プロローグ

 

 雨は上がっていた。

 雲間から射す春の陽が、泥田のように荒れた淀の芝コースを照らしている。

 先行馬が横にひろがり、最後の直線に向いた。

 スタンドの歓声が高まる。

 泥だらけになった黒鹿毛の馬が、馬群を割って伸びてきた。白地に緑の線が入った勝負服をまとった鞍上の手が激しく動く。

 ──よし、ええぞ。頑張れ!

 女は双眼鏡を顔から離し、胸の前で強く握った。

 黒鹿毛の馬が、前を行く二頭に外から並びかける。

 ゴールまで残り二〇〇メートル。

 まず一頭を競り落とした。

 残り一〇〇メートル。

 叩き合いでもう一頭をかわせば、天皇盾に手が届く。

 黒鹿毛の馬は四肢を大きく伸ばし、前との差を一馬身、四分の三馬身、半馬身と縮めていく。

 しかし、道悪巧者の相手はしぶとく二の脚を使い、なかなか抜かせない。

 十年前のダービーで「髪の毛一本の差で負けた」と言われた馬のように、またも大舞台で惜敗してしまうのか。

 今ここで盾を目指している馬も、十年前に「競馬の祭典」の栄誉を取り逃がした馬も、女が生産し、手塩にかけて育てた馬だった。

 二頭は兄弟で、その母馬もまた、女が営む牧場で生まれた。

 生まれて間もない仔馬のころから手のひらを舐めさせ、指をくわえさせ、齧らせながら、関係を築いてきた。

 馬の唇のやわらかな感触が、双眼鏡を握る手に蘇る。

 耳をつんざくほどの歓声にスタンドが揺れる。

 ゴールまで、あと三完歩、二完歩、一完歩……。

 勝負は決した。

 馬たちはゴールを過ぎ、速度を落としながら一コーナーへと流していく。

 わずか三分半あまりのレースが、十分にも二十分にも感じられた。

 拳を握りしめる者もいれば、天を仰ぐ者もいる。

 まだ頭の奥に痺れが残っていた。

 それでも目は、黒鹿毛の馬を追いつづけている。

 誰かの手が肩に置かれた。

 女は羽織の衿を直して背筋を伸ばし、馬主席を離れた──。

 

 女の名は、沖崎エイ。

 明治の世に生まれ、父に連れられ競馬場と馬産地を訪ね歩くうち、馬の魅力に取りつかれた。

 夫とともに馬の牧場をつくり、夫亡きあと、馬主兼生産者──すなわちオーナーブリーダーとなった。

「日本初の女性オーナーブリーダー」として持ち上げられたこともあれば、「女競馬師」と後ろ指をさされたこともある。

 強くあらねばならない。

 馬と、家族と、牧場と、そして「沖崎」の名を守り抜かなければならない。

 泥をかぶることも、疎まれ、嫌われることも厭わなかった。

 その歩みは、いつも馬とともにあった。

 

 大阪湾に注ぐ安治川を、ポンポン船が焼玉エンジンの音を響かせ、ひっきりなしに行き来している。

 エイは、三味線の稽古からの帰りしな、川岸に置かれた丸太に腰掛けていた。河口に近いこのあたりには、風に乗って潮の香りが流れてくる。

「おぅ、熊谷のこいさんやないか」

 という声に振り向くと、荷馬車に乗った男が手を振っていた。

 大阪では良家の末娘は使用人などから「こいさん」と呼ばれる。エイも、父の熊谷茂八を知る者たちからそう呼ばれていた。

 荷馬車の男が身を乗り出した。

「評判の別嬪さんが、ひとりで何しとんのや」

「あんたには関係あらへん」

「いけずなこと言わんと、家まで送ったるさかい、ここに座ったらええ」

 男が自分の膝を叩いて笑った。

 するとエイは立ち上がり、

「やかましい、誰がそないなとこ座るか!」

 と、足元にあった木片を男に投げつけた。

 くるくると回りながら飛んだ木片はすんでのところで当たらなかったが、男は「イタタ」とおどけたように顔を押さえ、

「おお、怖っ。見かけと違うて恐ろしい娘やいう噂はホンマやな」

 と荷馬車の手綱を握り直し、去っていった。

 大正二(一九一三)年、春の夕まぐれのことだった。

 熊谷エイは、数え年で十五歳になっていた。

 幼いころに暮らした香川の東濱村でも、よくこうして船を眺めていた。のちに高松港の一部となる東濱の港には多くの商船が出入りし、男たちが積荷の揚げ降ろしをしていた。威勢のいい掛け声や笑い声、海鳥の羽音や鳴き声、汽笛の音、大八車の車輪の軋む音、荷馬車を曳く馬の蹄の音や嘶きなど、港は雑多な音であふれていた。

 その活気と、海の匂いが好きだった。

 港の東側で行われている港湾拡張工事の現場では、土建業を営む父が陣頭指揮を取っていた。

 夜になると、男たちは花街に繰り出した。

 エイも、もっぱら昼間ではあったが、よく花街に遊びに行った。初めて足を踏み入れたのは、日露戦争の祝勝会の余興で、芸妓たちが三味線を披露したときだった。背筋を伸ばして撥を弾く女たちの凜々しい姿と、力強い音色の虜になった。以来、花街に三味線の稽古を覗きにいくようになった。何人かの芸妓と仲よくなり、髪飾りや匂い袋をもらったこともあった。

 年の近い子供と遊ぶことはほとんどなかった。女の子同士でままごとやお手玉などをしたこともあったが、手際の悪い子を強く叱ったり、お膳をひっくり返したりしているうちに誘われなくなった。かといって男の子と遊ぶと、相撲を取っても、駆けっこをしても、体の小さなエイは簡単に負けてしまって面白くない。

 ──あの娘は母親がおらんから利かん気なんや。

 家の使用人や、近所の大人たちが、そう噂しているのを何度も耳にした。

 母は、エイが三歳のときに離縁し、実家に帰ってしまった。その後は一度も会っていない。顔も声もよく覚えていないのだが、母を知る者に会うと決まってこう言われる。

 ──あんたはお母さんにそっくりやね。

 母がどんな女だったのかを知ったのも、大人たちの噂話によってだった。

 ──熊谷の旦那は成り上がりやから、家に箔をつけようと、没落した華族か士族の娘を嫁にしたんや。

 ──絶世の美女やけど、気性が荒すぎてほかにもらい手がなかったらしいで。

 ──こいさんは、あれに似て性格がきついんや。

 聞くつもりはなくても耳に入ってきた。

 黙っていれば哀れな娘と見られ、言い返せば可愛げがないと言われる。

 ──うちには最初から母親はおらんかったんや。

 エイは、自分にそう言い聞かせるようになっていた。

 母に会いたくないと言えば嘘になる。けれども、寂しいと思ったことはなかった。家に帰れば父や職人たちがいて賑やかだったし、大好きな「宮脇のおじちゃん」もいたからだ。

 

 父の茂八は家の外では恐れられていたようだが、エイには優しかった。エイは三人きょうだいの末っ子で、六歳上の姉・モトと、四歳上の兄・八郎がいた。モトは母と一緒に家を出て、大阪の商家の養女になっている。八郎は跡取りだからと厳しく育てられたのに対し、エイは何をしても叱られたことがない。それこそ、目のなかに入れても痛くないほど可愛がられていた。

 そんなエイも、一時期、家族と離れて暮らしていた。

 四歳になった明治三十五(一九〇二)年の夏のことだった。

「エイ、しばらくの間、宮脇のおじちゃんの家に行ってくれないか」

 夕食の席で、父が切り出した。

「宮脇のおじちゃん」こと宮脇勘次郎は、父の古くからの知り合いで、妻と二人の子供を亡くしていた。二人いた妹も他家に嫁いでいる。父がつづけた。

「宮脇のおじちゃんの家には嫁はんも子供もおらんようになって、気の毒やけん、お前に一緒にいてやってほしいんや。あの人は、わしの恩人やけん」

「嫌や」

 エイは涙をこぼした。

「ずっとやないし、家は近いんやから、いつでもここに来たらええ」

 こうしてエイは、養女として宮脇の家に入ることになった。

 

 

『一代の女傑』は全3回で連日公開予定