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四川省成都の双桂寺機場は、一九三九年に国民党四川省政府がつくった軍事飛行場である。坂木の話によると、開港当初は小型の複葉機しか離着陸できず、滑走路も未舗装だったという。
開港後も拡張工事は続き、動員された出稼ぎ労働者の数は二十万人。一九四四年には、アメリカ空軍の爆撃機が発進できる規模まで拡大された。
成都も重慶も、戦中、日本軍による爆撃を繰り返し受けている。道雄は坂木から「市中での態度や行動には注意してくれ」と言い渡された。
山西省内の飛行場に到着すると、道雄は車から降り、トランク内の自分の荷物を取り出した。
港へ送る私物は、ここから他の航空機で運ばれる予定だ。貿易商にあずける荷物を日本人職員に渡し、道雄は坂木たちと共に駐機場を目指した。
道雄たちが乗り込む機体は、遠目には帝国陸軍の九七式輸送機に見えた。近くで見ると、垂直尾翼に落下傘の図案ではなく「J」という文字があった。満洲航空で使われていた機体だと坂木が教えてくれた。九七式の後続機である一〇〇式輸送機と同型の旅客機である。四川省へ飛ばすので、軍用機ではなく民間機を選んだようだ。
機体後部の扉へ向かってタラップを上り、客室内に入った。座席には既に五人の男がいた。中央の通路を挟んで左側に四人、右側の最後尾にひとり。道雄と同じく簡素な平服を身につけている。似た年頃の者もいれば、年下に見える者もいた。
坂木が歩きながら言った。「同じ部隊に加わる隊員だ。他にもいるが、そちらとは成都で合流する」
座席の最前列まで行くと、坂木は後方を振り返った。道雄たちを自分の背後に立たせ、座席に座っている隊員に呼びかけた。「皆、聞いてくれ」
隊員の視線が坂木に集中する。険しい目つきで次の言葉を待っていた。
「離陸まで少し時間がある」と坂木は言った。「ここで、各々の自己紹介を済ませておきたい」
坂木は例の中国人に、自分の前へ出るように言った。
中国人は指示通りにすると、隊員たちに向かって綺麗な所作で敬礼した。中国語ではなく日本語を発した。「山西省軍に所属しております、解赫と申します。階級は准尉です」
日本兵の集団に中国兵がひとりだけなのに、まったく怯む様子がない。日本兵のほうが顔に複雑な感情を滲ませている。日本語を巧みに操るこの中国人を信用していいのかどうか、判断に迷っている様子だ。
解赫は気にする様子もなく続けた。「私はチベットで暮らした経験があり、今回の任務に加わりました。本隊では通訳として働きます」
敬礼を終えた解赫は坂木の後ろへ戻った。
坂木が付け加える。「言い忘れていたが、今回の任務では、お互いを呼び合うときに階級や役職名を使わぬように。自己紹介においても、元の所属部隊や階級を名乗る必要はない。では続けてくれ」
道雄は解赫と場所を入れ替わった。足を少し開き、両手を後ろで組んでから口を開いた。「本隊の副隊長、加藤道雄だ」
即座に全隊員が道雄に向かって敬礼した。解赫に対してはとらなかった態度だ。道雄はそれを咎めたりせず、続けた。「今回の目標には、任務の達成だけでなく、全隊員の生還も含まれている。任務のために命を捨ててはならない。中国の者は中国へ、日本の者は日本へ、ひとりも欠けずに無事に故郷へ帰ろう。以上だ」
道雄が自己紹介を終えると、坂木はふたりに席につくように言った。
そして、片側の座席を埋めている隊員たちに声をかけた。「猪原。次は、おまえたちの番だ」
がっしりした体格の男が座席から立ちあがり、通路へ出た。濃い眉毛の下で、小さな丸い目が強い光を放っている。鼻の幅が広く、首も太く、どことなく大きな獣の風格を思わせる容貌だ。さっと敬礼すると、腹に響く声で告げた。「猪原福太以下三名は、四年間同じ部隊に所属しておりました。今回も、自分がこの三名を率いて本隊に合流いたします」
道雄は思わず目を見張った。部下を引き連れてこの任務についたのか。おれとは正反対の選択をしたわけだ。年格好や雰囲気から察するに、階級も自分と同じかもしれないと道雄は考えた。
猪原が自己紹介を終えると、三人の部下が同時に立ちあがった。通路へ出て、順々に敬礼した。
「新田祥士。よろしくお願いいたします」
新田は皆の中で最も背が低かった。体つきはしっかりしている。優秀で真面目な兵隊にありがちな強い緊張感が伝わってくる。自発的にここへ来たのか、猪原に命じられて仕方なく従ったのか。まだわからない。
「春日良信。よろしくお願いいたします」
春日には落ち着いた雰囲気があった。歳は、道雄や猪原に近く見える。口調が優しい。出征前は、他人の面倒を見ることが多い職種だったのかもしれない。
「丸上拓三。よろしくお願いいたします」
丸上は、新田と春日の中間ぐらいの歳に見えた。溌剌としている。危険を自ら楽しむ性格だろうか。あるいは逆に、任務の重圧に押し潰されまいと、あえて背筋を伸ばしているのかもしれない。
四人が着席すると最後のひとりが立ちあがった。ひんやりとした静けさを湛えた人物だった。猪原を猛々しい獣に喩えるならば、この男が備えているのは獣を仕留める猟師の揺るぎなさだ。通路に出て気怠そうに敬礼すると、感情に乏しい声で皆に告げた。「笈川弘、狙撃手です」
それだけ言うと、笈川は面倒くさそうに座席に戻り、背もたれに身をあずけた。あまりのそっけなさに、白けた空気がその場に漂った。だが、笈川自身は平然としている。
狙撃手は軍隊の中で特殊な立場にある。敵軍を足止めするためにひとりで撃ち続け、発砲によって敵に見つかりやすいため生き残れない者も多い。笈川の態度は、誰よりも死を強く意識している者の諦念だろうか。
坂木が再び皆に呼びかけた。「成都に到着後、我々は、ある実業家の邸宅へ向かう。今夜はそこに宿泊し、翌日未明、西康省雅安へ向けて出発。雅安は茶馬古道への出入り口にあたる宿場町だ。人通りが多く混雑するので、町には泊まらず、もう少し先へ進んだ地点で野営する。チベット行きの隊商とは、翌朝、野営地で合流。成都で我々に宿を提供してくれるのは哥老会の長老だ。くれぐれも失礼のなきよう、心がけてくれ」
「隊長殿!」と丸上が声をあげた。「カロウカイとは、なんでありますか」
坂木は応えた。「隊長と呼ぶな。坂木だけでいい」
「では、『坂木さん』でよろしいですか」
「それでいい」
「カロウカイについて知りたく存じます。自分は何も知りません」
「青幇や紅幇という名を耳にしたことはあるか。大陸に古くからある秘密結社だ」
「はい。阿片の売買に関わっているんですよね」
「そうだ。もとは揚子江(現:長江)流域の運輸業者の集まりで、清の時代に、運輸船を襲う賊に備えて集団化したのが始まりだ。清王朝は結社を禁じていたので、秘密組織にならざるを得なかった。哥老会は上流域にあたる四川省で生まれ、そこから派生したのが紅幇だ。ひとくちに哥老会といってもさまざまだが、我々がお世話になるのは、清水袍哥の長老。これは国民党系の軍閥や経済界ともつながっており、高い地位にある人々が属する組織だ」
「そんな偉い人たちが、どうして日本兵の手助けをしてくれるのですか」
「我々を助けるのではない。国民党軍の作戦に賛同し、これを成功させるために手を貸してくれるだけだ。チベットへ向かう道には山賊や追い剥ぎが出る。敵国の兵士が待ち伏せしているかもしれん。平凡な隊商なら、危険に直面した瞬間、我々を見捨てて逃げ出すだろう。あるいは、我々を敵に売って難を逃れようとする。そうならないように、哥老会の長老が自ら、信用できる隊商を選んでくれた。我々はその隊商を案内人として雇ったのだ。古くから哥老会に忠誠を誓い、どんな命令にも逆らわぬ者たちだ。この手間への御礼を伝えるため、我々は邸宅へ立ち寄る」
「哥老会の子飼いの隊商なら安心できますね。でも、自分は中国語を喋れません。どうやって御礼をお伝えすれば」
「挨拶するのは私と解赫だけだ。おまえたちは、客人用の部屋で大人しく待っていればいい」
エンジンの唸りが響き、機体が細かく震え始めた。
坂木は「そろそろだな」とつぶやき、自分も着席した。
丸上も慌てて姿勢を整えつつ、新田に向かって呼びかけた。「ずいぶん揺れるな。飛行機でも船酔いみたいになるのかい?」
新田がくすりと笑い、冷やかした。「吐くなら他でやってくれ。ここにぶちまけるんじゃないぞ」
「この窓、あくのか?」
「飛行機の窓が開くかよ。便所へ行くんだ」
「どこにある」
「座席の一番後ろに仕切り布が見えるだろう。あの奥が便所だ。蓋付きの桶が置かれている」
「それなら安心だな」
道雄も飛行機に乗るのは初めてである。機影は大陸で何度も目にしているが、これまで乗る機会はなかった。
体に伝わる振動が、いやがうえにも不安を掻きたてた。背筋と臍のあたりが、うっすらと寒くなった。丸上を笑えない。掌に汗が滲んできた。
機体はゆっくりと動き出し、駐機場から滑走路へ移動した。走る速度が上がり、座席の揺れが激しさを増した。エンジンの騒音に、キーンという甲高い音が加わる。
前方から押し寄せてくる見えない圧を感じた。
道雄は窓の外をちらりと見た。機場の風景が恐ろしいばかりの速さで流れていく。経験したことのない速さだ。汽車の全速力を軽く上回る。
体にほんの少し違和感を覚えたのち、窓の向こうの風景が斜め下方へ遠ざかっていった。あっ、もう飛んだのかと拍子抜けした。地上の建物や農地が、みるまに箱庭細工のように小さくなっていく。
飛び立ったあとの機内も騒音に支配されていた。坂木が先に自己紹介をさせた理由がわかった。これでは落ち着いて人の話など聞けない。大声をあげねば会話もできまい。
眼下の雲が陽を浴びて輝くさまを眺めているうちに、道雄は睡魔に襲われた。背もたれに身をあずけ、目蓋を閉じた。
成都に到着するまで、あの嫌な夢は一度も見なかった。
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