一九九八年 八月 第一週
八月一日 土曜日
しゃんと伸びた父の背中を見上げながら、周囲を見回した。アブラゼミの声がじわじわと響き、道の先では陽炎がゆらゆらと揺れている。透明な陽射しは容赦なく肌を焼き、立っているだけで体が溶けてしまいそうだった。
「それじゃあ、文子ねえさん、頼みます」
「はいはい、任されました」
こめかみから流れた汗が頬を伝い、顎先で雫を作った。
「一ヶ月、よろしくね、ぼくちゃん」
伯母の明るい声に、私は無言で頷いた。雫が落ちた。汗をかいた分だけ、顔が少し小さくなったような気がした。体の輪郭が溶けて、少しずつ薄れていくような感覚。このまま紙みたいに薄くなって、風に乗って家まで運ばれたのなら──そんなことを考えていた。
「こら、返事くらいしなさい」
渋々頭を下げ、「よろしくお願いします」と口にする。かすれた声が、自分の耳にも頼りなく響いた。情けなかった。喉が、からからに渇いていた。
一九九八年の八月。私は親元を離れ、伯母の家でひと夏を過ごすことになっていた。望んだことではない。周りに言われるがまま、生家のある東京ではなく、神奈川県の南、海沿いの町まで連れてこられていた。
胸の内では不満ばかりが膨らんでいた。自分の意思でここに来たわけでもないのに、勝手に連れてこられただけなのに、なぜこちらからお願いしなくてはならないのか。もちろん、言葉にはしない。
父は私の様子に満足そうに頷くと、伯母と二、三言葉を交わしてから、さっさと車に乗り込んだ。白いセダンのドアが、バタンと音を立ててしまる。
「男の子なんだから、しっかりやれよ」
エンジンを吹かしながら、父はそう言った。車が動き出し、角を曲がって姿を消すまで、私はただ黙って立ち尽くしていた。車が吐き出す排気ガスが、ゆるやかに空に溶けていくのを見つめながら、手を振ることも、声をかけることもなく、ただじっと立っていた。
「ねえ」
声に振り返ると、伯母が微笑んでいる。
「スイカ、冷やしてあるよ」
その笑みに、どうしてだろう、私は咄嗟に目をそらした。
伯母の家は、私が暮らしていた板橋の家よりずっと大きかった。木造の二階建てで、広い庭と離れがある。庭には大きな物干し台が据えられ、真っ白なシーツが風に揺れている。離れはこぢんまりとして、どこか寂しげな雰囲気を漂わせていた。外棚にはオレンジ色のプラスチック製バットと茶色いグローブが置かれていたが、どちらも色あせている。離れの庇の下には、大きな女郎蜘蛛が巣を張っていた。景色全体が色あせた中で、黒と黄色に彩られたその体だけが妙に鮮やかに目に飛び込んできた。
「ほら、そんなとこ突っ立ってないで。あがってあがって。二階に部屋用意してあるから」
上がり框に足をかけた伯母が手招きする。私は軽く顎を引いて頷くと、三和土に足を踏み入れた。家の中に入ると、すぐ左手に階段が見えた。その階段は昼間だというのに薄暗く、一段上がるたびにぎぃぎぃと音を立てる。私は心の中で「おばけ階段」と名付け、どんなおばけが潜んでいるのか想像してみた。手足が長くて、口の大きな奴だろう──その瞬間、少し後悔した。
嫌なことを考えて勝手に怖がる。昔からの悪い癖だ。
「部屋はここ。好きにつかってね」
二階に上がってすぐ左手にある六畳間が、私の部屋になった。部屋の正面半分は窓で、もう半分には壁沿いに勉強机が置かれている。左にはベッドが、右の壁際には本棚があった。本棚には少年漫画のコミックスがぎっしり詰まっている。その隙間には作りかけのプラモデルや野球の教本、ゲームソフトが乱雑に押し込まれていた。
それだけ見れば、どこにでもある、誰かの暮らした痕跡だ。だが、埃ひとつない棚や机が気にかかる。まるで、つい昨日まで誰かがいたかのように、あるいは長い間、誰も触れていないかのように、奇妙な静けさが支配していた。時間が止まったままの部屋。空気さえも動きを忘れているようだった。
「クーラーはないけど、夜は窓開けたら十分涼しいから。それでも暑かったら扇風機つけてね。でも、必ずタイマーかけること。つけっぱなしで寝ると体に悪いから」
伯母は一息で言いきると「じゃ、準備が済んだら、下りてきて」と、あわただしく階段を下りていった。
取り残された私は、静かに荷物をおろした。背中に張り付くシャツがじっとりと湿っている。壁に立てかけられた姿見に目をやると、リュックサックの形をした汗染みがくっきりと浮かんでいるのに気づいた。
窓の外を見た。日が強く照っていた。
居間に下りると、私は座布団に腰をおろした。まだ綿がふんわりとしていて、体が宙に浮いているような感覚がする。畳から立ち上る青臭い香りに混じり、縁側から差し込む陽光が部屋中に反射している。風鈴の揺れる音が耳をくすぐった瞬間、不意にくしゃみが出そうになった。この家には、板橋の家では感じられない何かが漂っている気がした。その何かが何なのかはわからなかった。
私は自宅から持ってきたゲームボーイを取り出すと、カセットをスロットから抜き、ふーっと息を吹きかけた。埃などついていないことはわかっている。それでも、その動作を繰り返す。ちらりと伯母を見ると、一定のリズムでスイカを切っていた。こちらに視線を向ける様子はない。
もう一度、カセットに息を吹きかける。何度も何度も、カセットに向かって息を吹く。そのたびに沈黙が深まる気がして、私は観念した。
「……あの、お茶」
目を伏せたまま、渇いた喉を震わせる。「飲んでもいいですか?」
「いいわよー、がぶがぶ飲んじゃって」
伯母の明るい声が、居間に響く。私は卓袱台に置かれた空のグラスをひとつ取り、茶渋の残るピッチャーに手を伸ばすと、麦茶を八分目まで注ぎ、一気に飲み干した。
飲み終えたグラスを手にしながら、私はまた伯母の手元を盗み見た。
なにか話した方がいいのだろうか。
しかし、どう声をかければいいのかわからない。
伯母の方から話しかけてくれたら、どれほど楽だろう。
私はまたゲームボーイのカセットを取り出し、ふーっと息を吹きかけた。
思えば、話しかけられたところで、うまく返せる自信もない。家では母に「お喋り坊や」と呼ばれているのに、伯母と会話が続いている絵図を描けない。話しかけてきてほしいけれど、話しかけてほしくない。そんな矛盾する感情が汗とともにじわじわと染みだし、気味が悪い。
そうだ。こういう考えはどうだろう。
もしかしたら伯母も、私を無理に預かっているだけなのかもしれない。きっと子どもが苦手で、しかし父の頼みを断れず、嫌々受け入れたのだ。だとすれば、この沈黙の責任は、私にばかりあるのではない。居心地が悪いのは、私だけのせいではない。
うん。悪くない考えだ。
そのとき、不意に部屋の隅にある仏壇が目に入った。仏壇には、小盛りのごはん、缶のジュース、そして子どもの写真が一枚立てかけられていた。私にはそれがなにかわからなかった。少しだけ、身を乗り出した。
「本当は伯父さんもいるはずだったんだけどね」
伯母の声に、私はびくりと身をこわばらせる。
「今朝、急に呼び出しがあって。土曜なのに、嫌になっちゃう──……はい、お待たせ」
卓袱台にお盆を置く音がした。目は仏壇からそれて、お盆に載ったものに向かう。三角形に切られたスイカ。その隣には、白い塩が小皿に盛られている。
「おそうめんもあるけど」
その言葉に、私はスイカを見つめたまま首を横に振った。
「そう」
伯母は短く息を吸った。「でも、遠慮せずに言ってね。育ち盛りなんだし。それに、今年の夏は、ここがぼくちゃんの家なんだから」
私は気まずさに耐えかねてスイカを一切れつかみ上げた。歯を立てると、しゃくりと音を立てて果肉が裂けた。苦手だなと思った。あまり熟れていないスイカも、横に並べられた食卓塩も、柔らかな笑みを浮かべる伯母のことも、すべてが苦手だと思った。
「おいしい?」
今度は首を縦に振った。
「よかった」
伯母はほっとしたように微笑むと、縁側の向こうに視線を移した。
私もその先を見た。庭は陽光に満たされ、草の影が揺れている。
「今日も暑いわね」
伯母の言葉に、頷くふりをして、スイカを噛んだ。
しゃくり、また小さな音が鳴る。
「麗子は──ぼくちゃんのお母さんは、きっとよくなるから」
私は返事をせず、またスイカを噛んだ。
しゃくり、すこしだけ苦い味がした。
三年前の春から母は体調を崩し、入退院を繰り返していた。この家に預けられたのも、そのためだ。不調の原因や理由は聞かされていない。父は毎晩のように「すぐに良くなるから知らなくてもいいんだ」と私の頭を撫でた。
しかし、結局のところ、私は納得がいっていなかった。
父はよく私に「宿題はすぐにやりなさい」と言ったものだが、この時の「すぐ」はだいたい五分から十分を指す。けれど、今回は約三年もの間、「すぐに良くなる」と言い続けている。つまり、父は私に嘘をついていることになる。
父は好きだ。だがそれ以上に、私は嘘つきが嫌いだった。
「あの」
私が急に声を出したからか、伯母が目を丸くした。
「ぼく、外行ってきてもいいですか?」
この時の私は、まだ自分のことを〝ぼく〟と呼んでいた。
「ええ、いいわよ。あ、でもあんまり遠くに行っちゃだめ。特にコアジロの森には近づいちゃだめよ」
「……どうして?」
「マムシやハチに会いたくないでしょう? それと、足を滑らせると危ないから、ね?」
伯母の表情は穏やかだったが、声色はやけに真剣だった。笑みの奥に潜むなにかに触れるのが怖くて、私は目をそらした。
そして、何も言わず、ただひとつ頷きを残して、玄関を出た。
「部屋には葦が生えている」は全5回で連日公開予定