その後、それぞれのケーキと飲み物が運ばれて、和樹は生クリームがたっぷりのったケーキを味わって食べた。ひとまず告白を終えた井野判事もモンブランをパクパク食べている。一喝されることも覚悟していたかもしれないが、それなら青いスーツは着てこない気もした。

「ところで、きみのスーツやネクタイは自分で組み合わせているの?」

 何気なく、和樹は聞いた。

「いいえ。妻がしてくれています。法廷では、黒い法服に合わせて地味なスーツを着るのだから、法廷のない日は、なるべく明るい色の服を着たほうがいいと言って。もしかすると、妻は私の悩みに薄々気づいていて、こうした色のスーツを着せることで、陰ながら、夫を励まそうとしていたのかもしれません」

「素晴らしい奥さんだね」と応じた和樹はわざとらしく咳払いをした。

「お聞き及びかもしれないが、ぼくは一度も結婚したことがないものだから、配偶者から、そうしたアドバイスをしてもらったことがないんだ」

「いえ、でも、部総括はダンディーで、イケオジだと、部内で評判です」と井野判事が焦りぎみに応じた。

「お世辞でも、うれしいよ」

 鷹揚に答えた和樹は、自分がこのあと何を語るべきかを不意に悟った。ケーキを注文する前に、すでに腹案があるようなことを言ったが、あれは時間を稼ぐための出まかせだった。もっとも、気乗りのしないこと甚だしく、あやうく舌打ちをしそうになった。しかし、それを上回る妙案はなさそうだった。

「いいかい、井野君」

 思わず強い声が出て、井野判事がフォークを持つ手を止めた。

「すまない。つい声が大きくなった」

 鼻から息を吸い、和樹は天井に目をやった。そのあと首を左右に曲げて、さらにグルグル回転させた。

「いいかい、井野君」

 さっきよりはおだやかに言ったつもりだったが、テーブルの向かいに座る井野判事は完全に固まっていた。こうなったら、いまさらなだめても無駄と判断した和樹は、いかにも上司が部下に命ずる口調で言った。

「ぼくが、これから話すことは、他言無用だ。奥さんにも、弁護士である義理のお父さんにも、柳田判事にも、決して言うな」

 井野判事が真っすぐに姿勢を正して言った。

「わかりました。命にかえても約束を守ります」

 こちらの言い方も良くなかったが、あまりにも大げさに受け取られて、和樹は居心地が悪くなった。

「うん。いや、しかしまさか、こんなハメになるとはな」

 そうつぶやいたあと、和樹は自分でもどうかと思うほど大きなため息を吐いた。

「まず、最初に断っておくと、きみに引導を渡すつもりはない。日本国憲法第七六条に記されているとおり、われわれ裁判官はみずからの良心に従い、憲法と法律のみに拘束されて、各々が独立に職責を全うするのであって、部下の判事に進退伺いを提出されても、部総括には引導をくだす権限など与えられていない。なにより、まっとうな判事であれば、誰もが、多かれ少なかれ、きみと同じようなことを悩んできているからだ。それは、ぼくだって、例外ではない」

 井野判事がキョトンとした顔になり、和樹はたたみかけるように言った。

「おい、いいか。世のなかのたいていの者たちは、東大をはじめとする難関大学の出身者は、秀才ではあるが、世間知らずで、人情の機微にうといと決めつけているが、そんなことで学問が修められるわけがないだろう。ぼくだって、人並みの感情は持ち合わせている。いや、むしろ、人並み以上に思い悩んできたからこそ、懸命に自分を律して、広く、深く、勉強しようとしてきたんじゃないか」

 話しだした瞬間こそ興奮していたが、すぐに冷静さをとり戻した和樹は芝居がからないように気をつけて啖呵を切った。

「すまん、ついわれを忘れてしまった。しかし、きみがそうだったように、これからする話は、ぼくも、誰にも話したことがないんでね」

 和樹が笑ってみせても、井野判事は固まったままだった。そこで和樹は、本題に入る前にアウトラインを説明することにした。

「ありていに言えば、ぼくは裁判員裁判が大の苦手なんだ。しかし、それは、裁判官としての修練を経ていない市民が公判に参加することがいやだからじゃない。それどころか、ぼくはいま以上に、司法への市民参加を進めるべきだと思っている。では、裁判員裁判の何が苦手なのか。それは、裁判員法の定めにより、一八歳以上の日本国民のなかから、くじによって選ばれて裁判員候補者になり、欠格事由にも、就職禁止事由にも、辞退事由にも該当していないにもかかわらず、裁判員になりたくないとごねるひとたちに対して、過剰な怒りを覚えてしまうからだ。そのわけを、ぼくの若き日の失恋に絡めて話すから、ぼくがいいと言うまで、きみは黙って聞いていなさい」

 われながら無体な要求をしていると和樹は思ったが、「わかりました」と井野判事は神妙に応じた。

 平成期になされた司法制度改革の目玉である裁判員制度は、刑事裁判に市民感覚を反映させることにより、裁判の公平性や透明性を高めることを目的として導入された。

 裁判員裁判の対象となるのは、殺人、強盗致死傷、傷害致死、現住建造物等放火、身代金目的誘拐、集団強姦致死傷、危険運転致死、保護責任者遺棄致死、覚せい剤取締法違反などの重大な犯罪で起訴された刑事事件だ。その第一審を、三人の裁判官と、六人の裁判員によって裁き、有罪の場合は量刑もおこなう。一名の裁判長を含む九名の立場は平等で、裁判体の評決は合議事件と同じく多数決によるが、裁判官のうち最低一名が加わっていなければ、その結論は有効とならない。

「裁判員の選定手続きについて、きみに説明する必要はないから省くが、最寄りの地方裁判所から名簿記載通知が届くと、ほとんどのひとが驚き、くじ運の悪さを嘆くそうだ。しかしながら、おそるおそる裁判員を務めてみると、六割以上のひとが、非常に良い経験をしたと、最高裁が実施したアンケートに回答している。その一方で、三割以上のひとが、あまり良い経験とは感じなかったと答えている。そうしたなか、辞退率は微増を続けていて、裁判員制度が開始された二〇〇九年に五三パーセントほどだったのが、一〇年後の二〇一九年には六八パーセントにまで増加して、その後も高止まりが続いている。このことも、きみは知っているだろうし、なにより肌感覚でわかっているだろう」

 和樹に聞かれても、黙って聞いていろと言われた井野判事はひたすら神妙にしていた。

「つまり、われわれ裁判官を含む法曹関係者は、この一五年以上、裁判員制度の普及について、何ら有効な手立てが打てなかったことになる。そして、あからさまに辞退したがる裁判員候補者に対して、ぼくは何度も怒りを爆発させそうになった。だから三年前、前職である福岡家庭裁判所所長への内示を受けたときは、これで三年間は裁判員裁判にかかわらないで済むと、大いに安堵したほどさ。今回の人事も、もちろん出世したこともうれしかったが、控訴審である第二審は裁判員裁判ではないわけだから、その点は、引き続き大いに助かっているんだ」

 そう言ったあと、和樹は天井を見あげた。そのまま深呼吸をして目をつむると、三五年も会っていない、二五歳頃の矢島紗帆さんの顔が浮かんだ。

 いつか、紗帆さんについて、諏訪季実子さんに話すことがあるかもしれないと思ってはいたが、まさか日比谷にある喫茶店の個室で部下である左陪席に話すことになるとは思ってもみなかった。しかし、いまさらあとには引けない。

「ぼくはね、一〇歳のときに弁護士だった父親を亡くしている。そんなこともあって、高校一年生の夏休みに弁護士になろうと決めた。そうした経緯は、きみとは違うが、司法修習中にリクルートされるまで裁判官になろうと思ったことが一度もなかった点は、きみと同じだ。自分で言うのは口幅ったいが、人間性を認められたわけで、とてもうれしかったし、誇らしくもあったが、いつかは裁判長として判決を言い渡すのかと想像しただけで、責任の重さに震えたのをよくおぼえている」

 説いて聞かせるというのではなく、独りごとのように和樹は語った。視線も対面の井野判事に固定せず、壁の絵画やテーブルのカップを見るともなく見た。

「その頃、ぼくには結婚の約束をした女性がいた。高校の同級生で、東大文一に現役で合格できたのも、司法試験を一度で突破できたのも、彼女の励ましと支えがあったからだ。だから裁判官への任官を勧められたことも、てっきり喜んでくれると思っていたら、さにあらず、こっちが腰を抜かすほどの猛反対さ。父が刑事事件の弁護を主にしていたし、研修所の教官からの勧めもあって、ぼくは刑事裁判官になるつもりになっていたんだけれど、それだけはやめてほしいってことで、いくら説得しても、まるで聞く耳を持たなかった」

 そこで和樹はまた天井を見あげた。そして、再び深呼吸をして目をつむると、今度は怒りに燃えた紗帆さんの顔が浮かんだ。

「彼女のプライベートは最小限にとどめるが、彼女が小学生のとき、近所で強盗傷害事件があったそうだ。家族ぐるみで仲良くしていた一家が襲われて、奥さんは重傷を負い、彼女と親しかった一つ年上の少女は心に深い傷を負った。それなのに判決は懲役八年とあって、彼女は刑事裁判への不信感を抱いた。出所した男が、今度は自分の家を襲うのではとの不安も高じた。また、大学進学後は満員電車での通学になったが、毎日のように痴漢に遭っていたそうだ。大学のゼミやサークルのコンパなどでも破廉恥な目にたびたび遭っていたが、ぼくにそうしたことを打ち明けたのは、二人の関係が修復不能になってからだった。つまり、彼女としては、裁判官という立場であれ、夫となるひとに、刑事犯罪や刑法犯と密にかかわってほしくなかったわけだ。ぼくだって、裁判官にリクルートされるまでは、大手の法律事務所に勤めて、弁護士としての経験を積むと共に、それなりの給料を得て、高校のときからもらっていた育英会の奨学金をさっさと返すつもりでいたからね。しかし、裁判官になれるとなれば話は別だ。そして、刑事裁判官になろうと思うと、ぼくが誇らしげに告げた瞬間、彼女の顔が歪んだんだ」

 そのときまでの半年ほど、二人は幸せの真っ只中だった。司法修習では、刑務所や拘置所の見学といった実習や、レポートの提出など、課題も多々あったが、週末や祝日はしっかり休めたし、夏休みも冬休みもあり、司法試験に挑んでいた日々に比べれば、心身とも格段に楽だった。

 司法修習の任地は、第一から第三まで希望を記すのだが、神戸を第一希望にすることを勧めたのは紗帆さんで、関西のほうが知り合いにう心配がないからだという。そして二人は神戸、京都、大阪などでデートを重ねた。紗帆さんとしては、晴れて弁護士となった和樹と裕福で温かな家庭を築くことを夢見ていたのだろう。

 裁判官もそれなりに裕福ではあるが、三年ごとに任地が変わるし、官舎住まいを強いられる。なにより刑事裁判官はありとあらゆる刑事事件を担当する。当時も現在も、刑法犯の半数は窃盗で、暴行、傷害、横領・遺失物横領、詐欺と続き、痴漢も多く、夫となるひとの頭のなかが、そうした事件のことでいっぱいになるのが、紗帆さんとしては、どうしても受け入れられなかったわけだ。

 もちろん、和樹は何度となく紗帆さんを説得しようと試みた。そのたびに力説したのは、社会を健全にしてゆくためには受刑者の社会復帰が大切であることと、刑事裁判の重要性だった。

 大学で刑法を学べば必ず教わることだが、人間の自由意志を肯定する古典学派は、人間は犯罪をおこなうことを選ぶことも、選ばないこともできる理性的な存在なのだから、法律に明記されている犯罪をおこなうことを選んだ犯罪者に対しては厳罰をもって臨むべきであると主張して、近代刑法の出発点を形成した。

 一方、自由意志など幻想だとする近代学派が、犯罪は素質と環境によって決定されたものだと主張したのは、一九世紀後半以降の資本主義の発展を踏まえている。景気の変動や人口の都市集中化に伴い、貧困・失業・疫病などの社会問題が発生した結果として犯罪、とくに常習犯が増加した。よって、個別の犯罪者にいくら重罰を加えても犯罪は根絶されないどころか、再犯のリスクを高めることにしかならない。したがって、刑法犯を減らすために必要なのは、社会問題を抜本的に解決してゆくことと、受刑者それぞれに適した教育や職業訓練をほどこすことだと主張した。

 しかしながら、人間は自由意志を持たないとする近代学派の主張は極論であり、現在では古典学派と近代学派の両者を総合した相対的非決定論が一般的になっている。人間はたしかに素質と環境に決定されているが、逆に、これを決定していく自由があるとして、自由な部分に対しては非難をおこない、決定されている部分に対しては改善をおこなってゆくというわけだ。

 浮き沈みは世の常で、何かの弾みで歯車が狂って不遇が続き、法律によって犯罪と定められた行為をしてしまうひとたちは一定数いる。では、どうすれば、かれらを再び犯罪に走らせないようにすることができるのか。現に被害に遭っている者たちを直接救うことにはならないが、刑事裁判官になろうとしている自分は、判事という立場で、少しずつでも社会を良くしてゆきたいと思っている。

 そうした意味のことを、和樹は紗帆さんに繰り返し説いた。手紙にも書いたし、電話でも話した。紗帆さんはまるで耳を貸さなかったが、和樹はほかに説得する方法を思いつかなかった。

 よりが戻りかけたのは、司法修習終了後に東京地裁で新任判事補になっていた和樹が「局付」になったときだ。裁判現場で公判を指揮するのではなく、司法行政部門を担当するセクションで、当時の大蔵省や外務省に出向することもあるエリートコースだ。勤務先は三宅坂の最高裁になると思うと伝えると紗帆さんが喜んだ。

 そして二人は再び逢瀬を重ねるようになったが、局付として省庁の幹部や幹部候補と仕事をするうちに、和樹はやはり自分が働くべき場所は裁判所だと確信した。

「刑事裁判官の妻やこどもだからといって、危険な目に遭うことはまずない。ぼくはきみの夫として、誠心誠意尽くしたいと思う。どうか結婚してほしい」

 しかし、紗帆さんは和樹のプロポーズを拒絶した。

「どうして、わたしが絶対にいやだと言っている道に進もうとするの。どうして、せっかくの出世コースから外れようとするの。局付だって、同じ裁判官なんでしょ。おまけに、より影響力を発揮できるポジションなんじゃない」

 その問いかけに和樹はうまく答えられなかった。叶うなら、前職である東京地裁第二刑事部での小野寺裁判長と右陪席の大隅判事、それに左陪席の和樹の三人でした合議を紗帆さんに見てもらいたかったが、それはそもそも不可能だったし、可能だったとしても、紗帆さんは断っていたにちがいない。

「ぼくは、どうしても裁判現場に戻って、そこで日々自分を鍛えたい。わがままだということはわかっている。でも、ぼくを信じてほしい」

 和樹の懇願に、紗帆さんは首を横に振るだけだった。

 その後、佐賀地裁に判事補として配属された和樹は、痴漢や盗撮といった罪で起訴された事件を担当するたびに、紗帆さんのことを考えた。男性が犯す破廉恥な事件は膨大な数だったから、結局一日として紗帆さんを忘れたことはなかった。

 判事補への任官から一〇年が経ち、紗帆さんのことをようやく忘れかけた頃、突如として持ちあがったのが、司法制度改革審議会による裁判員制度の導入だ。

 当初は、中坊公平会長が率いる日本弁護士連合会(日弁連)の攻勢によって、法曹一元制度、つまり裁判官も検察官も弁護士経験者のなかから登用する制度の導入が目ざされていた。「平成の鬼平」と呼ばれて国民的人気のあった中坊会長は小渕内閣の特別顧問に就任し、日弁連の攻勢はさらに強まった。

 ところが、脳梗塞で倒れた小渕総理の急逝で潮目が変わった。最高裁の地道で執拗な巻き返しもあり、法曹一元制度から後退するかたちで裁判員制度が導入されたのである。最高裁としては、法律の素人である裁判員に評決権を持たせるなどもってのほかと猛反対していたが、そこは折れて、評議において職業裁判官と裁判員が同じ権限を持つことになったのである。

 そうした紆余曲折に固唾を呑みながら、和樹が最も危惧していたのは、紗帆さんが自分の担当する刑事事件の裁判員になったらということだった。万に一つもないことではあるが、可能性がゼロではない以上、シミュレーションをしておいたほうがいい。そうでないと、もしものときにうろたえて、醜態を晒すことになりかねない。

「しかし、それは、どだい無理な話だった。その状況を想定しようとしただけで胸が騒いで、どうにもならないんだ。踏ん切りをつけて、別の女性と結婚していたなら、少しは冷静になれていたのかもしれないが、独り身のままだろ。裁判員法が制定されたのが二〇〇四年で、裁判員裁判が実施されたのは二〇〇九年。その間、彼女のことが、揉めていたときと同じか、それ以上の生々しさでよみがえってね。とても新しい恋をするどころじゃなかった。そして、そのうちに、自分が裁判長として裁判員裁判を取り仕切るようになると、いつも裁判員候補者への質問手続きでへとへとになってしまうんだ。しかし、そんなことを誰かに相談するわけにもいかない。われながら、だらしがないというか、執着心が強すぎるというか……」

 そこで和樹が口をつぐんだのは、テーブルの向かいに座る井野判事が再び目を真っ赤にしていたからだ。

「おい、どうした。ぼくはきみを泣かせるような話はしていないはずだぞ」

 和樹が聞いても、井野判事は首を横に振るだけだった。

「ああ、そうか。きみは、ぼくの言いつけを律儀に守って、そんなことになっているわけか。悪かったね。もう口をきいていいよ」

 和樹が言うと、井野判事が喘ぐように息をした。

 そのあいだに和樹はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干した。腕時計に目をやると午後六時二〇分になるところだった。途中から時間を気にしなくなっていたとはいえ、三〇分以上もひとりで話していたわけだが、疲れは感じていなかった。むしろ清々しいほどで、視線を正面に戻すと、井野判事は湯上りのようにほてった顔をしていた。

「どうした。少しは気持ちが落ち着いたかい?」

 和樹に聞かれた井野判事が顔をくしゃくしゃにした。

「おい、どうした」

「いえ、もう大丈夫です」

「そうか。いや、なんだか、独りよがりの、とりとめのない話になってしまったな」

 和樹が自嘲すると、「そんなことはありません」と井野判事が強い口調で否定した。

「すみませんでした。大きな声をだして」

「かまわないよ。きみに覇気が戻ったなら、なによりさ」

 ホッとした和樹は椅子の背にもたれた。ところが、対する井野判事は背筋を伸ばし、膝に手を置いた姿勢で口を開いた。

「本日は、本当にありがとうございました。山村部総括ほどの方が、私ごときに親身な打ち明け話をしてくださり、思わず涙ぐんでしまいました」

 井野判事が洟をすすった。

「地裁でも、高裁でも、部総括をされている方々は、私ごときが申すまでもなく優秀で、また忙しくされておられます。そして、どなたも頭の回転と気持ちの切り替えの早さが尋常ではありません。正直に言えば、どんな事件に対しても、何のためらいもなく判断しているように思えていたのも事実です」

 束の間、井野判事が目を伏せた。

「山村部総括。本日は、お手数をとらせてしまい、誠に申しわけありませんでした。明日の合議で、しっかり議論したいと思います」

「うん、それならよかった。コロナ禍からこっち、裁判官同士が話す機会はめっきり減ったからね。さあ、奥さんとお子さんのところに帰ってあげなさい。いつか、お目にかかりたいが、今日の話はオフレコで頼むよ」

「はい、わかりました。ただ、正直に言えば、妻に話したくてなりません」

「おい、それはダメだぞ」

 あわてた和樹が思わず前のめりになると、井野判事が相好を崩した。

「わかっております。ご安心ください」

 そう言った井野判事がうれしそうに帰り支度をととのえる姿を眺めながら、和樹はこの場がうまくおさまったのは季実子さんのおかげだと思っていた。季実子さんとの出会いによって、矢島紗帆さんに対する気持ちにおおよその整理がついていたからこそ、井野判事に向けて自分の葛藤を話す気になれたのだ。

 井野判事と別れて、神宮前の官舎に戻った和樹はたっぷりお湯を張った浴槽にゆっくりつかった。

「今日こそ、季実子さんに電話をしよう」

 腰にバスタオルを巻いた格好で呟いたのと、スマホをマナーモードにしたままでいることに気づいたのはほぼ同時だった。

 不吉な予感がしたが、和樹は服を着てからマナーモードを解除した。午後八時半を回ったところで、LINEが一件届いている。ショートメールと電話の着信はなく、和樹は胸をなでおろした。LINEが繋がっているのは母と妹の清美、それに清美の夫・小林亘の三人だけだ。つまり、瑤子さんからの連絡ではない。

 安心した和樹は髪をドライヤーで乾かした。そして、居間の椅子にかけてLINEのアイコンをタップすると、連絡してきたのは清美だった。

《とても残念なお知らせです。諏訪季実子先生から、おかあさんに、このたびのお話は辞退させていただきたいとの連絡がありました。都合のよいときに、私に電話をかけてください。》

 あまりにも意外で、和樹はすぐには事態を飲み込めなかった。鎌倉で初めて会い、意気投合してから九日。そのあいだに季実子さんの気持ちにどんな変化があったのか。もし、それが本当なら、自分はもう立ち直れない。

 しかしながら、ひとは誰であっても事実から目を背けてはならないのだし、ましてや自分は裁判官なのだ。

 不安な気持ちを必死に抑えて、清美の電話番号をスマホに表示させた。

「わかりました」

 

(第7回につづく)