町は、坂と細い道が複雑に絡み合ってできていた。坂を上ると畑が広がり、地平線は山に遮られている。けれど、その代わりに、振り返れば水平線がどこまでも続いている。
砂混じりの道を歩きながら、一枚のメモに目を落とした。
──蝉の抜け殻、黄色いひまわり、傷のない貝殻。
これらは、私がこの夏に絵に描くと決めているものたちだ。
──蛍のおしり、桃色の花火、焼けた砂浜。
夏の情景を切り取り、病床の母に見せる。それがこの夏、自分に課した目標だった。脇に抱えた茶色いスケッチブックは、そのための道具であり、冒険の記録を残すレポートにほかならない。
潮の香りが風に混じり、遠くで漁船のエンジン音が響く。どこかの庭先では、夕顔の蔓が木の柵に絡まり、重たげな花を垂らしている。路地を抜け、坂を上るにつれて、土の香りが増した。畑の隅では、防鳥のための銀色のテープが陽に照らされ、きらきらと反射していた。
農道を進む。スイカの葉がかすかに揺れ、青々とした香りが鼻をくすぐった。そのとき、前方に子どもたちの姿が見えた。麦わら帽子をかぶり、虫取りかごを肩にかけた彼らは、何か話しながらこちらへ歩いてくる。
一人は体格のいい子で、もう一人は細身で背が低い。ケタケタと楽し気に笑うふたりの姿は、人付き合いが苦手な私には、ひどく恐ろしく見えた。
──どうしよう、道を変えようか。
だが、周囲を見渡してみれば、右は畑で、左は林だ。逃げる場所などない。
一歩、一歩と近づいてくる。私は無意識に息を止めていた。このまま何事もなくすれ違えますように……。
そう祈っていると、大きい方が私に気づき、「おい!」と太い声を張り上げた。
「おまえも、ポケモンやってるのか?」
「……え?」
間の抜けた声が、喉からぽんっと出た。彼らの視線は私のTシャツに向けられている。
なるほど。彼らの警戒心を解いたのは、私の胸に躍るピカチュウだったのだ。
「赤、緑、どっちだ」
品定めするような目がこちらを見据えている。
私は息をひとつ吸い、意を決して答えた。
「ぼく……青版」
「すっげー!」
ふたりは同時に声を上げ、十万ボルトの電撃を受けたように、目を見開いた。
ポケモンの青版は、当時、子ども向け雑誌の独占通信販売でしか手に入らない希少なものだった。後に一般販売もされたが、発売当初は持っているだけで羨ましがられたものだ。
──どうせ買うなら、レアな方にしちゃおうか。
母のいたずらな笑みを思い出して、お腹の底の方がきゅっと縮む。
「じゃあさ、あのさ、おまえさ、ミュウツーの逆襲も観たよな⁉」
「うん。観たよ」
私たちは、たちまち意気投合した。体が大きい方は「がっちゃん」、背が低い方は「てっち」というあだ名だという。がっちゃんは小学六年生、てっちは五年生。ふたりとも、私より少しだけ大人だった。
がっちゃんもてっちも、アニメやゲームが好きだった。それだけで、どこまでも仲良くなれそうな気がした。話題はポケモンだけにとどまらず、ミニ四駆、ビーダマン、遊戯王と次々に広がっていく。十月にゲームボーイカラーが発売されることをコロコロコミックで読んだこと、がっちゃんが親戚のお兄ちゃんからボンボンやジャンプ、マガジンまで借りていること。さらに、中学に入ったら髪を赤く染めてバスケを始めるつもりだと意気込む姿に、私は驚きながらも聞き入っていた。
私たちはすでに、疑いようもなく自然に、友人になっていた。
「そうだ。おまえさ、明日からラジオ体操来いよな」
がっちゃんが肩を組んできた。「てっちと俺は毎日行ってるんだ」
「ラジオ体操?」
「そうだ。六時半から、三戸浜でやってる」
「おまえ、がっちゃんが来いって言ってんだから、絶対来いよな!」
てっちが横から高い声を挟んでくるものだから、私も対抗するように、「うん。行く!」と大げさに頷いてみせた。
「じゃ、明日から……そうだ! 二週間後には祭りもあるんだ。それも来いよ」
がっちゃんは脈絡なく、地元の祭りがいかにすごいかを熱弁し始めた。
てっちも頷きながら、ちらちらと私の顔をうかがってくる。子ども神輿は地元の小学生しか担げないらしいが、最後に配られるお菓子の詰まった小袋は、よその子でももらえるという話だった。私はその説明を聞きながら考えていた。母にお祭りの絵を描いて送ろう。きっと喜んでくれるはずだ。
「ねえ、がっちゃん、もうそろそろ行かないと」
「そうだな──おい、おまえ」
「なに?」
「俺たちがこっちに行ったって、誰にも言うなよな」
「うん。わかったけど……なんで?」
「なんでもだ」
がっちゃんは満足そうに頷き、くるりと踵を返した。
そして、二、三歩進んでから急に振り向いた。
「あと、そうだ。かんっかんって足音には気をつけろよ」
「……足音?」私は首を傾げた。「何の足音?」
「なんのって、そりゃあ……」
がっちゃんがにやりと笑い、ちらりとてっちを見る。
「びびるなよ」てっちが得意げに言った。「宇宙人の足音なんだぜ」
「宇宙人⁉」
思わず、声が裏返った。「それって、本物?」
「ああ、本物だ」
「なんで本物ってわかるの?」
「そりゃ……みんながそう言ってるからだ」
「みんなって、誰?」
「みんなはみんなだ。な、てっち」
「そうそう。みんなが言ってる。なんだおまえ、文句あるのか」
「ううん、ないけど……」
みんなって誰のこと?
宇宙人がいるならなんでニュースになってないの?
舌の付け根まで上がってきた疑問をごくりと飲み込んだ。こういうことを口にすると、友達が友達でなくなってしまう。十歳の私は、それを嫌というほど学んでいた。
「じゃ、明日、ラジオ体操でな」
そう言い残し、彼らは木立の陰へ消えていった。
ひとりになった私は、胸の奥にわずかなもやもやを抱えたまま、農道を進んだ。
──本当にそんなものがいるわけない。でも、いたらどうしよう……。
私の不安を煽るように、海岸線に群生している背の高い草が、かさかさと音を立てた。
私はすこし早足になった。少し進むと林が現れた。立ち並ぶ木のひとつでミンミンゼミが鳴いていた。頭上には青々とした葉が茂り、足元には乾いた茶色の地面が広がる。前方には白い入道雲がぽっかりと浮かんでいて、歩き続ければたどり着けるような気がした。
これはきっと、大冒険になる。
気づけば、地面に落ちた影だけが私にとっての陸地で、そのほかはすべてマグマに変わっていた。宇宙人のことなどすっかり忘れて、私はマグマに落ちないよう、息を止めながら、影を飛び石のように飛び跳ねて進んだ。
マグマの中を犬が歩いていた。飼い主と目が合うと、「今日もあついねぇ」と声をかけられた。「マグマの中にいるんだから当然だ」と返したい衝動を抑え、静かに会釈した。喋ると息が漏れる。でも、なぜマグマなのに息を止める必要があるんだろう。
そうだ。毒ガスが満ちている設定にしよう。
これはいい考えだ。電柱にタッチして息を吸った。電柱は酸素の供給装置で、触れている間は毒ガスから身を守るバリアーが張られる。道端で拾った木の枝を勇者の剣に見立て、先へ進んだ。灰色の電柱、防火水槽の赤い標識、青いビニールシート、錆びたトタンの茶色、緑色のかぼちゃ。広がる世界はどこまでも鮮やかで、私はその只中を歩いていた。
少し陽が傾いた頃、私は道端の石垣に腰掛け、あたりを見渡した。大冒険は小休止。再開は未定。しかし、あの家に帰るにはまだ早い。どこかでサイダーを買って飲もう。自販機はあっただろうか。
そんなことを考えながらきょろきょろしていると、聞き慣れない音が耳に届いた。
かんっ、かんっ。
遠くから響いてくる音に、思わず腰を上げた。
かんっ、かんっ。
蝉時雨に混じって、音はゆっくりと近づいてくる。
──もしかして、この音。
ぞくりと嫌な気配が背筋を駆け抜けた。おっかなびっくり首を回す。茂みの黒い影、風に揺れる木の葉の音。世界のすべてが私を焦らせている気がした。
首を半分ほど回したところで、息が止まった。視界の端に、三つ足の影が見えた。
──まさか、本当に……!
私は跳ねるように駆け出した。勇者の剣を置いてきたことを一瞬悔やんだが、戻れば捕まってしまう。一心不乱に駆ける私の前に、不運なことに細い影が飛び出してきた。
──ヘビだ!
鱗が光る身体をくねらせ、道を塞ぐようにこちらをじっとにらんでいる。足がすくみ、動けなくなった。もしかすると、伯母が言っていたマムシだろうか。だとしたら、大変だ。どこかで読んだことがある。マムシには毒がある、と。
絶体絶命だ。
後ろには宇宙人が迫り、前ではヘビがとぐろを巻いている。泣き出しそうになったその瞬間、宇宙人が私の横をひょいと通り抜け、蛇の前へ立った。
そして、脇から生えた足を振り上げ、蛇の眼前の土を強く叩く。かんっ!
その音に驚いたのか、ヘビはすごすごと茂みへ逃げ込んでいった。
驚いた私は、横目でそっと宇宙人を見た。偶然、目が合った。宇宙人は、少し長めの前髪の奥から、とても澄んだ瞳を覗かせていた。
彼──もしかしたら彼女かもしれない──は、「ふんっ」と鼻を鳴らすと、何も言わず、ゆっくりと私の前から去っていった。
私はその場から動けなかった。胸だけがドキドキと高鳴っていた。
「部屋には葦が生えている」は全5回で連日公開予定