遠くで雷が鳴っている。

 それに気づいた瞬間、心臓がゴトリといやな感じで弾んだ。早くここを離れなければ。嵐が来る。体の芯まで凍える雨が降り、横っ面をはたく風が吹く。

 苦しみがやってくる。逃げよう。そう思うのに周囲は暗く、見えない布が絡まっているみたいに足が重い。恐怖で体が締めつけられる。息が苦しい。早く、早く。

「ぶはっ」

 かけ布団をはねのけ、まるで水中から浮きあがるように真嶋裕希は飛び起きた。 全身が冷や汗で湿っている。体を起こした際、枕の横に積んであった漫画本がばたばたと床に落ちた。円形のシーリングライトに照らされた子供部屋は、白っぽい光で満たされている。

 裕希は枕元のデジタル時計を振り返った。グレーの液晶画面に浮かび上がった数字は、二十三時を表示している。寝そべって漫画を読んでいるうちに、眠ってしまったらしい。

 漠然とした違和感があった。部屋が明るいのがなにか変だ。毎晩、裕希は二十一時になったら「そろそろ寝なさい」と母親の素子に告げられ、子供部屋に追いやられることが多い。それから三十分ほど漫画を読むなり携帯電話をいじるなりして過ごしていると、素子がやってきてそれらを片付け、「小学生がいつまでも起きているんじゃない! 背が伸びなくなるよ!」と叱られて、二十二時には部屋の照明を消される。いつものルーチンを外れ、素子が子供部屋の消灯を忘れている。几帳面で口うるさい彼女らしくない。どん。

 壁や床を伝って、太鼓のような低音が体に響いた。

 誰かが叫んでいる。どん、と再び不気味な音が続く。勢いのある高い声に、低く濁った怒声が被さる。

 裕希の心臓が強く打った。恐怖で体が冷え、子供部屋の扉の向こう、居間の物音に意識が釘づけられる。

 ああ、いやだ。あいつが来ている。

 週に何度か家に出入りしている素子の新しい恋人は、挨拶されたときには温厚そうな人物に見えたが、機嫌を損ねると物に当たる粗暴な気質を持っていた。特に夜ふけに訪ねてきて、素子と二人で晩酌しているときにひどい物音を立てる。壁を殴る。家具を叩く。わざと音を立てて扉を閉める。有名な会社に勤めているとても賢い人、と素子は照れくさそうに紹介していたけれど、壁を殴るのも家具を叩くのも、学校でやっているのは馬鹿ばかりだ。

 なにより、この音が本当にいやだ。まるで心を繰り返し殴られているような緊張感で、気持ちが悪くなる。

 居間の口論は収まる気配を見せない。裕希は素子からもらったMDウォークマンを取り出し、両耳にイヤホンを装着した。

 ひんやりとしたゴムっぽいイヤーチップの感触に、少し呼吸が楽になる。プラスチック製の収納ケースを開け、カラフルな輝きを放つ二十枚ほどのMDの中から、特に気に入っている一枚を取り出した。レンタルCDショップで勢いがある好みのロックを厳選して借りて、一日がかりで録音した大切な一枚だ。MDを挿入し、プレイヤーの蓋を閉める。カチャン、という小気味よい手応えに、ディスクの回転音が続く。

 音楽が始まる。両耳に、細い光が差し込む。音が増え、歌声が重なると輝きは増した。恐怖で締めつけられていた胸がふくらみ、息ができるようになる。

 好きな音楽を聴いていると、まるで世界には怖いものなどなにもなくて、冒険と希望で満ちあふれような気分になれる。このままもう一度眠りにつきたい。朝になればきっと喧嘩は終わっていて、男は帰っていて、母親は朝食の用意をしている。裕希は部屋の照明を消し、MDプレイヤーを握って布団へもぐり込んだ。

 切なくてかっこいい旅立ちの歌を聴きながら、裕希はふと、母親はどうしてあの男を家に入れるのだろう、と思った。

 素子はしっかりした母親だ。駅前の大きな家電量販店で、朝から晩までテキパキと働いている。周りの友達の親は、みんな素子に新しい携帯電話や話題の家電の使い心地を聞く。口うるさいけれどかっこいい、自慢の母親だ。

「賢いはずなのに乱暴な男」と「その乱暴な男を何度も迎えるかっこいい母親」。どちらも裕希にはわけがわからず、考えると頭の中が暗くなる。

 枕の隣で、曲名やアーティスト名を表示するバックライトつきのスティックコントローラーが淡い光を放っている。清らかな音を突き破り、壁越しにまたどん、と不穏な音が伝わる。裕希は顔をしかめて音量を上げた。リビングの方向を睨む。

 暗い部屋にもう一つ、光源があることに気づいた。

 床に落ちた自分の携帯電話が、着信を告げるランプを点灯させていた。

 それは素子がかつて使っていた型落ちの携帯電話で、下校後に友達の家や公園に遊びに行く際は、この携帯を持ち歩くのが親子間のルールになっている。素子と数人の親族以外、連絡先は登録していない。

 画面を点灯させると、いとこの大悟からメールが届いていた。

【裕希んちで誰かケンカしてる?】

 大悟の一家は、裕希が住んでいるアパートの部屋の一つ上の階に住んでいる。そこまで口論が響いていたのか。恥ずかしい。けれど、なんでもないようなフリをして返事を打った。

【してる】

【母さんが心配してるんだけど。二人とも大丈夫?】

 大悟の母さんである井藤恭子は、裕希の母親の姉にあたる。妹一家の部屋から響く物騒な物音を聞きとめ、息子経由で様子をうかがうことにしたのだろう。

 裕希は自分の状況をかえりみた。自分は──訪ねてきた男と会ってすらいない。なら母親は?

 裕希はイヤホンを外してそうっと子供部屋のドアを開け、隙間からリビングの様子をうかがった。リビングへと続くドアは半開きになっていて、二人の位置関係が見てとれる。母親はダイニングテーブルのそばに立っていて、男はベランダに通じる引き戸のそばのソファに座っていた。あー裏切られたわー俺のメンツ潰して楽しい? ねえ楽しい? 男がわけのわからないことを言ってビールの缶を床に叩きつける。母親は、なんで私が見ず知らずの人に大事なお金を預けなきゃいけないのよう、と怒っているのか泣いているのかわかりにくい、水っぽい声を出している。

 とりあえず二人の体は離れていて、母親が暴力を振るわれている様子はなさそうだ。ただメンツだの金だの、複雑な話で言い争っている。

 じゃあ、俺たち二人は大丈夫なんだろうか。

 ビールの缶を床に叩きつける男は、安全なんだろうか。 裕希は子供部屋の扉を閉じ、悩みながら大悟に返信した。

【大丈夫ってなに?】

 返事はなかなか来なかった。もう一度寝ようと布団に入りかけ、ようやくまた着信ランプが点灯する。

【母さんが、「裕希くんだけ上がってきて、様子を知らせてくれないか」って】

【俺もうパジャマだよ】

【パジャマのままでいいってさ。もう少しでうちの父さんが帰ってくるから、そうしたらケンカを止めに行くので、裕希くんは今夜はとりあえずうちで寝たらいいって言ってる】

 ちょっとめんどくさい。

 内緒で外に出たら、母親に叱られそうだ。

 ただ、大悟の家に行けば、このうるさい家で寝なくて済む。それに、伯母夫婦がここに来てくれたら安心だ。きっとあの乱暴な男を止めてくれる。

 いくつもの気持ちの間で揺れながら、裕希はこっそりとリビングと逆方向の玄関へ向かった。音を立てないように慎重に扉を開き、外へ出る。

 真夜中の空気は、新鮮な水みたいな爽快感に満ちていた。扉を閉め、思わず深呼吸する。

 ──この瞬間に、母親が殴られていたらどうしよう。

 静電気みたいな不安も、外階段に向かって走り出したら忘れた。大悟の家のチャイムを押すと、すぐに伯母の恭子が顔を出した。

「裕希くん来てくれてありがとう。二人とも大丈夫?   暴力をふるわれたり……」 なにかを言いかけた彼女の目線が、裕希の足元に釘付けになる。裕希は彼女の目線を追い、自分が裸足だったことに気づいた。

 恥ずかしい、とまた思う。恭子は裕希の両肩をぱんと叩いた。

「急に来いって言われて、慌てたよね。ごめんね」

「リビングでずっと……言い合って、ケンカしてる」

「わかった。ありがとう。大悟も野々花もまだ起きてるから、三人でゲームして、気分転換してから寝るといいよ」

 恭子は濡れタオルを持ってきて足を拭かせてくれた。

 リビングでは、パジャマ姿の大悟と、その姉の野々花が待っていた。大悟はゲームキューブのコントローラーを持ち上げ、はしゃいだ声を上げた。

「裕希が来るから特別に三十分スマブラやっていいって!   裕希なに使う?」

「……マリオ」

「俺ネスにしよー。姉ちゃんは?」

「サムス」

 裕希と大悟は同い年で、野々花は二人よりも八歳年上だ。三人並んでソファに座り、前のめりになって対戦する。

「はい復帰阻止ー」

「わ、ハメてくんな!」

「このキャラこんなに火力高かったっけ」

「距離の調整が甘い甘い」

 適当にふざけて遊ぶうちに、凍った体が少しずつ溶け、柔らかくほぐれていくのを 感じた。ここにいるだけで楽になる。だからゲームの勝ち負けはどちらでもよかった。

 しばらく遊んでいると背後で玄関のドアが開閉し、大きな気配が部屋に入ってくるのを感じた。大悟の父親の雅大だ。仕立てのいいスーツの上着を脱ぎながら、リビングの子供たちを見て目を丸くしている。

「なんだなんだ、なんの夜ふかしだ……あれ、裕希くん?」

「ちょっときて」

 恭子が彼の肩を叩き、別の部屋へ連れて行った。少し間を置いて、再び玄関の扉が開閉する音がする。

「サムス重てえ!   ふざけんな!」

「はーいわったっしっのっ、勝ちーい!」

「ばーか!   野々花ばーか!」

「弱いやつが吠えるんですうー」

 野々花に大敗した大悟は怒りながら子供部屋へ入っていった。からからと明るい笑い声を上げ、野々花は裕希に顔を向けた。

「もっと対戦する?   それとも休憩したい?」

「あ……どっちでも」

「ってか、寝る前にがっつり対戦ゲームやったら、むしろ目が冴えて眠りにくいよね。なんか温かいものでも飲もうか」

 弾むようにソファから立ち上がり、野々花はキッチンへ向かった。電子レンジの作動音が聞こえ、しばらくしてマグカップに入ったホットミルクを持ってくる。

「これ飲んだら寝よう」

「うん」

 裕希は湯気の立つ水面を吹き、甘い匂いを漂わせるミルクに口をつけた。野々花も同じソファの少し離れた位置に座って同じ物を飲み始める。

「裕希くんほんと大人っぽいねえ。大悟と同い年なのにさ、負けてもぜんぜん不機嫌にならないし」

「え……や、別に……」

「負けても悔しくない?」

「遊んでるともう、楽しい」

 少なくともリビングの物音に怯えて布団を被っているより、いとこの姉弟と遊んでいる方がずっといい。胸がふうっと軽くなる。

 そっか、と野々花は少し笑ってうなずいた。

 大人っぽいと言われたけれど、裕希からすれば、野々花の笑顔の方がずっと大人っぽく見える。高校の制服を着ていた頃はもっとつっけんどんだったし、大悟ともしょっちゅう喧嘩をしていた。大学に通うようになって、野々花は少し遠くなった気がする。

 野々花はしばらく天井を見上げ、裕希の方を向き、ゆっくりと一音一音を確かめるような口調で言った。

「裕希くんは、負けても明るい。心が強いから一緒にいて楽しいし、大人になったら、きっとたくさんの夢を叶えられるよ」

 急に褒められて、裕希は面食らった。なんて返せばいいのかわからない。

「の、ののちゃんは?」

 試しに聞いてみると、野々花は少し肩をすくめた。

「私?   私はー……どうかなあ。わからない。がんばるけど」

「がんばるって?」

「就活。勤める会社を決めなきゃいけないの。いろいろ迷ってるんだ」

「いろいろ?」

「そう、いろいろ」

 野々花はミルクの水面に目を落とした。裕希は彼女につられて、もうあと一口分しか残っていない自分のマグカップのミルクを眺める。

「ののちゃん、は」

 野々花みたいにうまくしゃべれる気がしない。でも、なにか言いたかった。

「ほ、ホットミルク作ってくれるし、スマブラ強い、から、なにか、いいことあると思う」

 つっかえながら、なんとか文章らしきものを口にする。すると野々花は小鼻をふくらませ、ふくっと小さく噴き出した。

「ありがとう。うれしい」

 急に笑われて、自分の言葉がよかったのか悪かったのかもわからない。変なことを言ってしまったんだろうか。困惑しつつ、裕希は自分のミルクを飲み終えた。キッチンの流し台に空になったマグカップを置く。

「洗面所にお客さん用の歯ブラシを出してあるから、歯を磨いて寝なよ。大悟の隣に、裕希くんの分の布団を敷いてある」

「うん。ののちゃんは?」

「私はまだ眠くないから、もうちょっとこっちにいる」

 裕希が歯を磨いて洗面所を出ると、野々花はソファに座ったまま、耳にイヤホンを差し込んで真新しいiPodを操作していた。おやすみなさい、とその背中に向けて呟いて、子供部屋に足を向ける。

 目の前で、玄関のドアが開いた。眉間にしわの寄った苦々しい表情の雅大が帰ってくる。裕希は自分が「おかえりなさい」というのも奇妙に感じて、黙って彼に会釈した。

「あ、裕希くん。寝るのか。おやすみ」

「はい」

「なんだかね。君も大変だったね」

「あれ、伯母さんは」

「あー、素ちゃんが心配だってんで、今夜は下に残るってよ」

「心配……」

 母親はもしかして、自分が去ったあとに殴られたんだろうか。

 リビングでうずくまって泣いている母親を想像し、冷水でも浴びたように全身の血の気が引いた。

 家を出たとき、すがすがしい気分だった。雅大と恭子が下りていったあとは、すっかり問題が解決した気分で、いとこたちとのゲームに夢中になっていた。

「か、帰る」

 後悔と悲しみが入り交じった鉄条網みたいな気持ちに胸を締めつけられ、裕希は思わず言った。雅大はえっ、と目を見開く。

「いやいや、もう遅いし、うちで寝ていけばいいよ」

「静かになったなら、自分の家で眠れるから」

「うーん。そうか、うーん……」

「おやすみなさい。……あ」

 玄関のたたきに脱ぎ捨てられた他の家族の靴を見て、裕希は自分が裸足で来たことを思い出した。

「どうしたの?」

 iPodのイヤホンを首に引っかけた野々花が玄関にやってきた。

「裕希くん、帰りたいんだってさ」

「あれ、もう大丈夫なの?」

「うーん、どうだろうな」

「ののちゃん、俺、靴忘れた」

「私のサンダル履いていっていいよ。底がぺったんこのキティちゃんのやつ。明日返してね」

「うん」

 野々花と雅大、二人の真ん中ぐらいの位置に向けて会釈をして、玄関のドアノブに触れる。

 どん、と体の芯へと響く鈍い音を思い出し、裕希は一瞬、足を止めた。

「ねえ、いま聴いてたの、なんの曲?」

 野々花は質問に少し驚いた様子で、Do As Infinity、と聞き慣れないアーティスト

 名を教えてくれた。何度か聞き返し、辛うじて音を覚えて、口の中で繰り返しながらアパートの外階段を下りる。

 自宅に帰ると、母親と伯母が低い声でぽつりぽつりと話し合う声が玄関まで届いていた。裕希はリビングへ向かった。母親はダイニングテーブルに突っ伏し、隣に座った伯母が、諭すように声をかけていた。

「だからね、他の入居者さんからも怖いって苦情が来てて……あ、裕希くん」

「裕希……?」

 顔を上げた素子は、まだ頬に涙を伝わせていた。顔色は真っ青なのに、目の周りは泣き腫らして赤い。彼女の顔に殴られたあとはない。痛みで体を押さえているわけでもなさそうだ。よかった、と裕希はそっと息を逃がす。

 しかし素子は、裕希を見ていやそうに顔をしかめた。

「あんた、告げ口しに行ったでしょう」

 つきりと裕希の心臓が強く打った。恭子が慌てた様子で身を乗り出す。

「違う違う、状況を聞きたくて私が呼んだの」

「うちの問題なのに、なんでお姉ちゃんたちを呼ぶの。勝手なことして! 子供は、さっさと、寝なさい!」

「素子!」

「お姉ちゃんにはわからない!   なんで私ばかり……」

 水風船を破裂させたみたいに泣き始めた母親に背を向け、裕希は自分の部屋に駆け込んだ。また両耳をイヤホンで塞ぎ、布団を被る。どくどくと強く打ち続ける心臓が痛い。

 週末にレンタルCDショップに行ったら、野々花が聴いていた名前が難しいアーティストのアルバムを借りよう。

 それを頼りに、次はちゃんと、一人で我慢して夜を越える。

 

『青春とそれから』は全4回で連日公開予定