れとなり、自分が率いる分隊は共産党軍の追撃をかわすために戦闘を継続しつつ後退。森に入り、身を隠しながら移動したため時間を要し、本隊との合流がかないませんでした。そこで、分隊だけでの帰投となりましたが、途中、立ち寄った中国人の村で誤解が生じたようです」
坂木の目に咎めるような色が浮かんだ。「まさか、そこで村民から食料を奪ったり、女人に狼藉を働いたりしたのではあるまいな」
「とんでもありません。周辺の状況を訊ねただけです。自分は部下たちと違って出征してからの年月が長く、少しだけ中国語を喋れますので」
「実は、共産党軍にも日本兵が所属している。だから、日本兵が少数で動いていれば、警戒されても不思議ではない」
言葉の意味がわからなかった。道雄は眉間に皺を寄せて訊ねた。「いま、なんと仰いましたか」
「我々が山西省軍に協力しているように、戦後、共産党軍に合流した日本人や日本兵がいる。かなりの数だ。君たちは単独で行動していたから、そういった連中と間違われたのだろう」
「まさか、そんなことが」
「中国軍は、日本人がつくった施設や設備を接収したが、その整備と運用は日本人でなければ難しい。そこで、まず、日本人技術者が共産党軍に徴用された。衛生兵や看護婦も同じだ。日本軍の将校の一部は、共産党軍のために軍事指導を乞われた」
皆、すぐに帰国できる手段があるわけではないので、生きのびるために、そうせざるを得なかったのだと坂木は言った。
道雄は訊ねた。「つまり、共産党軍にも、我々のように残留組の日本人がいるのですか」
「その通りだ」
頭の中が混乱した。自分たちは共産党軍と戦っていたつもりなのに、どうかすると、同胞にまで銃を向けていたのだろうか。
道雄は机の上で拳を握りしめた。
これが戦争に負けるということか。同胞であっても、強制的に敵と味方に振り分けられてしまうのか。
坂木は続けた。「国民党軍は戦中から権力闘争と腐敗ぶりがすさまじかったが共産党軍は違うらしい。愚直に人民や農家を守り、日本人にも優しいと聞く。せめてもの慰めだな」
「そんなはずはありません。共産主義者は危険な敵です」
「共産党軍は『和風細雨』を信条にしている。部下に、こんなふうに教えているそうだ。『人に接するときには春風のように穏やかであれ。その言動は、春雨が少しずつ大地を潤すが如く、人の心に沁みわたらせねばならぬ』とな」
「人の心を動かす戦術ですか。宣撫工作のようなものですね」
「いや、もっと上手い。彼らは、下っ端の兵隊にもじゅうぶんに食事を与え、飢えさせない。上官が気分次第で部下を殴ったり、必要以上に罰を与えたり侮辱したりもしない。日本人だからという理由で差別することもない。上官が間違った行動をとれば、部下がそれを指摘するのは当然だと考える。過ちを指摘された上官は、部下に素直に謝るそうだ」
心の奥に潜む暗い感情がざわめいた。道雄は口調を荒らげた。「少尉殿は共産党軍を評価しておられるのですか。社会主義や共産主義に、親近感をお持ちなのですか」
「馬鹿を言うな」坂木は悠然と言い返した。「軍人は主義など持たんものだ。どこの国でも軍隊での定めはただひとつ。上官が指示を出し、部下はそれに従って動く。ただそれだけだ。主義など入り込む余地はない」
「では、我々は未だ、どんな主義にも与する必要はないのですね」
「当然だ。共産党軍は、日本兵の一部を救援隊の担架班とし、激戦地に放り込んだりもしているようだ。美談ばかりがあるわけではない。当然だろう。どんな組織でも状況が悪化すれば本質が露わになる。国民党軍がそうであるように、共産党軍もいずれは同じ道を辿るに違いない」
道雄はほっとひと息つき、坂木の言葉にうなずいた。「共産党軍には、この先も警戒が必要であると自分も考えます」
坂木は意味ありげに、また目を細めた。道雄が捕虜収容所へ入るまでの流れ、入ってからの扱いなどについても、詳しく訊ねてきた。道雄は問われるままに、しかし、自分や部下には不利にならないように言葉を選んで答えた。このやりとりだけで一時間ほどが費やされた。
話が一段落つくと坂木は「少し休憩しよう」と言い、背広の懐に手を入れた。紙巻き煙草の箱を取り出し、封を切ってから道雄に差し出した。
道雄は礼を言い、遠慮なく一本抜き取った。新鮮な紙巻きなど久しぶりだ。甘い香りを嗅ぐだけで心が安らいだ。坂木からオイルライターを借り、くわえた煙草に火をつける。ひとくち吸っただけで深い喜びに満たされた。
坂木は自分も煙草に火をつけ、脇によけていた灰皿を机の中央へ動かした。記録係の中国兵は吸わなかった。表情ひとつ変えず椅子に座ったままだ。
坂木は悠然と煙を吐き出すと、道雄に向かって問いかけた。「いまの日本では、大半の人間が社会主義や共産主義を嫌っているが、君はとりわけこれを嫌い、ことあるごとに嫌悪感を示してきたそうだな。理由を聞かせてくれるか」
「ここで話さねばなりませんか」
「喋りたくないのか」
癇に障る物言いに、道雄はわずかに頬を強ばらせた。「私的な事情がありますので」
「共産主義と無縁だと強調できれば、君たちの無実を証明できる。交渉の際に有利なのだ」
「これまでの話だけでは足りませんか」
「足りんな」
「自分の経歴に関しては、特務団の団長に問い合わせていただければ」
「君の口から聞きたいのだ。最もよく事情を知っているのは君自身だろう」
坂木は記録係の中国兵に声をかけた。「ここから先は、しばらく記録しなくていい。記録してほしいときに、また指示を出す」
中国兵は「承知しました。いつでもお声がけください」と答えた。驚くほど滑らかな日本語だった。
どうやら坂木は、とことんまで追及しておきたいらしい。道雄はしばらく黙っていたが、意を決して答えた。「自分の父は既に亡くなっているのですが、生前、社会主義者と交流がありました。ただ、本人はごく平凡な児童文学者で、プロレタリア運動とは距離を置いていました。父は忙しさを嫌う人で、のんびりと、面白い物語で世の子供たちを楽しませたかっただけです。啓蒙主義は性に合わないと、常々口にしておりました」
「交流があった社会主義者とは誰だ」
「大人向けの文学関係の方々です」
「小林多喜二とか、そのあたりか」
「はい。小林先生との交流はなかったのですが、プロレタリア文化運動の関係者に知り合いがいたようです。父は義を愛する人ではありましたが、社会運動とは一線を引いていました。しかし、作家仲間との交流から社会主義者ではないのかと警察から疑われ、不本意な亡くなり方を」
道雄はいったん言葉を切った。
坂木は煙草をくゆらせながら、優しい眼差しで続きを待っていた。その穏やかな態度とは裏腹に、「完全に事情を把握するまで、貴様を解放する気はないぞ」と脅すような雰囲気が、じんわりと伝わってきた。優しげな見かけとは裏腹に、結構、嫌な奴なのかもしれない。
道雄は続けた。「自分は、一度目は志願兵として、二度目は召集に応じて、大陸に赴きました。お国のために積極的に働くことで、亡くなった父や遺された家族が社会主義や共産主義とは無縁であると、世間に理解させたかったのです。そのため、常に理想的な兵隊の在り方を目指しました」
「それが山西省に回されたばかりに、帰国の機会を逸したわけか」
「全員が残れと命じられたわけではありません。先に帰国する者を無事に港まで送り届けるため、誰かが大陸に残り、妨害を行う共産党軍と戦わねばならぬと上から教えられたのです。自分はそれに応じただけです」
「なるほど。よくわかった」坂木は煙草を灰皿で揉み消し、机の上で両手を組んで身を乗り出した。「今日の調査書を提出すれば、君たちが共産党軍のスパイではないと、すぐに認められるだろう。だが、その前にひとつ話がある」
「なんでしょうか」
「君に、ある任務を頼みたい。我々を含めて十名ほどで赴くが、君は兵隊たちから人望が厚いと聞いている。その能力を買った」
「隊長は」
「私が務める。副隊長は君だ」
「何をすればよろしいのでしょうか」
「チベットに潜入し、人を捜す。少し前、あるアメリカ人が海外旅行中に行方不明になった。その後、なぜかチベットで目撃されたという情報が、国民党軍の諜報員を経由し、国民政府の総統である蒋介石まで届いた。その人物は現在もチベットに留まっているらしい」
「本人の意思ですか」
「わからん。誰かに出国を阻止されているのかもしれん。詳細は不明だ。蒋介石は、アメリカよりも先にこの人物を確保したいそうだ。この任務に協力してくれる日本兵を求めている」
「国民党軍が精鋭部隊を送り込めば済むのに、なぜ日本兵に依頼を」
「勿論、国民党軍からも兵を出す。ふたつの部隊が目的地を目指すのだ」
「ということは、我々は国民党軍のための弾よけですか。負けた国の兵隊だから、懲罰部隊のように働けと」
「内実はそんなところだろう。それでもやる価値はある。この任務に関わる日本兵は、任務完了後、最優先で帰国できる。『責任をもって該当者の帰国のために尽力する』と国民政府は約束した」
「本当なら素晴らしいお話です」
「私はこの話に乗ってみたい。君はどうだ」
「そのアメリカ人は、どのような人物なのですか」
「極めて重要な軍事上の機密を知っているそうだ。それが他国に渡るとまずいのだ。特に共産党軍やソ連にな」
道雄は頭を左右に振った。「それほど重要な任務なら、すべてが終わったあと、我々は口封じのために消されるかもしれませんね」
「山西省で戦い続けているほうが危ない。曜邱では散々な目に遭ったのだろう」
「よく知る場所での危険のほうがましです。自分はチベットの状況など、まったくわかりません」
「では断るのか。帰国をあきらめるのか」
「考える時間をください。判断が難しいお話です」
軍事機密がらみの話だ。チベットで該当人物を捜し、確保し、国民政府に引き渡すだけで済むはずがない。
道雄は机の上で両手を組んだ。掌に滲む嫌な汗を感じながら逡巡する。「特務団は『二年だけ』という条件で編制されました。あと少しで、残留組である我々にも帰国の許可が下ります。新たな任務に就き、これ以上帰国を遅らせるのはごめんです」
坂木は唇の端を微かに吊りあげた。「そんな約束を信じたのか」
「上が嘘をついていると?」
「現に君たちは厳しい戦闘に駆り出されている。鉄路を守る任務だけで、これほど激しい戦いになると思うか」
そこを指摘されるとつらい。何かがおかしいと、残留組の兵隊たちも薄々感じていた。日本が負けて戦争は終わったのに、なぜ、これほどまでに激しい戦いが続くのか。我々は、本当は、なんのために戦っているのかと。
五嶋曹長の悲痛な叫びが、再び、道雄の頭の中で谺した。
道雄は顔をあげ、坂木と視線を合わせた。「任務を完了させれば、必ず帰国できるのですね」
「ああ」
「ならば、こちらからもお願いがあります」
「なんだ。言ってみろ」
「この収容所にいる自分の部下を、いますぐ解放してください。全員、日本へ帰国させたいのです」
「ふむ」
「これが聞き入れられないのであれば自分はここに残ります。国民党軍が解放してくれるまで粘り強く待ちます」
「中国人はスパイなど絶対に許さないぞ」
「知っています。山西省軍の兵隊がスパイ容疑をかけられ、民衆から袋叩きにあっているのを目にしたことがあります。目を背けたくなるほど酷い有様でした」
「わかっているなら、なぜ素直に引き受けない」
「現時点において、自分にとって最大の責務は、部下の命を守ることだと考えるからです。いますぐ部下たちを帰国させたい」
「日本に残してきた妻子に会いたくないのか」
道雄はかっとなって言い返した。「会いたいですよ。会いたいに決まっているでしょう。でも、これ以上、部下たちを酷い目に遭わせたくない」
「では、部下たちを帰国させたら、任務に加わってくれるのだな」
「はい。皆を大連まで続く汽車に乗せ、見送るところまで立ち会わせてください。騙し討ちのように、別の戦線へ送られてはたまりませんから」
「いらぬ心配をするな。帰国させると決めたからには、軍司令部は最後まで責任を持つ。私が、必ずそうさせてみせる」
道雄は坂木に向かって頭を下げた。「よろしくお願いいたします」
「交渉は明日には決着がつくだろう。しばらく待て」
坂木が椅子から腰をあげると、記録係は帳面と万年筆を持ってあとを追った。
道雄も席から立ちあがり、坂木に向かって黙礼した。
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