《うれしい。うれしい。うれしい。還暦を迎えた自分に、こんなとびきりの喜び、こんなとびきりの幸せが訪れるとは!》
山村和樹は縦書きのノートに、万年筆で、一字一字に気持ちを込めて書き綴った。
さらに《諏訪季実子》と記し、その氏名を見つめたあとに《さん》と付けたのは、彼女に対する敬意の念による。
昭和の日、四月二九日の午後八時過ぎで、渋谷区神宮前にある官舎の部屋は静かだった。和樹は桃の木が描かれた鍋島焼のカップに手を伸ばし、自分で淹れたばかりのコーヒーを飲んだ。
酒が飲めるなら、心ゆくまで酔いしれたいところだが、悲しいかな、まったくの下戸で、サバランなどのリキュールをつかったケーキや奈良漬けでも顔が赤くなり、眠気におそわれる。
裁判官という職業柄、酒席での失敗をしようがないのを好都合に思ってきたが、今夜ばかりは羽目を外してはしゃぎたい気分だった。
《それにしても、これほど馬の合う、理解のある女性にめぐり合えるとは思っていなかった。まさに天の配剤。いや、季実子さんが言うところの、母の千里眼に素直に感謝しよう。》
太字のブルーブラックインクで書かれた文字はわれながら生き生きしていた。
法曹界と教育界の違いはあるものの、和樹は判事、季実子さんは小中学校の教頭や校長として、重責を担ってきた。独身の単身者で、自分の体力、気力のすべてを職務に捧げてきたのも同じだ。
昭和四〇年、一九六五年生まれ、神奈川県鎌倉市出身というのも同じ。つまり同じ時代の同じ街の空気を吸って育ったわけで、初対面にもかかわらず、二人はすぐに意気投合した。会話もはずみ、食事の途中だったが、次は夏休みに会いましょうと約束して、メールアドレスを交換した。
今回は鎌倉でのランチだったので、次回は都内で美術展か映画、もしくはお芝居を観たあとに夕飯はいかがですかと和樹が提案すると、季実子さんは喜んでくれた。ただし、夏休み中も不測の事態が起きる可能性があるため、日にちを動かせないものは困るという。
「ですから、この数日、どうか、うちの生徒や教職員が絡んだ事件や事故が起きませんようにと祈って床についていたんです。教務主任や教頭のときも、責任をひしひしと感じていたつもりでしたが、六年前に校長になって、組織のトップというのは、こんなにも責任の重さが違うのかと驚きました。しかも、ちっとも慣れないんですね。わたしの度量が狭いせいなんでしょうが」
「それは、本当にお疲れさまです。われわれ判事より、よほど大変ですね」
「いいえ。おかあさまや妹さんから、判事の方々は三年ごとに任地が変わるうえに、裁判を司って判決を言い渡す裁判長の責任は身内でも想像の及ばない重さだとうかがっております」
ローストビーフで有名な鎌倉山の個室でのやりとりを思い返して、和樹は深い満足感にひたった。異性との思いやりに溢れた会話こそ、かれが長年求めてやまないものだったからだ。
裁判官は、「雲のうえのひと」と言われることもあるように、最難関とされる司法試験の合格者のなかでも成績優秀にして人物も適格と見なされたものでないと就くことができない。しかも、判事補として任官し、一〇年間の修養の後、判事に昇進しても、半人前でしかない厳しい世界だ。
アメリカ合衆国でも、裁判官といえば人々の尊敬を集める存在だが、日本と違い、知名度も露出度も高く、〝judge〟と親しみを込めて呼ばれている。連邦最高裁判事に至っては、出身州のスターであり、かつ全米のスターだ。
対する日本では、「できるだけ生涯会いたくないひと」と、さる落語家が高座の枕で語ったように、裁判官は敬して遠ざけられる存在だ。最高裁判所の判事にしても、多少の注目を浴びるのは国民審査においてだけだ。それも、常に衆議院選挙と同時におこなわれるため、さして人々の記憶に留まらない。
現在では、SNSでの発信をおこなっている裁判官も少しはいるが、法曹界の上層部は、裁判官ひとりひとりが国民から信頼と親しみを寄せられるようになることよりも、優秀にして威厳のある職能集団であり続けることを願っているのだろう。
和樹自身、「鬼の山村」と後輩の判事たちから恐れられているとの噂を耳にしたことがあった。万事に抜かりがないが、法服を着ると拍車がかかり、あまりの気迫に圧されて、検察官も弁護人も、他の裁判長のときよりもよほど慎重かつ丁寧にふるまっているという。
その噂の真偽はともかく、裁判官=近寄りがたいひとというイメージは、良くも悪くも社会に浸透していると思われる。
ところが、テーブルの向かいに坐る季実子さんからは、警戒心など微塵も感じられなかった。すらりと背が高く、いかにもこどもたちが安心しそうな、やさしい顔をしている。丈の長い、着心地のよさそうな服もよく似合っている。
お酒はいける口だそうで、酔っぱらって正体をなくしたことは一度もないという。じっさい、最初にビールを飲んだあと、白ワインをおいしそうに飲む姿を見ているうちに、下戸の和樹までほろ酔い気分になったほどだ。
「あの、おかあさまには、わたしが自分だけこんなに飲んだことは内緒にしておいてくださいね。あ~、でも、絶対に見抜かれているんだろうな。山村泉子先生の千里眼と言って、問題のありそうな生徒や保護者、それに教職員へのフォローが、それはもう見事なんです。なので、わたし、今日は本当になんの心配もせずにまいりました」
季実子さんによると、母は一五年前にも二人を引き合わせようともくろんだそうだ。ところが、そのころ、季実子さんの両親が相次いで病に倒れたため、話を向けるのを諦めたという。
「一五年前だと、四五歳だから、ぼくが東京地方裁判所の部総括判事になったときですね。十数年ぶりに首都圏の勤務になったんで、『よし、いまだ』と母は思ったんでしょう」
そう言った和樹は、「部総括判事は裁判所の役職で、裁判長と同じだと思ってください」と付け足した。
「だいじょうぶです。おかあさまから教えられて、こちらの本で勉強してきましたから」
大きめのハンドバッグから取りだされたのは、岩波新書『裁判の非情と人情』だった。著者の原田國男氏は和樹と同じ刑事裁判官の大先輩で、二〇一〇年に六五歳で定年退官したあとは弁護士をされている。読みやすい文章で書かれた二〇〇頁ほどの本だが、内容は濃く、深い。二〇一七年の日本エッセイスト・クラブ賞を受賞していて、和樹も折にふれて読み返してきた。母にもすすめた憶えがある。
「著者の器量の大きさがうかがわれる、ウィットに富んだ本で、とても楽しく拝読しました。また、これまで知らなかった裁判官の方々の忙しさとご苦労がよくわかりました。しかも、和樹さんの場合、これから先が、ますます大変になっていくわけですよね」
「恥ずかしながら、そのとおりです」
じっさい、ひと月ほど前の春分の日の会食で、母から見合いをすすめられたとき、和樹は内心で期待しつつも、そんな余裕はないと思ってもいた。
四月一日付けで就任した東京高等裁判所の部総括判事はまさに重職だ。待遇は各省庁の局長級と同等。給与も判事一号俸となり、年収は二五〇〇万円前後。なにより、最高裁判所判事も狙える王道の出世コースとあって、一月半ばに内示を受けたとき、和樹は思わず武者震いした。
前職は福岡家庭裁判所の所長だった。引き継ぎや引っ越しにも手間をとられていたため、正直に言えば、恒例の春分の日の会食はパスしたかった。しかしながら、母にとっては夫の五〇回忌にして、息子の還暦祝いとあって、中止も延期も承知するはずがない。しかも豪勢にやりたがりそうだと警戒していると、案の定、ホテルニューグランドのレストラン、ル・ノルマンディでディナーをしたいと言いだし、しかも母と妹だけでなく、妹の夫とこどもたちも来るという。コロナ禍があったため、六人が顔を揃えるのは五年ぶりとあって、和樹は観念した。
毎年の春分の日に、レストランや料亭のテーブルに父の遺影を置き、陰膳も供えるのは、父の命日が三月二〇日だからだ。心筋梗塞により三七歳で急逝した父・康樹の年齢をとうに超えても、写真の父が自分より歳下に思えないのは、不思議なようでもあり、当然のようでもあった。
奇しくも前日の三月一九日は和樹の誕生日で、生と死が切り離せないことを、いやでも思い知らされる。還暦を迎えた今年はその思いがとくに強く、出世を遂げたこともあって、三月に入ってから、和樹はもの思いに沈むことが多かった。
そうした次第で、家族との会食は少々気が重かったが、五階の大きな窓から見渡す夕暮れの横浜港は雄大で、和樹は気持ちがやわらいだ。
三つ違いの妹・清美は生まれ育った鎌倉市でケアマネージャーをしている。県立七里ヶ浜高校の同級生である夫・小林亘とのあいだに娘と息子がいて、和樹は姪と甥を幼いころからかわいがってきた。
諸々の相談にも乗ってきたつもりだが、二人ともお相手がいるというのは初耳だった。二八歳の悦美は来年の春に式をあげる予定。二六歳の琳太郎は二、三年先だという。
「そういうことなら、遠慮なく一緒にくればよかったのに。ともかく、おめでとう。清美も、亘さんも、おめでとうございます」
心からの祝福を述べながらも、和樹は一度も結婚したことのない自分を省みざるを得なかった。
それでも、年長者らしく平静を保ち、姪と甥にワインをすすめては、それぞれのお相手のことや近況を聞いていると、コース料理のラストを飾るデザートの皿が並べられたところで、母が見合いをしなさいと言いだしたのだ。
「諏訪季実子さんは、あなたと同じ生まれ歳。横浜国立大学の教育学部を卒業していて、わたしが大船中学校に勤めていたときに、国語科の新卒教員として赴任された方です。悦美も担任をしてもらっていて、現在は、諏訪さんの母校でもある鎌倉中学校の校長をされています。いくら忙しいといっても、ゴールデンウィークは一日くらい空けられるんでしょ」
御年八六歳の母・泉子は裕福な生まれ育ちだが、夫を亡くしたあとも実家に頼らず、中学校の英語科教諭となって一家を支えた。母が愚痴を言わないので、こどもたちも弱音を漏らさずに頑張るしかなかった。
わが子にも生徒にも必要以上に干渉しないタイプで、裁判官となった息子が独身を続けていることについても、母は一度も苦言を呈したことがなかった。それだけに、満を持してといった迫力があり、和樹は黙って頷くしかなかった。
詳しいプロフィールは、このあと清美と悦美に聞いてほしい。写真も数枚あるとのことだったが、諏訪季実子さんに関するそれ以上の説明を断ったのは、和樹が専門とする刑事裁判における起訴状一本主義による。
裁判=公判を司り、判決を言い渡すのは裁判官だが、事件に対する裁判官の心証は、法廷で採用された証拠と証言、それに法廷における検察官と弁護人の攻撃と防御のみに基づく。よって、裁判官が予断を抱かないように、起訴状には本当に最低限の情報しか記載されていない。
A4版の用紙一枚が普通であり、被告人の氏名、本籍、住居、職業、年齢、公訴事実は記されているが、性別は記載されていない。写真も添付されていない。字面から男女の別がわからない名前が年々増えているため、第一回公判期日冒頭の人定質問で被告人席に立つ被告人を見て初めて性別を知るというのは、裁判官あるあるだ。
そうした説明を手際よくしたあとに、和樹は母と目を合わせて言った。
「おかあさんの元同僚にして、悦美の担任でもあった諏訪季実子さんを被告人扱いするつもりは毛頭ありませんが、せっかくですから、予断を交えずにお会いしたいという意味で、お写真も含めて、これ以上の情報は要りません」
「ふふふ」と笑ったのは清美の夫・小林亘だ。母と妹、姪と甥は、呆れた顔を見合わせている。
「裁判官として出世を遂げられただけあって、お義兄さんは、見事なまでに首尾一貫されていますね。貫禄とユーモアが上手い具合に混ざり合って、高座のとりをつとめる真打や、看板役者のような風格が出てきましたよ」
臆せずに話す小林の職業は音楽プロデューサーだ。若いころは、長髪を靡かせてギターをかき鳴らすシンガーソングライターだった。プロデューサー業に転身してからは、整えた髪で地味なスーツを着ているが、ただよう気迫は、いわゆるサラリーマンのものではない。
「男ぶりもあがっていますから、諏訪先生を泣かせることがないように、どうぞ、これまで以上に身辺に気をつけてください」
「ちょっと、おかあさんやこどもたちもいるのに、変なことを言わないでよ」
妻に注意されても、小林は平気な顔をしている。
和樹も悪気は感じなかったので、「ご忠告に感謝するよ。たしかに好事魔多しというからね」と受け流した。
そこで席を立ち、六人分の会計を済ませた和樹はトイレに入った。
全員分の食事代を持つようになったのは、裁判官に任官して一〇年目、三五歳で判事に昇進してからだ。判事八号俸となり、年収は一千万円前後。扶養者がいないため、税金はそれ以前からたっぷり取られていたが、官舎住まいで酒は飲まず、これといった趣味もないので、懐はそれなりに温かかった。
春分の日に合わせて和樹が上京するほうが多かったが、和樹の任地が変わると、母が旅行がてらやってくることもあった。早春の神戸、佐賀、松江、松山、福岡、名古屋のレストランや料亭で、二人で父を弔ったのもいい思い出だ。
その後は清美を介して日時が設定されて、今日の鎌倉山でのランチと相成ったのである。
季実子さんとの会話はとても楽しかったし、ローストビーフがメインの料理もおいしかったが、和樹の脳裏を度々よぎったのは、母や妹はどこまで話しているのかということだった。
育ったのは大船の公団住宅で、中学と高校はサッカー部。ポジションはミッドフィールダーだったこと。法律家を志したのは亡父の影響によることは季実子さんも知っていたが、問題なのは、八年間も交際し、結婚目前だった恋人・矢島紗帆さんに去られた件が、どんなふうに伝わっているのかだ。
還暦を迎えた男性の、三〇年以上も前の恋人を気にする女性などいないと、誰もが笑うだろう。まったくそのとおりだが、それきり女性と交際せずにきたこともあって、ショックはいまだに生々しかった。
紗帆さんに去られたことによる心の空洞は、そのときの形と大きさのままであり、毎夜とは言わないまでも、週に一度は思いだしてしまうのは、彼女が別れを告げた理由が、当初は弁護士を目ざしていた和樹が裁判官、それも刑事裁判を専門にする刑事裁判官になることにしたからだった。
つまり、自分の生き方が拒絶されたわけで、彼女に対する憤りと、彼女の信頼をかち得られなかった不甲斐なさが、「鬼の山村」とも称される刑事裁判官・山村和樹の原動力になっていると言っても過言ではなかった。
しかしながら、季実子さんと気のおけない会話を重ねるうちに、和樹は三〇年以上も続いていた胸のつかえが取れていることに気づいた。また、同期のなかで、常に出世のトップを切ってきたことによるストレスと孤独感からも解放されて、神宮前の官舎に戻ったあとも喜びは続いていた。
《還暦は第二の人生の始まりと言われている。これまで、年齢による区切りなど意に介さずに生きてきたが、母を含む先人たちの知恵に深く頭を垂れよう。》
和樹は万年筆にキャップをはめて、コーヒーを飲んだ。鍋島焼のカップはとっておきで、人間国宝の手になる逸品だ。
初めての地方勤務となった佐賀の骨董店で目に留まったのだが、ペアでないと売らないとのことで、桃と橘が描かれた彩色のカップを交互に使ってきた。季実子さんを招いたときは、二つのカップを並べて、一緒にコーヒーを飲みたい。
居間のテーブルで、和樹は幸福感にひたった。壁の本棚には、諸先輩から献呈された書籍や、仕事部屋の本棚にしまいきれなかった法律書が並んでいる。明日水曜日は非開廷日でもあり、今夜は仕事をするつもりはなかった。
季実子さんからもたしかめられたが、原田國男氏も著書でふれているとおり、裁判官は週三日の開廷日以外は出勤する必要がない。もちろん、非開廷日に出勤してもかまわないが、その場合は裁判所の裁判官室にある自分の席で、出勤しない場合は官舎や自宅で、事件記録を読み、判決書の作成に当たる。
どこで机に向かうとしても、膨大な量の文書を集中して読み込み、同種の事件の判例や量刑も調べるため、費やす時間と労力は並大抵でない。しかし、そうした濃密な過程を経なければ、被告人や被害者、またかれらに関係する人々の人生を大きく左右する判決を、責任をもって言い渡すことはできない。
非開廷日に官舎や自宅で仕事をすることを「宅調」という。和樹より年配の裁判官たちのなかには、庁舎の設備が整っていなかった時代のなごりで、好んで宅調をする者たちもいた。しかしながら、近年は家庭と仕事を峻別する傾向が強くなり、とくに若手の裁判官はほとんど宅調をしない。土日や祝日といった閉庁日にも裁判所に出て、たまった仕事を片づけている。
そうしたなか、独身の単身者ということもあり、和樹は絶滅危惧種とも言える宅調派だった。宅調のほうが、ほかの裁判官や職員の目を気にせず働けるからで、大部の事件記録を隅々まで読み込み、詳細な手控えをつくっているうちに夜が明けたことは数えきれなかった。
文書類を汚さないために、宅調のときも、仕事机では飲み食いをしない。BGMにラジオをかけたり、CDの音楽を流すこともない。
仕事を終えると、たっぷり湯をはった浴槽に一五分はつかって気持ちを静める。政治家の汚職や、凶悪な殺人など、世間の耳目を集める事件を担当しているときは三〇分以上つかることもあった。
入浴のあとは、その日の気分でコーヒーやお茶をいれて、居間のテーブルで備忘録を書く。司法試験に合格し、司法修習生となった二四歳の四月一日から一日も欠かさず、その日の出来事と、面会したひとの氏名と経歴、合議での上司の指導、記録を読むうちに気づいたことなどを、横書きのノートに、細字のブラックインクで記してきた。
一年度に一冊、合わせて三六冊の備忘録に、自分の気持ちのゆれ動きを書いたことは一度もない。日々の仕事は猛烈に忙しかったし、あせり、怒り、悔恨、それに諸々の欲望を抑えられないようでは、裁判官として、ひとのおこないを裁く資格はないからだ。
それに裁判官は、自分がかかわった公判について、公に語らないのが不文律とされている。意見は、合議や評議において余さず述べて、判決文にすべてを込める。
六〇歳までの日々は、ひとりの法律家として、まさに全身全霊でかけ抜けてきた。そのことに微塵の後悔もないが、鎌倉からの帰り道、和樹はふと思いついて文具店に立ち寄り、縦書きのノートを買った。季実子さんとの出会いによる感動を書き記して、第二の人生の始まりにしようと思ったのだ。
一二月五日が誕生日の季実子さんは、来年の三月末で役職定年を迎える。従来は六〇歳だった教員の定年年齢が順次延長されることになったため、一九六五年生まれの季実子さんは六三歳の三月末日で定年退職となるが、校長を退いたあとのことはまだ考えていないそうだ。
《叶うなら、来年の四月から、季実子さんと一緒に暮らしたい。この官舎が気づまりだというなら、都心に部屋を借りてもいい。とにかく、自分ひとりでの暮らしは、もう終わりにしたい。》
再び万年筆を握り、和樹は書いた。
これまでも独り暮らしのさみしさをおぼえたことはあったが、その思いがさらに強くなったのは、三月半ばに東京に来てからだ。
一二年ぶりとはいえ、以前と同じ渋谷区神宮前の官舎で、食事についても困ることはないはずと、和樹はとくに気にしていなかった。ところが、コロナ禍を経て東京の飲食店は大きく変貌しており、馴染みにしていた食事処や、隠れ家的なレストランがことごとく閉店していたのは大きな誤算だった。
多忙な単身者である和樹は一年三六五日、ほぼすべての夕飯を外食で済ませてきた。任地が変わるたびに、その土地での行きつけの店を見つけるのが楽しみで、そのさい大きな力となってくれたのが妹の夫・小林亘だ。
シンガーソングライターだった時代から、日本全国津々浦々をまわっているため、地元出身の書記官や事務官も知らない名店や、居心地の良い喫茶店を教えてくれて、どれほど助かったかわからなかった。ただし、東京だけは自分の縄張りのつもりでいたが、久しぶりに食べにいってみようと思っていた店が軒並み潰れてしまったと知ったとき、大げさでなく、和樹は途方に暮れた。
お弁当は、デパートの地下にある食品売り場などで星の数ほどの種類を売っている。最近は塩分もカロリーも控えめで、健康維持の面ではありがたいが、ひとりで食べていると、どうしてもさみしさがつのる。
《愛するひとと食卓を囲みたい。愛するひとが迎えてくれる家に帰りたい。》
季実子さんの姿を思い浮かべながら、和樹は書いた。
《しかし、あせりは禁物だ。これまでずっとひとりで生きてきて、還暦を迎えた二人なのだ。ましてや、彼女は校長としての最後の年度なのだ。こちらに気兼ねすることなく、生徒や同僚たちのために、精一杯働いてほしい。それにしても、心をゆるせる、思いを寄せ合える異性がいることのなんと嬉しいことか。》
そう書くと、和樹の胸はあたたかくなった。ただし、そのあたたかさは胸のあたりでとどまっていた。全身がやみくもにほてった若き日の恋とは、まるでようすがちがう。
還暦男子の血のめぐりの悪さを嘆きつつ、和樹は閉じたノートを持って仕事部屋に行った。広い机の奥には、ル・ノルマンディでも飾った父の遺影があり、バストショットのカラー写真に向けて和樹は目礼した。目を移せば、机の左側には、ゴールデンウィーク中に読むつもりの書類が山積みにされている。
東京高等裁判所を始め、全国に八つある高等裁判所は、第一審で判決が確定しなかった事件の第二審をとりおこなう。第一審である地方裁判所より、ひとりの裁判官に割り振られる件数こそやや少ないものの、高等裁判所で扱う事件は一件一件が質・量ともに重い。前任者から引き継いだ事件も多数あるため、ゴールデンウィーク中は集中して仕事をするつもりだった。
ただし四日後、五月三日土曜日の午後は、昨年九月に七〇歳で最高裁判所判事を定年退官された大隅豊彦氏のご自宅を訪問することになっていた。刑事裁判官の先輩であるだけでなく、和樹にとってはかけがえのない恩人だ。
裁判官は、六五歳の誕生日の前日に定年退官する規則だが、それを待たず、切りのいい年度末に依願退官される方も多い。最高裁判所判事だけは定年が七〇歳で、大隅判事は依願退官をされずに、昨年九月一五日をもって定年退官された。その後は弁護士となり、都内の法律事務所に所属しておられる。
初めてお目にかかったのは、判事補だった和樹が東京地方裁判所の第二刑事部に配属されたときだ。部総括である小野寺幸成判事も最高裁判所判事になられた刑事訴訟法の大家だが、指導は厳しく、和樹は判決書の起案を何度書き直させられたかわからなかった。
そのたびに右陪席の大隅判事になぐさめられて、いつしか、「和樹」「豊さん」と呼び合う仲になった。
同じ官舎のお住まいで、奥さまの手料理を毎週のようにごちそうになった。料理のおいしさもさることながら、なごやかな食卓で、こうしたご家庭があるからこそ、大隅さんはパワフルにして温厚なのだと納得したものだった。ひとり娘の瑤子さんは聡明で、ご両親の愛情をいっぱいに受けていることがよくわかった。
その後も、和樹は任地が変わるたびに真っ先に大隅さんに報告した。ついでのように始まった電話での法律談義が数時間に及んだこともある。
残念だったのは、奥さまの雅代さんが七年前に他界されたことだ。当時、大隅さんは最高裁判所司法研修所の事務局長をされていて、和樹は任地の名古屋から葬儀にかけつけた。
大隅さんは見るからに落胆されており、美しく成長された瑤子さんに支えられていた。ただし、瑤子さんの表情にも陰があり、精進落としの席で聞こえてきた話では、大手商社の社員である男性との結婚がうまくいかなかったという。
その後、大隅さんは最高裁判所判事となり、重責を全うされた。四日後の訪問は、今年の一月下旬に今回の内示があったことを電話で伝えたときに誘われたものだ。
東京高等裁判所の部総括判事は大隅さんも経ているポストであり、自分のことのように喜んでくださった。
「ところで、和樹は、まだ独り身のままなのかい?」
会話がひと息ついたところで、一〇歳上の前最高裁判事が意外な質問を向けてきた。母と同じく、大隅さんも、和樹が独身であることに苦言を呈したことはなかったからだ。
「そのとおりです。甲斐性がないもので、申しわけありません」
和樹は型どおりに恥じ入った。
「うん。まあ、ひとの一生はそれぞれだからね」
大隅さんのほがらかな声が耳に残っていたが、ひょっとすると、あの問いには、隠された意図があったのではないだろうか。
七年前の葬儀での、凛としたなかにも憐みを感じさせる瑤子さんの姿が脳裏に浮かび、和樹は急に心配になった。定かではないが、そろそろ四〇歳になるのではないだろうか。
「諏訪先生を泣かせることがないように、どうぞ、これまで以上に身辺に気をつけてください」
春分の日に、義弟の小林亘が発した忠告まで思いだされたが、和樹は首を振った。いくらバツイチとはいえ、大隅さんが、最愛の娘を、二〇も歳上の男にくださるわけがない。
しかし、それもないことではないと思われたのは、裁判官が同業者の娘と結婚する例は少なくないからだ。高学歴にして高収入、地位も安定しているとはいえ、三年ごとに任地が変わり、重責を担い続ける裁判官と連れ添うのは容易なことではない。
また、最高裁判所長官を頂点とする裁判官たちによって形づくられる世界は、余人には近寄りがたく感じられるのだろう。
もっとも、大隅さんの奥さまは、博多の中洲に出ておられた方だった。しかも、いくつもの障害を乗り越えての大恋愛だったとうかがっている。
そうしたことを思いだしつつ仕事部屋の電気を消したのと、居間のテーブルに置いてきたスマートフォンが鳴りだしたのは、ほぼ同時だった。