品川・博多間は五時間ほどかかる。大人同士なのだから、ぺちゃくちゃ話さないにしても、会話のネタはいくつか用意しておいたほうがいいだろう。ただし、裁判や裁判所に関する話は周囲のひとたちに聞き耳を立てられる恐れがある。瑤子さんのプライベートについても、こちらからは聞かないほうがいいだろう。また、義弟・小林亘の忠告に従い、季実子さんの存在を気取られないように注意する。
宅調の合間にそんなことを考えながら和樹は週末を過ごし、月曜日の朝を迎えた。よく晴れた日で、白いポロシャツにベージュのスラックスという軽装の和樹はタクシーではなく、山手線で品川駅に向かった。楽をしたい気持ちもあったが、怠惰も、贅沢も、すぐクセになるのだから、慎むにこしたことはない。
右腕にかけた紺の麻ジャケットは明日の散骨でも着るつもりでいた。左手のボストンバッグには白いワイシャツと紺のスラックス、紺のネクタイが入っている。靴は無難に黒いスニーカーにした。
もうひとつ、瑤子さんから言われていたのは、旅行中の費用は全額彼女が持つということだ。和樹は抗弁しなかったが、帰京後に一度白金台のご自宅を訪ねて、その際に相応の額の香典をお渡しすればいいと思っていた。
今回、ご両親の遺骨をすべて海に撒いてしまうのではない。瑤子さんは手のひらサイズの骨壺にお二人のお骨を併せ納めて、自宅に無宗教の祭壇をつくってあるという。そちらにも手を合わせたいと申し出れば、意図を察してくれるはずだ。
季実子さんは学期末でいそがしいらしく、七月に入ってからは連絡がなかった。不整脈で体調がすぐれないときは必ず知らせてほしいと言ってあったので、連絡がないのは季実子さんが無事ということでもあった。絶対にそうだとは限らないが、体調を心配しすぎてもいいことはない。
そうしたことを思いながら品川駅で山手線を降り、新幹線の改札口に歩いてゆくと、瑤子さんが先に来ていた。オリーブ色のゆったりしたパンツスーツで、荷物は大きめのトートバッグと紙袋が二つ。JR博多駅近くのシティホテルに着替えを入れたスーツケースを送ってあるという。
そうしたやりとりのあと、瑤子さんがあらたまった。
「このたびは、亡き父のたっての頼みとはいえ、遠方までご同行願うことになり、まことに申しわけありません」
「大隅先輩と奥さまには、本当にお世話になりましたので、御役に立てて光栄です」
和樹も丁寧に応じると、瑤子さんが表情をやわらげた。
「はい。これはお昼のお弁当とお茶。勝手に選んじゃいました。なかに新幹線のチケットも入っています。一応、グリーン車」
瑤子さんはほがらかで、和樹は戸惑いつつも安堵した。めそめそ泣かれることはないと思っていたが、しんみりされて、情が移っても困るからだ。
「ホームにあがりましょう」
笑顔で言われて、和樹はJRのマークが付いたチケット入れを手に取った。
「申しわけないけれど、往きは窓側に座らせてください」
自動改札機を抜けたところで瑤子さんが謝ってきた。
「どうぞ、帰りも窓側にしてください」
「そんなの悪いわ。でも、仕事が終わらなかったら、そうさせてもらうかもしれません」
「仕事?」
「そうなの。作家が締切を三日もオーバーして、昨夜の十時過ぎにようやくゲラのPDFが送られてきたから、できれば博多まで行くあいだに校正してしまいたいの。ただ、ざっとゲラを見た限りでは、けっこう手間がかかりそうなのよね。まったく、いやになっちゃう」
よほど不満らしく、瑤子さんの口ぶりは少々荒っぽかった。おまけに、自分の職業をこちらに伝えていないことも失念しているらしい。
それはそれとして、和樹が胸を撫でおろしていたのは、そういうことなら、こちらはぼんやりしていればいいからだ。
ボストンバッグのなかには、新聞も本も書類も入っていなかった。三年ほど前までは、移動のあいだも寸暇を惜しんで活字を追っていたが、六十歳が近づくにつれて、和樹は余暇を余暇として楽しめるようになってきた。手持ち無沙汰を退屈だと嘆いているうちは若造であって、特別な刺激など求めず、自分がいる場にとけ込めばいい。そうすれば、同じ空間にいるひとたちの様子がよくわかるし、光や音や香りにも敏感になる。食べものの味もよくわかる。加齢によって訪れた変化を、和樹は歓迎していた。
前職は福岡家庭裁判所の所長だったので、その三年間、東京との往復はいつも飛行機を使っていた。東京・名古屋間、東京・新大阪間では新幹線を利用してきたが、新大阪駅より西にグリーン車で向かうのは今回が初めてだ。
それにしても瑤子さんが編集者だとは意外だった。てっきり父親の秘書役を務めてきたと思っていたが、結婚前から編集者だったのだろうか。それとも、離婚後に働きだしたのだろうか。
近年、新聞を含む紙の出版物は売れゆきが続落しているが、刊行される書籍の点数は増えているそうで、法曹界でも自著を刊行するひとは少なくなかった。なかでも、個人事業主である弁護士は新聞や雑誌にエッセイを載せるのも、書籍を刊行するのも自由だ。テレビのワイドショーやバラエティー番組、ラジオの法律相談などにも、多くの弁護士が登場している。
一方、裁判官は特別職国家公務員であり、在任中にテレビやラジオに出演してトークを繰り広げることは絶対にない。マスコミの取材も受けない。退任後に弁護士になり、「ヤメ検」として活躍する元検察官は少しはいるが、元裁判官の弁護士には「ヤメ検」のような通称もない。『裁判の非情と人情』を著した原田國男氏は例外中の例外だ。
そうしたことをつらつら思いながら和樹はエスカレーターでホームにのぼり、入線してきた白いボディーに青いラインの新幹線に乗った。お弁当の入った紙袋は網棚にあげて、瑤子さんに続いてグリーン車のゆったりしたシートに座ると、最新型の超特急がスムーズに加速してゆく。三年ぶりの新幹線は飛行機よりも乗り心地が良いし、大きな窓から見える景色も楽しい。こどものように喜びながらも、先輩判事夫妻を弔うための旅行であることを、和樹は忘れていなかった。
近代国家においては、国家権力が自国の領域内で起きた刑事事件に対して独占的に処罰を科す。日本の場合、死刑も含まれるのだから、司法権の行使は慎重にも慎重であるべきだ。しかしながら、検察が起訴した事件の有罪率がかつては九十八パーセントほど、現在でも九十四パーセントほどという、他国と比して高すぎる事実からもうかがわれるように、日本の刑事司法では、検察が無罪・有罪の判定を事実上握っている。その結果、数多くの冤罪がおきている以上、公判を指揮し、みずからの名によって判決を言い渡す裁判官として、刑事裁判のさらなる簡略化を許すわけにはいかない。和樹は瞑目し、先達である大隅豊彦判事と奥さまを悼んだ。
ところが、しめやかな気持ちを遮るようにガタガタと音がして、目を向ければ、瑤子さんが背面テーブルにノートパソコンをセットしている。さらに、茶封筒からA4サイズのゲラの束とペンケースを取りだしたところで和樹に顔を寄せた。
「わたしね、フリーの編集で、小説の校正もしているの。それだけじゃなくて、自分で翻訳もしているの。もちろん、訳者名はペンネーム」
「えっ」
声にならない声で和樹は驚いた。申しわけないが、そこまで本格的に活動していると思っていなかったからだ。
「この原稿は、ベストセラー作家が全国紙に連載中の小説で、SNSでけっこう話題になっているの。だから、通路側の席だと、誰かに気づかれちゃうかもしれないでしょ」
顔を寄せ合った瑤子さんからは香水がほのかにただよい、和樹は鼓動が速まった。
「これが頻脈というやつだな」
二人の顔が離れたあと、和樹は頭のなかでつぶやいた。頻脈は心拍数が速まるタイプの不整脈で、一分間の脈拍が百回以上。徐脈は心拍数が遅くなり、一分間に五十回以下。季実子さんの期外収縮は不規則な心拍があらわれて、脈が飛んだり、抜けたりする、不整脈としては最も一般的なタイプだ。
和樹は気持ちをそらそうとしたが、ジャケットを脱いだ瑤子さんが肩までの髪をゴムでまとめて、さらに胸がときめいた。
準備を整えた瑤子さんはペットボトルのお茶を一口飲むと、仕事に没頭した。和樹はさりげなくシートにもたれていたが、進行方向右側の車窓に目をやるたびに、一心に働く女性の横顔が視界に入った。
やがて左の車窓には相模湾が見えて、熱海を抜けると駿河湾が広がった。右の車窓から見える富士山は中腹から上に厚い雲がかかっていたが、和樹はなだらかな稜線をあきずに眺めた。
大学生の頃から、和樹は毎日二紙か三紙に目を通してきたが、各紙に連載されている小説を読んだことは一度もなかった。中学・高校時代は、国語の教科書に抜粋が載っている小説の全文を文庫本で読んだり、世評の高い推理小説やノンフィクションを読んだりもした。しかし、判事補に任官後、日々膨大な記録を精読していると、そのリアリティーに匹敵する小説は皆無であって、書店から足が遠のいた。同僚のなかには、国内外の法廷ミステリー小説が刊行されるや通読し、そのアラをこと細かに語るという、へそ曲がりな裁判官もいた。
通路側のシートで左右の車窓を眺めながらそんなことを思いかえしているうちに、のぞみ号は天竜川に続いて木曽川を渡り、瑤子さんが組んだ両手を頭上に伸ばした。
「ごめんなさい」
ノートパソコンとゲラの束を手際よく片づけた瑤子さんが席を立ち、全景を見渡せるようになった大きな窓の外は尾張名古屋の町並みだ。和樹は姿勢を正し、かつての任地に心の中で挨拶をした。
名古屋城のすぐ近くにある名古屋高裁の右陪席に在任していたとき、大隅判事の奥さま雅代さんは他界されたのだ。腎臓がんと診断されてから一年ほどで亡くなられたため、和樹にとってはまさに青天の霹靂だった。
もっとも、雅代さんは大の医者嫌いで、酒豪のうえにヘビースモーカーでもあったから、長生きは望んでいなかったのかもしれない。大隅判事も、それを覚悟で自由気ままにさせていたのだろうと、通夜の席で聞こえてきた話を和樹は思いだした。
「お昼にしましょう」
和樹が顔をあげると、すぐそばに瑤子さんが立っていた。ほぼ同時に停車に向けた減速が始まり、名古屋駅で降りる外国人観光客が通路を歩いてくる。
「ごめんなさい」
さっと足をあげて、和樹の脚を跨いだ瑤子さんが窓側のシートにすとんと座った。
「はしたなくて、ごめんなさい。それに、席を立つタイミングが悪くて」
「いえ、そんなことは」
「わたし、夢中になると、まわりが見えなくなっちゃうの。母によく叱られたわ。あなたは目先が利かないって。隙だらけで、間も悪いから、生き馬の目を抜く商売はとてもさせられないって」
ため息を吐いた瑤子さんが窓の外に目を向けた。ほどなく名古屋駅に停車した新幹線が再び走りだすと、和樹は立ちあがり、網棚の紙袋をまずは瑤子さんに渡した。そして、もう一つの紙袋を持ってシートに座った。
「ありがとう。お昼にしましょうって自分で言ったのに、すっかり忘れちゃって。わたしってダメね」
「でも、運動神経はいいじゃないですか」
「そうなのよ。見かけに寄らず」
しばしの沈黙のあと、二人は同時に紙袋からお弁当を取りだした。
「おかしい。山村さん、わざとわたしに合わせて、お弁当を取りだしたの?」
瑤子さんが口を押さえて笑った。
「違いますよ。そろそろだなと思って、自然にしただけです」
「わたしもそう。でも、なんだかうれしいわ。父と母も喜んでいる気がする」
「そうですね。われわれの道中が気まずいと、豊さんも気をもむでしょうから」
「本当よね。わたし、両親のことをきちんと知ってくれている男のひとと話すのは、山村さんが初めてなの」
「それは光栄の至りです」と答えながらも、離婚されたご主人は違ったわけだと和樹は思った。その男性について知っているのは商社マンということだけだが、それ以上詳しく知りたい気持ちはなかった。
瑤子さんが選んだお弁当は豪華な幕の内弁当だった。二段重ねで、おかずの品数が多くて、お米もとてもおいしい。和紙に記されたお品書きに目をやりながら舌鼓を打っているうちに、新幹線は京都駅に停車し、発車した。
「どうぞ、お仕事を再開してください。ぼくは独り者のせいか、食事がきわめてマイペースでして」
「謝ることじゃないわ。わたしだって、本当はもっとゆっくり食べたいと思ったから、このお弁当にしようって、一週間くらい前に決めたの。そうしたら、今回の原稿が遅れに遅れてしまって。小説家って、締切はちっとも守らないし、法律関係の用語や言い回しもいい加減で、おまけに同じような間違いを平気で繰り返すから、いやになっちゃう」
瑤子さんの声が少し大きかったので、和樹は自分の口に人差し指を当てた。すると肩をすくめた瑤子さんが笑いをこらえて、和樹も同じように笑いをこらえた。こうしたことが続くと、ますます気心が通じてしまうと心配になったが、今さらよそよそしい態度もとれない。
仕事を再開した瑤子さんの隣で、花山椒の佃煮、蕗の薹の醤油煮、鰻肝の山椒煮といった珍味を箸で摘まみながら、これ以上うちとけないようにするにはどうするべきかを和樹は大まじめに考えた。しかし、女性と気まずくならないためのアドバイスは多々あっても、うちとけすぎないようにするためのアドバイスなど聞いたことがない。
そうこうするうちに、歯と歯のあいだに葉物が詰まった。この一、二年、急に増えてきたことで、食事どきは爪楊枝が欠かせない。もちろん、この幕の内弁当にも爪楊枝がついている。
そこで、この場で爪楊枝を使えば、瑤子さんは幻滅するにちがいないと和樹は思った。しかし、それはただのマナー違反であって、それきり相手にされなくなる恐れがある。
やがて弁当箱は二段とも空になった。トイレにも行きたかったので、間を取るには丁度いいと、和樹は腰を浮かせた。
「そちらも捨ててきましょう」
「あら、ごめんなさい。山村さんて、本当に気が利くのね」
「どうも、そのようです。もの心ついた頃からなので、今さら横柄にもなれません」
「ふふふ」
トイレはすぐに空いて、用を足し、洗面所で爪楊枝を使ったあと、和樹が乗降口の窓から景色を眺めていると膝がカクンと折れた。猛烈な睡魔で、立っているのもつらい。しかし、仕事をしている瑤子さんの隣で居眠りをするわけにはいかない。
屈伸とアキレス腱伸ばし、それに両手をぶらぶらさせて、和樹は懸命に眠気を払った。ところが、通路側のシートに戻るやうとうとして、ハッと目を覚ますと、瑤子さんがやさしい笑顔を向けている。
「どうぞ、わたしのことはお気になさらずにお休みください」
「いや、しかし」
「今のお立場がどれほど過酷かは、父を見ておりましたので、おおよそわかっております。わたしも、いい加減な仕事をしているつもりはありませんが、山村さんは正真正銘の要職なのですから、休めるときに休んでください。母も、こんなふうに、よく父を諭していました」
「そうでしたか。では、おことばに甘えます。ただし、もしもいびきがうるさかったら、遠慮なく、その赤ペンの先で突いてください」
「ふふふ、それ、楽しそうね。お行儀よく寝ていても、おでこやほっぺを突いちゃおうかしら」
「しまった、よけいなことを言った。それは勘弁してください」
「うそよ、おやすみなさい。西明石駅を過ぎたところだから、二時間は眠れるわ」
「小一時間眠れば十分です。それでは、おやすみなさい」
そう言って、和樹は目をつむった。しかし、すぐに眠れなかったのは、身内以外の女性に就寝の挨拶をしたのが三十数年ぶりだったからだ。しかも、こんなふうに知人女性の傍らで眠るのは生まれて初めてだ。なにより、季実子さんに申しわけない気がしてならない。このことは誰にも漏らすまいと思っているうちに、和樹は眠りに引き込まれた。
目を覚ますと、のぞみ号は広島駅に停車していた。瑤子さんは両腕で抱えたトートバッグに顔を伏せている。背面テーブルは閉じられて、ジャケットも着ているから、仕事に一区切りがついてホッとしたのだろう。
「お疲れさま」
声には出さずにねぎらい、和樹はペットボトルのお茶を飲んだ。熟睡したおかげで、こちらの眠気は去ったが、関門トンネルをくぐり抜け、小倉駅を通過しても、瑤子さんは目を覚まさなかった。
瑤子さんのほうこそ疲れが溜まりに溜まっていたはずで、うかうかと先に眠ったことを和樹は恥じた。がんになった父親の看病と看取りもさぞかし苦しく、かなしかったことだろう。
すぐ隣で寝息を立てている瑤子さんがかつてなくいとおしく感じられて、このままいつまでも寝かせてあげたかった。しかし、それは無理なので、のぞみ号が減速を始めたところで、和樹は瑤子さんの左肘を突いた。
「もうすぐ博多駅です」
そう声をかけて、和樹はすぐに視線を外した。
「いやだ、ごめんなさい。眠るつもりなんて、全然なかったのに」
瑤子さんの言いわけは、その日の夕食のあいだも繰り返された。眼下に博多の夜景が広がるシティホテル最上階のレストランで、瑤子さんは大好きだという白ワインのグラスをかたむけては、自分の生い立ちや両親との関係を滔々と語った。ときには涙さえ浮かべたのに、ふいに新幹線のなかでの居眠りを恥じ入るので、和樹はそのたびに笑った。そして、瑤子さんの自負心と不安に胸を打たれた。
諏訪季実子さんは、十二月に還暦を迎える。和樹と同じく、家庭をつくらず、仕事に邁進してきた半生で、来年三月末に校長の任を終える。つまり、そこで、おおよその役目は果たしたことになる。
それに対して、瑤子さんには二十年以上の活動期間が残されている。父親が遺した潤沢な資産もあるため、どこでどうやって生きてゆくのかを自由に選べる身ではあっても、支え合う配偶者も子もいないとなると、やはり行く末が心もとなくなるだろう。
「たしかに、ひとりはさみしいけれど、結婚はこりごりなのよね」
そう言って瑤子さんはグラスの白ワインを飲み干した。すでにハーフボトルを空けていて、さらに頼んだ一杯なので、さすがに飲みすぎではないかと、和樹はさっきから心配していた。ただ、酒豪だった両親の血を受け継いでいるらしく、瑤子さんの言動にあやしいところはなかった。
一方、和樹はスパークリングのミネラルウォーターで、九州の食材によるフルコースを堪能していた。
「大丈夫よ。わたし、酔いつぶれたことはないんだから」
こちらの懸念を察して、瑤子さんが胸を張った。
「ねえ、山村さんは、本当に、まるきりお酒が飲めないの?」
一時間以上も自分のことを話し続けていた瑤子さんに聞かれて、和樹は面食らいつつ、笑顔で頷いた。
「本当です。ワインでしたら、ひと口どころか、ひと匙でも眠ってしまうと思います」
「そういうひともいるとは聞いていたけれど、飲食をご一緒するのは初めてだわ」
「ぼくは二十歳のときに、当時暮らしていた千駄木のアパートで、生まれて初めてビールを飲んだところ、すぐに気分が悪くなって、気を失うように眠ってしまいました。午後九時頃から、翌朝六時過ぎまで眠り続けて、その後も三日間頭痛に悩まされました。ケーキも、サヴァランやティラミスのように、リキュールがきいているものは避けています」
いたって真面目に答えながら、神宮前の官舎で義弟の小林に叱られたことが頭をよぎった。もしも、瑤子さんとねんごろな関係になりそうになったら、テーブルに置かれている彼女のワインを一気飲みする。そうすれば危機を回避できると言ったところ、それ以上女性を侮辱する行為はないと一喝されたのだ。
そのときの、瑤子さんに対する申しわけなさがよみがえり、和樹は目を伏せた。
「どうしたの? いいじゃない、お酒が飲めなくたって」
慰められて顔をあげると、瑤子さんがやさしい笑顔で見つめている。
「わたしは平気よ。自分だけいい気持ちになっていると、多少は気が咎めるから、一緒にお酒を飲んでくれるひとのほうがいいけれど、お酒が入っても紳士でいられる男性は少ないし」
そう言ってもらえて、和樹も笑顔になった。
「お付き合いされている方だって、それでかまわないって言ってくださっているんでしょ?」
「えっ」
不意を衝かれて、和樹は固まった。
「ふふふ、図星ね。一月末に内示が出たあと、父には、お付き合いしている女性はいないって言ったくせに」
「あれは、うそじゃありません」
反射的に、和樹は言いかえした。
「ダメよ、山村さん。東京高等裁判所刑事部の部総括判事ともあろうひとが、この程度の誘導尋問に引っかかっちゃ。つまり、あのあとすぐくらいに、その方との出会いがあったのね」
もはや言い逃れはできないと、和樹は観念した。しかも、瑤子さんのグラスは空で、ワインを一気飲みする手も使えない。さらに詳細を問いつめられても、公判ではないのだから、黙秘権も使えない。
それにしても、どうして瑤子さんに見抜かれたのだろう。こちらがよほど間が抜けているのだろうか。
和樹にわかっているのは、この場の主導権は完全に瑤子さんに握られてしまっているということだった。