そうして、今に至る。

「どうなるんですかね、これから」

 私は顎先の雫を手で払いながら、手塚を横目で見た。

「さあな。裁判官の判断次第だろ。六法全書には、こう書いてある。よっておまえは有罪! てな具合にさ」

 手塚は虚空を指さして乾いた笑いを漏らした。それから続けて、「ま、いずれにしても、捕まりはするだろうな」と、至極当然のように言った。「身元、バレバレだし」

 たしかに手塚の言う通りだ。個人情報は元締めに握られている。元締めが捕まれば、下っ端の私たちが芋づる式に捕まるのは時間の問題だ。

「闇バイトって、ガキ向けのもんかと思ってたけど、大人向けもちゃんとあるんだなぁ」

 手塚は車止めに腰を下ろしたまま、渋谷の夜空をぼんやりと睨む。その言葉には、投げやりな諦めとほんの少しの感慨が混ざっていた。

 私はポケットからスマートフォンを取り出し、汗ばんだ指先で画面をなぞった。

 逃げている最中に、何をやっているんだ──自分でもそう思う。けれど、せめていつもと変わらない画面を見て、現実を手元に引き寄せたかったのだ。

 指の動くまま、イラスト投稿サイトを開いた。今朝、久しぶりに掲載した絵に「お気に入り」がついていた。ただの通知。いつもなら気にも留めないのだが……。

 ──もしこれが、どこかの業界関係者だったら。

 そんなはずはないのに、最悪な状況だからこそ、かすかな希望が胸の奥から泡立ってくる。あと少し、あと少し早ければ、私の人生も違ったのかもしれない。

 希望を抱きながら画面をタップし、アカウント名を確認する。

 アカウント名は英数字の羅列──WAOSTURMMEQR。投稿数はゼロ。明らかなスパムアカウントだった。

 肩から力が抜ける。この期に及んで何を期待していたんだろう。

「なあ」

 声をかけられ、慌てて画面を切り替えた。捕まりそうなこの状況で、自分が絵を描いていると知られるのはなぜか嫌だった。この期に及んで、そんな自尊心が残っている自分がひどく情けない。

「不思議だよな、なんでこんなことになったのか」

「はい」

 私は、なんとなく頷いた。

 手塚は背後にあるコンビニの方を見ていた。

「ガキの頃はさ、もうちょいなんか、カッコイイ大人になってるんだと思ってたよ。まさか、こんなちんけな小悪党になるとはな」

「……はい」

「なあ、おまえ、こういうのって、ミステリーっぽくね?」

「……はい?」

 思わず声が裏返る。

 手塚は、背後のコンビニを見つめながら続けた。

「別に小説じゃなくてもいいんだ。映画にしても、ドラマにしても、漫画にしてもさ。悪者には、絶対にそうなった背景があるだろ? いじめられてたとか、貧乏だったとか。だから、俺たちにもあるはずなんだよ」

 手塚が視線を向けた先を追う。コンビニのガラス面に、流行りのミステリー映画のポスターが貼られていた。安楽椅子探偵が、わずかな手がかりから犯人の動機や手口を明かす、定番のやつだ。

 ふっと笑いが漏れた。手塚も意外と単純なやつらしい。

「ただ捕まるのを待つのは、つまらねえだろ? つまり、捕まる前に推理してみないか。俺たちがなんで、こんなくそったれな人生を送るようになっちまったのかって」

「それは、だって……自分たちのせいで……」

「そうだ。俺たちのせいだ」

 手塚は身を乗り出した。目には、妙な熱がこもっている。

「でも、俺たちがこうならざるを得なかった理由があるはずだ。俺は別に、誰かのせいにしたいわけじゃない──いや、できるならしたいけど、言いたいのはそういうことじゃない。けどさ、たぶん、俺たちの人生は、捕まって、一度ここで終わる。そうだろ?」

「ええ、まあ」

「で、終わらせた犯人は、俺たちなんだ。だから、答え合わせをしないか。俺たちはなぜ犯人になって、俺たちの人生を終わらせてしまったのか」

「しまったのかって、そんなの……」

「俺は本気だ」

 彼の真剣な眼差しを受けて、どうしてだろう、私の脳裏に懐かしい光景がよぎった。それは泡立つ白い波であり、木の葉を照らす透明な陽射しであり、ひとつの季節を並んで歩いた友のことだった。

「なんかねえのか、自分が間違っちまったって瞬間」

 問われ、私はひとつ、息を吸った。湿った空気が舌を撫でた。

 その瞬間、強い陽射しを浴び、首筋に流れる汗を感じた。扇風機を抱えて膨らませたTシャツの大きさや、冷房の効いた部屋で食べるスイカの甘み。食べ飽きたそうめんのくすんだ白と、煮出したばかりの麦茶の渋さ。起きた時、必ずはだけているタオルケット。さよならも告げずに別れてしまった、友の表情。そのすべてが私の横を通り抜け、都会の闇に呑まれていった。

 そうだ。私は、あの夏、たしかにひとつ、選択を間違えた。

「あります。間違えたって思った瞬間」

 私は、絞り出すように言った。

「お、いいね。聞かせてみろよ」

「実は、小学生の頃、解けないはずの謎を解いてしまったことがあって」

「……は?」

「それは、暗号でした。アルファベットの羅列で作られたものです。当時、ローマ字読みすらおぼつかなかった私が、その暗号を──何百文字にもわたる暗号をひと夏の間に解いてしまったんです」

「……んだよ、それ。小学生の頃の話だろ? なんでそんなんできたんだよ」

「いや、その……話すと長くなるんですけど」

 言葉を探していると、手塚がふっと息を吐いた。

「いいよ。話せよ。どうせ捕まるにしても、もう少しかかるだろうし」

「でも、話すのあまり得意じゃなくて……周りからもそう言われてて……」

「ったく。別に上手く話せなくてもいいだろ。つうか俺、こう見えて聞き上手なんだぜ?」

 手塚は車止めから腰を上げると、私の肩を軽く叩いた。「でも、聞くのは逃げながらだ」

 私も続いて立ち上がった。デリバリーのバッグを背負った自転車が私たちの側をすり抜ける。続いて、電動キックボードの軽快な音が響いた。少し先に、流行りの音楽に合わせて踊る若者たちがいた。腰ほどの高さの塀に、スマートフォンが置かれている。SNSを通じて配信でもしているのだろうか。

 あの頃に比べ、世界はずいぶんと狭くなったなと思う。技術の発展が距離を曖昧にしたのだ。だというのに、どこか遠い。目の前の景色が、薄っぺらいガラスの向こうにある気がしてやまない。私は、そこから弾き出されたまま、立ち尽くす一本の錆びたネジ。そんな漠然とした不安がつきまとう。

 一歩進み、振り返った。そこにはあるはずのない、白熱灯の温かな光が見えた気がした。ブラウン管テレビの静かなざわめきが耳を叩き、蚊取り線香の匂いが鼻の奥をくすぐった。

 LEDも、スマートフォンもなかった。SNSがない代わりに、好きなものは自分の声で伝えていた。親が野球中継を見ている横で、私たちは家の電話越しに繋がっていた。

 足の裏は、あの時代に張り付いたまま、剥がれない。

 ガラスの向こうの世界は、止まることなく進んでいく。

 私は振り返ったまま、目を凝らした。

 多くのことを間違えたまま駆け抜けた時代を、見つめるように。

 

「部屋には葦が生えている」は全5回で連日公開予定