穴を掘ってほしいの、と星野ほしのさんはぼくに言った。

「穴?」

 ずしりと重いシャベルを押しつけられ、ぼくは途方に暮れた。刃先の尖った古いシャベル。先端は土まみれで、地の部分が見えないほどに汚れていた。

 多少は日が延びてきたとはいえ、三月の夕暮れは早足で訪れる。太陽は徐々に傾き、山の影が地面を覆い始めていた。どこからか、かえるの声が聞こえてくる。昨夜の雨が土に浸み込んでいるのだろう、泥っぽい匂いが鼻をついた。

〈水なし沼〉。星野さんがぼくを呼び出したのは、そんな風に呼ばれている場所だった。こんもりした小さな山のふもとにある、潰れた釣り堀の跡地だ。二つある池の片方は土砂崩れで埋まり、もう片方の池もその後しばらくして埋め立てられた。畑か何かにするつもりだったのかもしれないが、結局何の動きもなく、今では虫たちの楽園になっている。

 滅多に人は立ち入らず、道路からも距離がある。車の音すら聞こえない。時々、飛行機のエンジン音が響き渡ることを除けば、二人きりで話すにはぴったりの場所だった。小学生の頃、幼馴染の由佳ゆかに連れられて何度か来たことがある。釣り堀時代の物置小屋を、秘密基地代わりにしていたのだ。

 だから、ここに来てほしいと星野さんに電話で言われたときは、少し驚いた。由佳ならともかく、星野さんからこんな場所に呼び出されるなんて、思いもよらなかったからだ。

 たぶん、その時点で何か変だと疑うべきだったのだろう。

「それで、星野さん」ぼくは訊ねた。「これは何?」

 向かい合ったぼくと星野さんの間にそれは横たえられていた。人一人分の大きさをした、不格好な青い包み。何かを包んだブルーシートの上から、縞模様のロープが何重にも巻かれている。

「うーん」彼女は笑った。「誰かの死体だって言ったら、どうする?」

「冗談だよね?」

 星野さんはぼくの問いに答えず、耳にかかった髪の毛をかき上げた。一見ゆったりとしたその仕草とは対照的に、右足は落ち着かない様子でざりざりと地面を削っている。

 グレーの地味なウィンドブレーカーを羽織ったぼくとは対照的に、星野さんは膝下丈のスカートにカーディガンを合わせた上品な私服姿だった。学校指定の制服でも、いつも目にしているジャージ姿でもない。女子のファッションにうといぼくでも、死体を埋めに行く格好じゃないってことくらいはわかる。

 表情には落ち着きがなかった。笑った顔がいつもより硬いし、髪の毛も少し乱れている。それに、むき出しの右脚には真新しい大きな擦り傷があった。

「えっち」ぼくの視線に気づいた彼女が言った。「どこ見てるの?」

「どこも見てないよ」

 ぶっきらぼうな口調でそう返すと、星野さんはふーんと言いながら怪我をした方の足を見せつけるようにぶらぶら振った。

 やっぱり変だ、と思う。普段の彼女なら、こんな大胆なことはしない。緊張を隠すために、わざと明るく振舞っているように見えた。

「ね、あずまくん」はしゃいだ声で彼女は言った。「ゲームをしない?」

「ゲーム?」

「そう。最後の思い出作りに。東くん、もうすぐいなくなっちゃうし、そうしたらきっと、わたしのことも忘れちゃうでしょ?」

「まさか。忘れないよ」

 ぼくの言葉に、星野さんは鼻を鳴らした。確かに、明日から始まる春休みを、ぼくがこの町で過ごすことはない。父さんの仕事の都合で引っ越すからだ。つまりは今日が、大竹おおたけ中学校の生徒として過ごす最後の一日。ちょうど数時間前に、教室で別れの挨拶を済ませたばかりだった。

「ルールは簡単。今からそのシャベルで、それが埋まる大きさの穴を掘るの。穴を掘り終わるまでの間に、わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由を当てられたら、東くんの勝ち。答えられるのは、そうだね……時間的に、三回までってことでどう?」

「どう、って」ぼくは答えに困った。「一応訊くけど、穴はぼく一人で掘るわけ?」

「当然。わたしの怪我、見えないの?」

「いや、それもさっきから気になってるんだけど……。大丈夫?」

「平気平気。もう全然痛くないし」

 痛くないなら穴掘りも手伝えるんじゃないかと思ったけど、ぼくは何も言わなかった。

「穴を掘るのはこの場所じゃなきゃダメ? 持って帰って、うちの庭に埋めるのは?」

「ダメ。必ずこのへんを掘ること」

 星野さんの答えはシンプルだった。ぼくとしては、この〈包み〉が持って運べる重さなのか否か、探りを入れたつもりだったのだが……なかなか手ごわい。

 ぼくはシャベルを持ち替え、あたりの地面を見回した。〈水なし沼〉でも特に奥まった場所で、唯一の出入口である未舗装路からはちょうど反対の位置にある。この場所に限定する理由はよくわからなかったが、物置小屋のおかげで、入口から見えにくいことは確かだ。万が一、誰かがやって来ても、ごまかすだけの時間が稼げるという算段だろうか。足元の地面は綺麗なままで、彼女が先に穴掘りを進めていたわけでもなさそうだった。

「とりあえず、それの中身を教えてくれない?」

「無理。あと、触ったりするのもダメね。その時点で失格負けだから」

「でも」ぼくは食い下がった。「ある程度は知っておかないと、どれくらいの穴を掘ればいいのかわからないよ」

 それもそうか、と星野さんは頷いた。

「大きさは見ての通り。ある程度は折り畳めるから、別にこの形通りの穴を掘る必要はないと思う。深さは六十センチもあれば十分じゃないかな。それと、シャベルを使うときは足を乗せて、体重をかけて掘った方がいいよ。まずは穴の輪郭を決めて、シャベルの先端をぐるっと刺していくの。そこから、テコの原理で土をかき出していくんだって」

「詳しいね。ぼくが来るまで練習してた?」

「まさか。昔、本で読んだだけ。好きな人と二人で死体を埋めに行く話。ロマンチックじゃない? そういうのって」

 聞かなかったふりをして、シャベルの柄を手の中で回す。星野さんは困り切ったぼくの顔を見て楽しそうに笑っていた。

「どうかした?」ぼくの視線に気づき、星野さんが笑いながら訊いた。

「……いや、元気そうだなと思って」

 正確に言えば、元気すぎるくらいだった。やっぱり変だ。いつもの星野さんらしくない。むしろ、この一か月はふさぎ込みがちだったように見えたし、ちょっと気になる噂を聞いたりもした。元気になったのはいいことだけど、妙にはしゃいで見える今の姿には、それはそれで不安を覚える。

「えーっと、それで、ぼくが呼び出された理由を当てればいいんだっけ?」

「わたしが東くんを今日ここに呼び出した理由」彼女は律儀に言い直した。

「でもそれ、さっき自分で言ってたじゃないか。穴を掘ってほしいって」

「それは答えじゃなくてゲームの一部だよ」

 星野さんが即座に答える。ぼくは途方に暮れて、足元に転がる包みに目を落とした。ブルーシートは随分古いものらしく、あちこちが色褪せている。残念なことに、中を覗けそうな破れ目などは見当たらなかった。生地も分厚く、シートの裏面が血まみれだったとしても、外からはわからないだろう。

 客観的に判断するなら、とぼくは思った。今すぐ自転車に乗って、まっすぐ家に帰るべきだ。万が一、ブルーシートの中身が本物の死体なら冗談じゃ済まない。たとえ人間じゃなくても、犬とか猫の死骸って可能性もある。厄介ごとに巻き込まれる前に、彼女にさよならを言うべきだった。どうせ明日にはこの町ともお別れなのだ。

「東くん」と彼女は言った。「お願い」

 右手がシャベルの柄を強く握る。こぼれたため息が手の甲に触れた。結局のところ、選択肢なんて初めからないのだ。彼女を置き去りにするなんて出来っこない。

「いいよ。やろう」

 ぼくはシャベルの先端を柔らかい地面に突き刺した。

 

 

 星野さんと話すようになったのは、図書委員の仕事がきっかけだった。名前だけの委員会も多いなかで、図書委員は例外的に面倒な役職だ。貸し出し当番の仕事が昼休みにあるせいで、特に男子からの人気は低い。ぼくが立候補したのは、その競争率の低さを狙ってのことだった。図書委員そのものに興味があったわけじゃない。また学級委員をやらされるのが嫌だったのだ。

 昔から、ぼくはクラスのリーダーに選ばれがちなタイプだった。理由はよくわからない。とりたてて成績が良いわけでもなかったし、友達が多いとか、クラスの中心ってわけでもなかった。どちらかと言えば、むしろ周囲から浮いているタイプだったと思う。それでもなぜか、みんなはぼくをリーダーに選んだ。中学校に入ってもそれは変わらず、一年生のときは年間通してずっと学級委員をやる羽目になり、流石さすがにちょっとうんざりしていたところだった。

 図書委員に立候補した男子はぼくだけだったが、意外なことに女子は二人が手を挙げた。一人はぼくの幼馴染の有賀ありが由佳。もう一人が星野さんだった。由佳は間違っても本なんて読むタイプじゃなかったから、これは少し意外だった(あとで理由を訊いたところ、「だって図書室って涼しいじゃん」という答えが返ってきた)。

 多数決の結果、圧倒的大差で図書委員に選ばれたのは星野さんの方だった。由佳はぶつぶつ文句を言っていたけれど、当然の結果だ。

 こうして、ぼくたち二人は二年二組の図書委員になった。

 主な仕事は週に二日、昼休みの図書室に行って貸出カウンターに座ること。他にも新しく入ってきた本に透明カバーをかけたり、新刊紹介のポスターを作ったり、色々な仕事があった。星野さんは文章が上手かったから、毎月の図書室便りに載せるエッセイを先生から頼まれたりもしていた。エッセイは校内での評判も上々で、先生たちもこぞって褒めていたけれど、書かれている内容はどれも一から十まで嘘っぱちなのだと彼女はこっそり教えてくれた。

「東くんも手伝ってよ。エッセイなんて、そんなに難しくないんだしさ」

 星野さんはそう言ったが、ぼくには文才も嘘つきの才能もなかった。結局、彼女の書いたエッセイのページに下手くそな──星野さんに言わせれば愛嬌のある──猫のイラストを寄せることになった。由佳はそれを見てゲラゲラと馬鹿にしたが、星野さんはいたく気に入ったようだった。

「可愛い」と彼女は真顔で言った。「シールにして、ノートに貼ろうかな」

「恥ずかしいからやめて」とぼくは懇願した。

 実際のところ、星野さんには独特なユーモアの感覚があった。おまけに、冗談を言うときも真面目な顔を崩さないので、どこまで本気なのかわからない。一見すると典型的な優等生なのだけれど、隣に座った時だけ見える変わったところもたくさんあって、それが彼女の魅力の一つだった。

 たとえば、ペンケース。ケース自体は駅前の文具屋さんで売っているようなありふれたもので、だけどよく見ると中身が毎日変わっていたりする。普通、学校に持ってくる文房具なんて頻繁には変わらないものだと思うけど、彼女のペンケースは見るたびに中身が変わっていた。使い切れないくらいたくさんの文房具を持っているのかもしれないし、あるいは単に物をなくしやすい性格なのかもしれない。

 ほっそりした身体と、大人しそうな顔つき。インドア派に思われがちだけど、実は運動も得意で、バドミントン部では団体戦のレギュラーだった。

「思い切って、短く切った方がいいのかなぁ」

 夏の大会が近づいた頃、そんな相談をされたことがあった。髪形の話だ。

「どうして? 今のも似合ってると思うけど」

「それは嬉しいんだけど」彼女は苦笑いした。「なんかね、もう少し運動が得意そうな見た目にした方がいいのかなって」

「見た目を変えても、試合に勝てるわけじゃないと思うけど……」

「試合には勝てるから別にいいの」

 彼女はあっさりとそう言った。

「何て言うのかな……、見るからにインドアっぽい相手に負けるのって、ショックが大きいじゃない? いかにもスポーツやってますって見た目なら、まだ納得できるみたいなんだけど。まあ、色々言われるわけですよ、裏で。だからいっそのこと、髪の毛をばっさり切って、ついでにちょっと色も抜いて、肌もこんがり焼いてこようかなって。どう? 似合うと思う?」

 ぼくは隣に座った彼女の顔をじっと見た。長いまつ毛の先で、図書室の色褪せた照明が揺れている。

「あんまり似合わないと思う」とぼくは答えた。髪形だけの話ではなかった。

「だよね」

 結局、一学期が終わるまで、彼女は髪を切らなかった。耳にかかった髪の毛をかき上げるのが癖になり、特に本を読んでいるときはそれが激しくなった。左手で文庫本を持ちながら右手で耳や首元をせわしなくいじる姿は何だかおかしくて、図書室にいるあいだ中、ぼくは彼女を横目で見ていた。

 見た目にたがわず、彼女はとにかく読書家だった。あまり本に馴染みのなかったぼくが推理小説を読むようになったのも、星野さんの影響だ。図書委員には星野さんの他にもう一人、但野ただのくんというミステリ好きの一年生がいて、この二人が代わる代わるぼくにお薦めの本を教えてくれた。

「先輩って、何で図書委員になったんですか?」

 ある日の昼休み、『向日葵ひまわりの咲かない夏』の文庫本をぼくに渡しながら、但野くんはすでに声変わりを終えた声でぼくに訊いた。

「本が好きってわけじゃなさそうだし」

「別に、図書委員になりたかったわけじゃないよ」とぼくは彼に説明した。一年生のときからずっと、なぜか学級委員に推薦され続けてきたこと。二年生でもそうなるのが嫌で、わざと人気のなさそうな図書委員に立候補したこと。

「ふうん。何でなんですかね。先輩、別に頭も良くないですよね?」

「失礼だな」ぼくは笑った。「この前の中間はぎりぎり平均点だったよ。数学以外は」

 とはいえ、彼の言いたいこともわかる。学級委員っていうのは大抵、成績の良い優等生が選ばれるものだ。毎回平均点を切るか切らないかのぼくを、みんなが選びたがる理由はよくわからない。

「わたしにはわかる気がするけどな。みんなが東くんを選ぶ理由」

 横に座っていた星野さんが口を挟んだ。

「東くんって、人のこと悪く言わないでしょ。怒ったりもしないし。噂話にも興味ないよね」

「そんなことないよ。ひどいやつには普通に怒るし」

「じゃ、最近誰かに怒ったり、腹を立てたりした? たとえばクラスとか学校で今、どんな悪い噂が流れてるか知ってる? 誰と誰が仲悪いとか、誰が誰をいじめてるとか、そういう話、一つでも聞いたことがある?」

 星野さんがぼくの顔を覗き込む。薄い褐色の瞳に、天井の照明が映り込んでいた。

「それは別に……。でも、うちのクラスに嫌なやつなんていないでしょ」

「ね、そういうところだよ」

 彼女の言葉がよくわからず、まばたきをする。

「普通に考えてさ、クラスみんながいい人だなんて、ありえないでしょ。わたしたち、中学生なんだよ? 東くん、いい人だからさ。みんなのいいところばっかり見てるんだよ。だから、みんなも東くんの前だと悪いところを見せられないの。何となく、自分がいい人になれた気がするわけ。東くんといっしょにいると」

「ぼくの前だと、みんな格好つけたがるってこと?」

「そうとも言うね」

「それっていいことなのかなぁ」

 星野さんは目を細めて笑ったが、但野くんは浮かない顔だった。

「なんか、残酷ですね。それって」

「残酷?」

「あ、ごめんなさい」彼は慌てて取り消した。「ちょっと思っただけなんで」

 でも、正しいのは但野くんの方だった。

 ぼくはきっと、冷たくて残酷な人間なのだ。

 

 地面は思っていたより柔らかかった。

 一度池を埋め立てた場所だからかもしれない。公園の砂場ほどとはいかないけれど、それでも普通の地面を掘るよりずっと楽だ。

 シャベルを地面に突き刺し、靴底で踏む。土は少し湿っていて、力を加えるとババロアみたいに大きく割れた。それをかき出して、再びシャベルを刺す。その繰り返し。気がつくと息が上がり、全身が汗ばんでいた。上着を脱ぎ、シャツの第二ボタンを開ける。

「持っててあげる」

 星野さんは横から手を伸ばし、ぼくの上着をさっと奪った。そのまま、自分のカーディガンの上から羽織る。上品なカーディガンと、無骨なウィンドブレーカーの組み合わせが、少し可笑しい。それが二年前に由佳からもらったものだということを、ぼくはふいに思い出した。十二歳の誕生日プレゼントだったのだ。

「そう言えば、荷造りは順調?」

「順調なのかなぁ……」家の様子を思い出しながら、ぼくは答えた。「二階はだいたい片付いたよ。でも、リビングの家具とかはこれから。何か、のんびりしてるんだよね、父さんも母さんも」

 今日だって、二人とも目の前の片付けから逃げている様子だった。母さんはずっとキッチンに立ちっぱなしだったし、父さんは落ち着かない表情でずっと庭の落ち葉を掃き集めていた。

「おまけに、引っ越しの段ボールを絶対にリビングに置きたがらなくてさ。全部ぼくの部屋に持ってくるんだよ。今地震が来たら、絶対ぺしゃんこになって死んじゃうと思う」

「うーん、でも、その気持ちはちょっとわかるかも。リビングってみんなが生活するところだから、荷物はあんまり置きたくないんじゃない? 落ち着かないっていうか。引っ越しは来週だっけ?」

「明日だよ」

「じゃあ、本当にもうすぐだね」彼女は言った。「どうだった? 今日のお別れ会」

「ああ、うん」

 ぼくはシャベルを足元に置き、目に入った汗をぬぐった。

「良かった。嬉しかったよ。ありがとう」

「本当に?」

「当たり前だよ。大満足」

 嘘だった。ぼくは隣にいる彼女から目を逸らし、再びシャベルを手に取った。とても重い。土の濃い匂いがした。

「そこにいると、土がかかるよ」

 適当な理由で、彼女を遠ざける。

 言えるわけがない。本当は寄せ書きが欲しかったなんて。

 修了式の後、最後のホームルームの時間を使って、クラスのみんながお別れの会を開いてくれた。長い時間じゃない。二十分とか、三十分。それくらいだ。みんなの前で挨拶をして、それから坂下さかしたくんがクラス代表としてお別れの言葉をくれた。

 あっさりした会だった。こんなこと考えちゃいけないってわかっているけど、あっさりしすぎていた。本当のことを言うと、寄せ書きくらいはもらえるだろうと期待していたのだ。まったく、恥ずかしい自惚うぬぼれだった。

 転校は答え合わせだ。自分が学校という社会の中でどのように振舞っていたのか、どんな風に思われていたのか、たとえ望んでいなくても、その答えを否応なしに突きつけられる。

 今日だって、引っ越しの直前だっていうのに、誰からも遊びに誘われていない。そりゃ、自分から言い出せばよかったのかもしれないけど、こういうのって引っ越す側からあれこれ誘うのはやっぱり気まずい。そんなねた気持ちが表に出ていたのかもしれない。電話越しにぼくを呼び出したとき、星野さんは他に予定があるかと確認さえしてこなかった。ぼくが暇を持て余していると、初めから決めつけていたみたいに。

「あんたはさ、もうちょっと人を好きになった方がいいよ」

 いつだったか、由佳にそう言われたことがある。大きなお世話だ。ぼくだって、人を好きになることくらいある。そう言ってやりたかったけど、幼馴染の指摘はぼくの痛いところを突いていて、何も言い返せなかった。

 ぼくはたぶん、誰に対しても少しだけ距離を置いている。嫌われているわけじゃないけど、どこかで一線を引いていて、馴染めない。遠慮のない会話ができるのは、それこそ幼馴染の由佳くらいだ。クラスのみんながぼくに対して良い面しか見せていないのだとしたら、それはぼくとみんなの間に距離があるから。友達は多いけど、親友はいない。教室で仲良く話しても、休日を一緒に遊んだりはしない。

 それが、ぼくだ。

 寂しいと感じたことはなかった。友達付き合いの仕方は人それぞれだし、ぼくにはこれくらいの距離感が性に合っている。だけど、こうやって自分の淡泊さの結果を改めて突きつけられるのは、やっぱりいい気持ちはしなかった。誰かを本気で好きになったり、あるいは嫌いになれる──それを表に出せる人たちのことが、少しだけうらやましくもなる。

 顔を上げる。星野さんは物置小屋とぼくの間をうろうろと歩き回っていた。たくさんの足跡が手持無沙汰に地面を覆っている。

「ねえ」ぼくは彼女に呼びかけた。「ヒントはないの?」

「ヒント?」星野さんはきょとんとした。さっと腕時計に目を走らせ、ぼくを見る。

「問題を解くためのヒントだよ。今のままじゃ、手掛かりが少なすぎると思うんだけど」

「そんなことないと思うけどな」

 星野さんは首をかしげ、からかうような笑みを浮かべた。

「東くんなら、きっとわかるよ。この一年、ずっと一緒にいたじゃない」

「そうだっけ……」

 そんなことはない気がする。同じ委員会だし、教室の席も近かったけど、基本的には男子と女子だ。星野さんは休み時間を教室で過ごすタイプではなかったし、ぼくらが周囲の目を気にせずに話せたのは図書室にいるときくらいで、それ以外の時間はとりたてて一緒にいたという記憶はなかった。

 ああ、いや。違う。

 星野さんとの繋がりは、図書委員以外にもう一つあった。十二月の林間学校で、二人とも実行委員に選ばれたのだ。ぼくがこの手の仕事を押しつけられるのは半ば予想通りだったけど、星野さんが立候補したのは意外だった。

「来年は受験があるから」

 理由を訊くと、星野さんはそう答えた。

「だから、修学旅行の実行委員はちょっとやりづらいし、だったら今年のうちに一度やってみようかなって。本当は、ちょっと部活をサボりたいっていうのもあるんだけどね」

 そう言って、彼女は悪戯いたずらっぽく笑った。

 林間学校の実行委員は本当にやることが多かった。受験の年にはやりたくない、という彼女の考えはもつともだ。会議が終わると教室の外は真っ暗で、下校を促す放送がいつも廊下に響いていた。ぼくと星野さんは家の方向が途中まで同じだったから、そんな日は大抵一緒に帰ることになった。

 真っ暗な通学路に、鈴の音がふたつ響いていた。チリン、チリン。シャラン、シャラン。星野さんの学校鞄には銀色の鈴がついていて、それはまだ幼かった頃に彼女が家族旅行で訪れたインドネシアのお土産みやげらしかった。ぼくの鞄にさがっているのは、それより一回り大きな鈴つきのキーホルダーで、まりもを模したキャラクターの人形がついている。

「有賀さんからのお土産でしょ、それ」

 ぼくの鞄に目をやりながら、星野さんが言った。

「よくわかったね」

「夏休みに北海道に行ったって。部活の友達に話してるの聞いた」

 星野さんは由佳のことを「有賀さん」と呼ぶんだな、とぼくはぼんやり思った。二人は確か、同じバドミントン部だったはずだ。有賀というのは由佳の母親の旧姓だった。新しい父親の名字をあまり気に入っていない彼女は、仲の良い相手には名前で、距離のある相手には昔の名字で呼ばせている。たぶん、あまり真面目な部員でない由佳は、星野さんと反りが合わないのだろう。

「部活でも話してるのか……」思わずため息が出た。「これ、お揃いで買ったらしいんだけどさ、あっちは一度も学校につけてこないんだよ。そのくせ、自分とお揃いだって話はあちこちで触れ回ってるし。この間なんか、但野くんにまで話してた。何のつもりなんだろう」

 ぼくの言葉に、星野さんは大きなため息を吐いた。通り過ぎたトラックのヘッドライトが、彼女の呆れ顔を闇の中に照らし出す。

「東くんって、鈍いよね」

「何がさ」

「女心がわかってないってこと。つまり、面と向かって『あなたのことが好き』って言われるまで、何もわからないタイプでしょ」

 星野さんは足を止め、面と向かってぼくに言った。

「そんなことないよ」

「嘘つき。なんなら『好き』って言われても、信じなさそうだもん」

 嘘じゃない。ぼくにだって人並みの感情はある。今だって、そういう意味じゃないってわかっていても、星野さんの言葉に少しだけドキリとしたくらいだ。

 ──あなたのことが好き。

 道が暗くて助かった、と思う。

「だいいち」ぼくは彼女から目を逸らして言った。「由佳が好きなのは隣のクラスの松井まついくんだよ」

「松井くん? 一組にそんな人いたっけ」

「いや、四年生の時の話。大変だったんだから、あの時は」

 星野さんは何か言いたそうな顔でぼくを見て、再びため息を吐いた。

「幼馴染なんだっけ。いい子だよね、有賀さん」と彼女は言った。「東くんもそう思うでしょ?」

「どうしたの、突然」

「別に。わたしと有賀さん、同じ部活だからさ」

「そう言われてもなあ」ぼくは答えに困った。「幼馴染って言っても、最近は昔ほど一緒にいるわけじゃないし」

「そう? この間も一緒に帰ってたらしいじゃない」

 彼女の言葉に、ぼくは戸惑った。覚えがない。由佳と一緒に帰ったことなんて、中学校に上がってからは数えるほどしかないはずだ。

「でも、但野くんが言ってたよ。灰色のウィンドブレーカー。東くんがよく着てるやつでしょ」

「別の男子じゃないかな。ウィンドブレーカーなんて、みんな着てるでしょ」

「まあいいけど。それで? どう思ってるの。有賀さんのこと」

「そうだなあ」言葉を選びながら、ぼくは言った。「まぁ、自分に正直だよね。よくも悪くも。頑固だし、こうって決めたら絶対に曲げないし。自分が世界で一番正しいと思ってて。そのせいで誤解されることも多いけど、でも悪いやつじゃないよ」

 本当は、自分に自信がないのだと思う。自信家なのに自信がないっていうのも変な話だけど、そうとしか言いようがないのだから仕方ない。自信がないから、逆に間違いを認められなくて、意固地になって、周囲と衝突してしまう。損な性格だ。でも、そういう損な性格にもかかわらず、持ち前の明るさでたくさんの友達に囲まれているのだから、その点は尊敬に値する。

「今は丸くなったと思うよ」ぼくは笑った。「昔は、そりゃ酷かったんだから。クラスで友達と大喧嘩になってさ……。ある日、ぼくに言ってきたんだ。水風船を分けてくれって」

「水風船?」

「うん。その頃、男子の間で流行はやってたんだよね。ぼくも持ってたから、一つあげたんだ。そしたら、どうしたと思う? あいつ、ペロの──うちで飼ってた犬のおしっこを水に混ぜてさ、それで……」

 ぼくは星野さんの表情に気づき、最後まで言わずに言葉をぼかした。

「当然、大騒ぎになった。二人でその子の家まで謝りに行ったな。今でも忘れられないよ、あれは」

「全然笑いごとじゃないよ、それ」星野さんは心底呆れた声で言った。「そもそも、なんで東くんまで謝りに行ってるの? 弱みとか握られてる?」

「うーん、そんなことは」

 ないとはいえない、かもしれない。何しろ昔からの幼馴染だ。恥ずかしい思い出も随分知られている。

 もちろん、それを星野さんに教える気はさらさらないけれど。

「水風船を渡したのはぼくだし。一応共犯かなって」とぼくは言った。

「共犯なわけないよ。有賀さんがそんなことに使うなんて、東くんは知らなかったんだから」

「そうかもしれないけど」彼女の剣幕に少しだけ驚いて、ぼくは答えた。「でも、もっと考えるべきだったんだよ。そうしたら、事件を防げたかもしれないわけでしょ」

「だからって……」

「それに、一人で謝りに行かせる方が、ずっと心配だったし。絶対またトラブルになるに決まってるんだから。ぼくがいれば、少しは大人しくなるだろうし」

 実際、当時のぼくは彼女のブレーキ役だった。まったく、何度厄介ごとに巻き込まれて、一緒に怒られる羽目になったかわからない。

「優しいんだね」

「そんなんじゃないよ」ぼくは肩をすくめた。「単に、付き合いが長い友達ってだけ。それに、何ていうのかな、あれくらい誰かを強烈に嫌いになったり、好きになったりするのって、ぼくには真似できないから、ちょっと羨ましく思うっていうか。もちろん、水風船はダメだけど」

 良くも悪くも、自分の激情に身を任せる彼女の生き方は、ぼくには少しだけまぶしかった。人間は、自分にないものに憧れる生き物なのだ。

「じゃあさ」彼女は足を止め、ぼくの顔を覗き込んだ。「もしもわたしが人を殺しちゃったら、そのときは一緒に捕まってくれる?」

 真っ暗な交差点で信号機が点滅する。光と影が交互に彼女の顔を過ぎ去っていった。

「えっと──」

「なんてね」

 星野さんは足早にぼくから離れ、手を振った。「また明日」

「送るよ。大した距離じゃないし」

「ううん、大丈夫。また今度ね」

 信号の点滅が赤に変わり、ぼくと彼女を分断する。ぼくはただ、駆けていく彼女の背中を見送ることしかできなかった。

 結局、林間学校が終わるまでの一か月間、星野さんはぼくに送られることを常に拒んだ。

 単純に、ぼくに送られるのが嫌だったのかもしれない。ぼくのことを家族に見られるのが嫌だったのかも。あるいは反対に、家族を見られるのが嫌だったのか……。

 星野さんは、お父さんと二人暮らしだ。一人っ子で、兄弟姉妹はいない。以前に、そう教えてもらった記憶がある。もしも、彼女がぼくに会わせたくないと思っている人がいるのなら、きっとそれは父親だろう。

 彼女の父親について、知っていることはあまりない。ただ、厳しい人だという話は聞いていた。中学校の勉強なんて一〇〇点を取って当たり前だって考えの持ち主らしい。それから、夏前に一度、学校へ電話をかけてきたこともある。バドミントン部の先生と何かを話していたらしく、期末の点数が悪かったから部活を辞めさせられるんじゃないか、とみんなは声をひそめて噂していた。

「あれ」

 カツン、とシャベルの先が硬いものに当たった。手のひらくらいの石を拾い、捨てる。石ころは跳ねることなく、柔らかい土の上を数センチだけ転がった。

 あの夜、とぼくは思う。彼女は自分が人殺しになる未来を予見していたのだろうか。だから、ぼくにあんなことを訊いたのか──。

「星野さん」ぼくは顔を上げずに訊ねた。「そう言えば、学年末の点数はどうだったの? 受験生になる前の最後の試験で、お父さんからのプレッシャーがすごいって言ってたけど」

「どうしたの、突然」

「ちょっと、気になって」

「うーん、そんなに悪くはなかったかな。数学は最後のケアレスミスが勿体なかったけど、それ以外はまあ期待通りって感じ」

 シャベルを握る手に、思わず力が入る。

 ぼくは数日前に聞いた話を思い出す。見間違いならいいんだけど。そう言いながら、坂下くんがこっそりと打ち明けてくれた話を。

 間違いない。彼女は嘘を吐いている。

「星野さんは」とぼくは言った。「ぼくにお父さんの死体を埋めてほしいんだね?」

 

 

『ぼくらが夕闇を埋めた場所』は全4回で連日公開予定