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 成都の双桂寺機場には幌付きの自動貨車が待っていた。旅客機のタラップを降りた道雄たちは素早く荷台へ乗り込んだ。夏に向かって気温が上昇していく季節である。この土地はもうかなり暑く、大気はひどく湿気っていた。

 自動貨車が走り出しても幌のせいで外の景色は見えなかった。幌の隙間から外を見ようとした丸上を猪原が即座に止めた。「だめだ。坂木さんから注意されただろう」

「おれたち平服ですし、誰も兵隊だなんて気づきゃしませんよ。少しぐらいは、いいじゃありませんか」

「我々はこの土地では、日本人であるという理由だけで憎まれる。戦前や戦中に、ここで何があったか知っているだろう」

 猪原が強く睨んだので、丸上はしょげ返り、膝を抱えて荷台に座り直した。

 軽率なのか子供っぽいのかよくわからん奴だと、道雄は苦笑を洩らした。

 猪原も含めて他の三人が丸上を嫌っている気配はない。慣れた調子であしらっている。この任務に加えた以上、欠点を上回る才覚が丸上にはあるのだろう。

 かなりの時間が経過したのち、体を揺さぶっていたひどい振動と、耳にまとわりつく騒音が止まった。

 坂木が腰をあげた。幌の出入り口の布をめくり、外を確認してから、皆に向かって「降りよう」と言った。

 自動貨車から降りた道雄は、眼前の邸宅を見あげて呆然となった。

 古式ゆかしき中国の建物が皆を見おろしていた。なんとりっぱな門だろう。太い二本の柱と赤く塗られた壁、黒光りする瓦をふんだんに使った屋根が、のしかかるような威圧感を伴って迫ってくる。

 解赫シエ・ホーが門の扉を叩き、中国語で向こう側へ呼びかけた。すぐに返事があった。分厚い扉がおもむろに開かれる。

 中へ入った道雄たちは、また言葉を失った。

 敷地内には大小の樹木が植えられ、離宮かと見紛うほどの光景が広がっていた。蓮が浮かぶ池には鮮やかな緑の影が落ち、魚が跳ねる水音が微かに聞こえた。

 やしきの使用人が解赫に声をかけ、皆を敷地内の奥へ案内した。道雄たちは池にかかる橋を渡り、本棟ではなく離れのほうへ導かれた。

 離れもまた、壮麗な瓦をいた古い様式の建築物だった。

 鳥や花の浮き彫りと中国格子に飾られた扉を押し開くと、白壁に囲まれた広い空間が道雄たちを招き入れた。天井には扉と同じく濃い赤紫色を帯びた木材が使われ、床には青白く輝く石材が敷きつめられている。窓の格子の間から、午後の光が柔らかく射し込んでいた。

 奥の長椅子から、ふたりの男が立ちあがった。ふたりは坂木に向かって、さっと敬礼した。

 片方は中国人、もう片方は日本人だった。日本人のほうは、坂木よりも少し年上に見えた。

「残りの二名だ」と坂木は言い、他の隊員のほうへ振り返った。「こちらの人物は私から紹介しよう。解赫と同じく山西省軍に所属している、張偉ジヤン・ウエイだ。解赫の補佐としてつく。日本語は喋れないから、皆、気づかってやってくれ」

 解赫が中国語で張偉に何かを指示した。張偉は敬礼を終え、解赫のほうへ近寄って傍らに立った。ふたりには明確な上下関係があるようだ。

 もう片方の男は猪原よりも背が高く、色黒だった。目尻に皺がめだつが、他の誰にもない余裕に満ちた輝きがまなこにあった。坂木による紹介を待たず、男は自ら口を開いた。「月山紘一つきやまこういち。軍医です。皆さん、よろしく」

 月山は道雄に視線を合わせると軽く頭を下げた。敬礼はしなかった。道雄はそこに興味を持った。ただの軍医ではなさそうだ。他の軍医や衛生兵が見なかったものを、数多く見てきたのかもしれない。

 坂木が言った。「月山は密偵としてチベットに潜入した経験を持つ。青海省から入るルートと、ネパールから入るルートの両方を知っている。ラサ到着後は隊商から離れるので、チベットおよびその周辺の地理に関しては、解赫と月山のふたりが頼りだ」

 つまり坂木は、解赫がいなくても自分たちが自由に動けるように、最適の人材を加えたわけだ。

 国民党軍は、日本兵には単独行動を許したくないだろう。道案内はすべて解赫に任せて道雄たちを誘導したい。だが、解赫が途中で死んだり国民党軍の部隊が先に全滅したりすると、日本人部隊は四川省への生還が難しくなる。なんとしてでも目的の人物を蒋介石に届けるためには、国民党軍は坂木の人選を受け入れざるを得なかったに違いない。

 道雄は月山に訊ねた。「何度も潜入したのであれば、チベット語は完璧に喋れるな?」

「はい。日常生活には困りません。ただ、チベット語も、日本語や中国語と同じく方言は難しい。本隊がラサから動かぬのであれば問題はありません」

「英語はどうだ」

「そちらも大丈夫です。英語を喋れる人間はチベットにもいて、そういった者とのやりとりは楽でした」

「あそこでは英語が通じるのか」

「現代医学を学びたいチベット人は、イギリス統治下にあるインドの大学で学び、チベットに戻ってきます。チベット政府の人間も、勿論、英語を喋れます。ラサにはイギリス人の駐在官もいますので、英語ができると、欧州やアメリカの動向もつかみやすい」

 道雄が納得してうなずくと、坂木が横から付け加えた。「これで全員そろったので、私は解赫と一緒に邸の主に挨拶してくる。明日からは厳しい旅になる。今夜はゆっくり休んでくれ」

 坂木は解赫と張偉に声をかけ、三人で部屋から出ていった。

 七人の隊員は、ほっとひと息つき、室内に散っていった。

 長椅子の他にはひとり掛けの椅子もあり、休む場所には困らなかった。卓上には青緑色の大きな水差しがふたつ、湯呑みが十個。水を自由に飲めるようにしてある。

 道雄は湯呑みに水を注ぎ、長椅子の片端に座った。ひとくち飲んで落ち着いたとき、猪原が道雄のそばまで寄り、「加藤さん、少し、よろしいでしょうか」と声をかけてきた。

 射貫くような眼差しだった。道雄が副隊長として相応ふさわしいのかどうか、見極めたがっているように見えた。年齢や経験に大きな差がなければ、猪原が副隊長をやっても構わない規模の部隊だ。坂木の人選に思うところがあっても不思議ではない。

 道雄が「わかった」と応えて長椅子の端に移動すると、猪原は「外でお願いします」と付け加えた。

 水を飲み干して湯呑みを卓に戻すと、道雄は長椅子から立ちあがった。猪原を連れ、離れから戸外へ出た。

 蓮の池のほとりにてい(あずまや)が見えた。あそこがいいと猪原に告げ、ふたりで移動した。

 鮮紅色の六本の柱に支えられた亭は、いい塩梅に日陰をつくり出していた。屋根の下には磨きあげられた石造りの丸椅子と卓があり、ふたりはそこに腰をおろした。

 ひんやりとした石の感触が心地よかった。豊かな緑の香りを含んだ風が、さらさらと頬をなでて庭を吹き抜けていく。

 野鳥の鳴き声がのどかに響いてきた。

 先に口を開いたのは猪原だった。「階級を名乗るなと言われても、どうも落ち着きません。加藤さんは軍曹あたりですか」

「猪原」

「はい」

「おれとおまえとは年齢が近そうだし、たぶん階級も同じだろう。同期みたいに喋らないか」

「よいのですか」

「雑貨商人に扮するにはコツがいる。日本語しかできない者はなるべく口をつぐみ、喋る必要が生じたときでも、聞く者に上下関係を悟らせない口調がいい。いまのうちに慣れておこう。おれたちがうまくやれば、皆もそれを真似て、商人らしく振る舞ってくれるはずだ」

 そう言われても兵隊としての性質を捨てきれないのか、猪原は、しばらく逡巡していた。が、やがて、

「おれの階級は伍長だ」と、つぶやいた。

 伍長は軍曹よりひとつ下の階級である。道雄が驚きを顔に出したせいか、猪原は肩の力を抜き、苦笑いを浮かべた。「いろいろあってな。ずっと伍長止まりだ」

「嫌な上官にあたったな」

「そういうことだ」猪原は続けた。「本当に同期のように喋っていいんだな? 途中で、無礼だのなんだのと怒り出して、あとで懲罰を加えたりしないだろうな?」

「おれや坂木さんが、そんなつまらない男に見えるのか」

「軍隊には陰湿な奴がいる。特に上のほうにはな。にやにや笑いながら、兵隊を一番危ない場所へ行かせやがる。歩兵なんて虫けら程度にしか思ってねえ」

「心配するな。おれは皆を心から頼りにしている。おまえもおれを信じてくれ」

 猪原は大きく息を吐き、「じゃあ、お言葉に甘えて」と切り出した。「あんた、坂木さんをどう思う」

「変わった人だ。将校らしさがない」

「おれもそう感じた。日本は戦争に負けたから、軍人が軍人らしさを失っても仕方がない。だが、それを抜きにしても、あの人はなんだか変だ」

「どういったところが?」

「少尉といえば普通は軍曹よりも若いもんだ。士官学校卒は、出世の早さが最初から違うからな。ところが坂木さんは、おれたちよりも年上に見える。本来なら、大尉や少佐でも不思議じゃない気がする。事情があって昇進の機会を逸したか、ヘマをやらかして降格処分になって飛ばされてきたか、そんなところじゃねえのかな」

 坂木は自分の考えを率直に口にする人間だ。それが上官の劣等感を刺激し、恨まれる原因になったのでは、という指摘には確かに一理ある。

 ようするに自分たちが配属されたこの分隊は、坂木や道雄を含めてすべての隊員が、なんらかの形で軍隊という組織に適応できず、はみ出したり、落ちこぼれたり、上官から面倒な奴だと疎んじられた、いわゆる『やっかい者』の集まりなのかもしれない。だとすれば、いかにも弾よけとして消費されそうな集団ではないか。

 道雄は言った。「坂木さんは老けて見えるだけで、実は、かなり若いのかもしれんぞ」

「あの度胸と才覚で、おれたちよりも年下? そりゃねえわ」

「坂木さんはおれに死ぬなと言ってくれた。こんな任務で死ぬなと。信じるに値する人だ」

「おれも同じように言われて心が動いたから、ここへ来た。だが、冷静になってみると、どうもすっきりせん」

「だったら、なぜ、部下まで連れて作戦に加わった」

「四人一組で指名されたのさ。おれたちは壊滅した小隊の生き残りだ。本来なら別の部隊に振り分けられるところを、急遽、この任務に引き抜かれた。迷いはしたが、山西省から離れられるならどこでもよかった。部下が不憫ふびんでな」

「不憫とは」

「もう、あそこには置いておけなかった。おかしくなりかけていた」

 三人の部下のうち、誰だろうか。

 道雄には、新田も春日も丸上もまともに見えた。病んだ印象はない。だが、もしかしたら全員がそうなのだろうか。

 猪原は続けた。「あんたたちと合流して、おれたちが四人一組で呼ばれた理由がわかったよ。坂木さんはおそらく、分隊を二班に分けて運用するつもりだ。中国人のふたりは計算に入れていない。坂木さんを含む第一班に四人、おれが率いる第二班に四人。おれたちは旧知の仲だから、どんな命令を下されても素早く動ける」

「なるほど」

 猪原の言う通りなら、坂木の班には、笈川、月山、道雄が入る形となる。

 笈川は狙撃手だから常に単独で行動する。密偵の経験がある月山もひとりで動きたがるはずだ。道雄の役目は、隊長である坂木に危険が及ばぬように気をつけ、補佐に徹することだ。

 解赫と張偉は、坂木がどう扱おうがそばから離れないだろう。国民党軍から、何か指示を受けているはずなのだから。

 猪原は言った。「だから、あんたに頼みたい」

「何を」

「敵と遭遇して戦闘が始まれば、おれの班は、坂木さんや目的の人物を守るための盾になるだろう。あんたたちを背後に守りながら、踏みとどまらねばならん。当然、怪我人や死者が出やすい。もし、おれがヘマをやらかして死んだら、残った部下をあんたに任せたい。おれの代わりに皆を引っぱり、無事に帰国させてやってくれ。この分隊の面子では、他の誰にもこれを頼めない。信用できるのはあんただけだ。軍曹なら兵隊の心情は知り尽くしているはずだ。あんたのような人間でなければ、兵隊は安心できないし、耳も傾けない」

 道雄はおもむろに、頭を左右に振った。「おれだって、どうなるかわからん身だ。易々と約束はできない」

「もしもの話だ。何人生き残れるかわからない任務なんだろう?」

「だから、そういう言い方をするのはやめろ」

 道雄は掌で卓を軽く叩き、猪原から視線をそらした。池に浮く蓮の葉を眺め、昂ぶった気が落ち着くのを待ってから続けた。「坂木さんは『死ぬな』『なんとしてでも生きて日本へ』と言っていた。そんなにうまくいくわけはないが、それでもおれは、全員で日本へ帰ると決めたんだ。伊達や酔狂で言ってるんじゃない。本気だ」

「勿論、あんたの信条はわかっているつもりだ」

「ならば、危険を避けるための相談をしよう。そういう話ならいくらでも乗る」

「――わかったよ。あんたは、わかりやすい男でいいや」

「今後は、気安く死ぬ死ぬと言うなよ。部下にも、よく伝えておいてくれ」

「了解」

 猪原は丸椅子から立ちあがり、片手を振ってから、離れへ戻っていった。

 道雄はしばらく亭に留まり、水面を渡る風に吹かれていた。

『あんたは、わかりやすい男でいい』と言った猪原の言葉を、複雑な想いを抱きながらみしめた。

 おれが故郷で何を見て兵隊になったのか、それをすべて知っても、猪原は同じように言うだろうか。

 

 

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