桧山は店員が去るのを待って、テーブルに肘をついて身を乗り出した。
「アキさん。僕はあなたの本名を知りません。年齢も、住所も、お仕事も。今日初めてお会いして、別れれば二度と会うこともない。実に都合の良い聞き手だと思いませんか?」
わたしはゆっくりと息を吸い、吐いた。あの日、「送信」を押す前にそうしたように。
「……わかりました。でもある程度は、フェイクを入れさせてください。特に人名や地名は」
「ええ、特定なんて野暮なことはしませんけど、気になるならお好きなようにどうぞ。ただし、ストーリーに支障をきたすようなでたらめは勘弁してくださいよ」
桧山はグラスにストローを挿して、にんまり笑った。
「では、聞かせてくれませんか? 『小さい頃、祖父の家で真夜中に影踏み鬼をしたら、得体のしれない影が現れた。その夜、その家で人が死んだ』っていうお話を」
小学校二年の八月のことだった。わたしは母に連れられて、北関東にある母の実家を訪れた。
電車とバスを乗り継ぐこと数時間、終点でバスを降りると、居並ぶ畑を突っ切ってアスファルトの道が延びていた。地平線まで見渡せる広い視界の中、思い出したように現れる民家と、うねる石垣。蝉の声がわんわんと響き、青臭く埃っぽい空気を揺らしていた。
強い西日の差すその道を、母と手を繋いで歩いた。襟の詰まったブラウスの内側に熱がこもり、背中にびっしょりと汗をかいていた。いつもはTシャツ姿に長い髪を輪ゴムでくくっている母も、窮屈そうな白いシャツと黒いスカート姿だった。顎に滴る汗を拭う時間も惜しいと言わんばかりに、母は速足で進んだ。
母の様子がいつもと違うことに、不安を感じてもよいはずだった。当時のわたしは同年代の中でもとびきり大人しく、臆病で、周りの変化に敏感な子どもだったから。けれどもその日は、母の沈黙も強引さも気にする余裕がなかった。わたしの胸も頭も、まだ見ぬ「オジイチャン」への期待で塗り潰されていたからだ。
その前日、母から「明日はオジイチャンのおうちに行くよ」と告げられた時、わたしは自分にも「オジイチャン」がいることに驚いた。当時は詳しい事情など知るべくもなかったが、母は田舎の資産家だった実父と反りが合わずに家を飛び出して上京し、わたしの父と結婚した後も実家とはほぼ絶縁状態だった。父は天涯孤独の身で、わたしが生まれてすぐに亡くなっていた。そういう状況だったので、わたしにとって家族とは母ただ一人のことを指していた。幼稚園や小学校で、クラスメイトが「夏休みにオジイチャンの家に行った」「お正月はオバアチャンからお年玉をもらった」と自慢し合うのを、わたしは黙って聞くことしかできなかった。
クラスメイトの話によると、「オジイチャン」や「オバアチャン」とは、何をしても怒らず、優しく褒めてくれ、おいしいご飯を食べさせ、お小遣いをくれる——魔法使いとサンタクロースが合体したような素敵なものらしかった。初めてそれを知った時、母に「どうしてうちにはオジイチャンもオバアチャンもいないの?」と尋ねてしまい、母の強張った表情を見て、幼心にひどく後悔したものだった。
けれど、わたしもとうとう「オジイチャン」に会える! そう思うだけで、蒸し暑い道のりも苦ではなかった。ごみごみした住宅街で育ったわたしには田舎の開けた景色が珍しく、気持ちを弾ませるのに十分だった。
二十分ほど歩いて母の実家に到着した時、興奮は最高潮に達した。「妹尾」と表札の掲げられた低い石垣と潅木に囲まれた平屋の古民家は、アニメや漫画の一場面のようだった。幼稚園の園庭より、学校の校庭より広い家があるなんて! と、胸が高鳴った。
けれどもわたしの期待と興奮は、すぐに冷水を浴びせられることになった。
呼び鈴を鳴らして玄関前に立ったわたしたちを迎えたのは、白髪の痩せた老人だった。後から聞いた話ではこの時七十歳だったというが、それより十は老けて見えた。シャツの襟から覗く首に青い血管と筋が浮かび、眉間には深い皺が刻まれていた。
「帰れ。勘当された身で何をしに来た」
老人は母を睨むように見上げて吐き捨てた。むき出しの敵意と嫌悪に身がすくむわたしをよそに、母は平然と言い返した。
「あなたの娘でなくとも、お母さんの娘です」
「何を偉そうに。あれの新盆なら昨日とっくに済んだわ」
「だから来たんじゃない。わざわざ騒がせたいわけじゃない。お母さんに手を合わせに来ただけよ。それが済んだら、言われなくても帰ります」
母の声は割れたガラスのように鋭く、老人は皺の奥のたるんだ目を吊り上げた。
「親に何という口の利き方だ」
「勘当したのは誰よ。都合のいい時だけ父親面して」
どうもこの老人が「オジイチャン」のようだと見当はついたものの、聞いた話とあまりに違う様子に戸惑い、わたしは母の腰に身を寄せた。人見知りの激しいわたしがこうすると、母はいつも笑いながら抱き寄せてくれた。しかしその日の母は、わたしの手を痛いくらいに握りしめたまま、老人と口論を続けるばかりだった。
「剛一郎兄さん」
老人の後ろからしわがれた声が聞こえ、赤ら顔に眼鏡をかけた別の老人が現れた。先にいた老人——剛一郎と身長は同じくらいだが、顔も体も丸々と太っていた。その横には同じくらいの年齢の女性も立っていた。大きな石のついたイヤリングやネックレスが、玄関から差し込む夕日にギラギラと光った。
母は二人に向かって軽く頭を下げた。
「佑次郎叔父さん、はつ江さんも、ご無沙汰しています」
「ああ、由子ちゃん」
後から現れた老人の名は佑次郎といい、剛一郎の弟、つまりわたしの大叔父で、はつ江はその妻だった。当時「大叔父」という言葉を知らなかったわたしは、「オジイチャン」の弟は何と呼ぶのだろうと困惑して二人を眺めていた。
はつ江は、佑次郎の語尾をひったくるように話し始めた。
「お久しぶりね、由子さん。どうしたの? ちょうど義一さんたちもいらしてるのよ」
「兄さんが」
「ええ、明日まで泊まっていくんですって。それでみんなで食事でもってことになったのだけど、由子さんも食べていかれるのかしら?」
「いえ、わたしたちはすぐにお暇します」
母の返事に、はつ江は口元を歪めるように笑った。
「あら、そう。でもそうよね、お義兄さんがお許しにならないわね」
紙やすりで肌を撫ぜるような、嫌な言い方だった。佑次郎がもごもごと何か言ったが、剛一郎に「酔っ払いは黙っていろ」と一喝され、何事か口の中で呟きながら室内に戻っていった。「お義兄さん、そんな言い方」と声を上げたはつ江も剛一郎に冷たく一瞥され、気まずそうに佑次郎の後に続いた。
玄関にいるのは、剛一郎と母とわたしだけになった。剛一郎が口を開く前に、母はきっぱりと言い切った。
「とにかく、お母さんに手だけは合わさせてもらいます」
剛一郎は鼻を鳴らし、廊下の奥に消えた。
母は長く息を吐いてから、靴を脱ぎ始めた。わたしも慌てて上がり口に腰かけて、履きなれない革靴のバンドの留め具を外した。
——うちの「オジイチャン」はちょっと変わっているみたいだ。でもそんなの別に大したことじゃない。うちはうちでよそはよそって、いつも言われているのだし。
そんな風に自分に言い聞かせるわたしの頭上から、ぱりっと明るい声が降ってきた。
「初めまして、村木千佳です」
顔をあげると、青いギンガムチェックのエプロンを付けた若い女性が立っていた。母よりも頭一つ以上背が高く、色白で、ふっくらとしたしもぶくれの顔に瑞々しい笑みを浮かべていた。
母は「斎藤由子です」と名乗って会釈してから、じっと千佳の顔を見た。
「もしかして、村木チヨさんの」
「はい、こちらの家政婦だった村木チヨの孫です。今は私が、祖母の代わりを」
「ああ、やっぱり。チヨさんはお元気?」
千佳の表情にふっと影が差した。
「祖母は数年前に亡くなりました……私の高校卒業を見届けて、すぐに」
「……ごめんなさい、知らなくて」
「いいえ、気になさらないでください、祖母を知っている方に会えて嬉しいです」
それから千佳はわたしに視線を移し、かがんでにっこりと笑った。
「初めまして、村木千佳です。千佳ちゃんって呼んでくれる?」
わたしはびっくりして、母の後ろに隠れた。この家に着いてから、わたしを認識し話しかけた大人は——母を含めてさえ、千佳が初めてだった。千佳は気を悪くする様子もなくころころと笑い声を上げ、わたしたちを仏間に通した。
仏間は玄関の右手、八畳と十畳の座敷の続きにあった。わたしは初めて目にする仏壇の艶々と黒光りする迫力に気圧されつつ、見よう見まねで手を合わせた。母は長い間、首を垂れて手を合わせていた。
仏壇に祀られた「オバアチャン」の名前は妹尾茂子といい、亡くなったのは前年の十一月だった。その頃、いつもより早く仕事から帰ってきた母が、青ざめた顔でわたしに留守番を言いつけ、黒い服に着替えて慌ただしく出ていったことがあった。何年も前から入院していた「オバアチャン」の葬式だったのだと打ち明けられたのは、数週間経ってからのことだった。急な知らせでわたしを連れていく余裕がなかったことを母は謝ったが、わたしにとって「オバアチャン」は存在もその死もぼやっとしたイメージでしかなく、悲しいとも寂しいとも感じなかったのが正直なところだった。
手を合わせたまま動かない母の背中を見つめていると、背後の襖が開く気配がした。振り返った先に、母より少し年上に見える男性が立っていた。きっちりとプレスされたスラックス姿で、小柄で痩せた体つきや無表情なところが剛一郎に似ていた。
母も男性に気づき、呟いた。
「兄さん」
母の兄——義一伯父はわたしと母をじろりと見た。
「……本当に来たのか」
「あの人と二人で会うのはやめろって言ったのは兄さんでしょ。だから今日来たの。兄さんたちがいるって言うから」
「そりゃそうだけど」
義一は母の向かいに胡坐をかいた。母も腰を半分浮かせ、伯父に体の正面を向けて座り直した。
「母さんのお葬式の時、ありがとう。兄さんが連絡をくれなかったらお別れもできなかった」
「別に、それはいいけどな。いい加減、親父とちゃんと話したらどうだ」
「話したがらないのは向こうなんだってば」
母の声が急に頑なな調子になり、義一はこれ見よがしにため息を吐いた。
「確かに、親父は昔からお前には特別厳しかったかもしれない。けどお前だって、いちいち親父に反抗するから」
「お説教なら聞きたくない。……兄さんにはわかんないよ」
母の叩きつけるような言い方に、義一はむっとした顔で立ち上がった。
「わかった、わかった。なら勝手にしろ」
「するわよ。兄さんには迷惑かけない」
「もうかけてるよ」
義一はうんざりした顔で肩をすくめた。
「昔からいつもそうだ。母さんのためと思って今回は世話焼いたけどな……正直、いるだけで迷惑なんだよ、お前は」
部屋を出る間際の冷たい眼差しまで、剛一郎とそっくりだった。
義一が出て行って緊張が解けたわたしは、母のスカートの裾をおそるおそる握った。
「……お母さん」
久し振りに発した声は、喉に張り付いて掠れていた。
「帰りたい」
ぽろりと零れた言葉が畳の上に転がって、消えていった。
オジイチャンもオジサンもいらない。夏休みに何処にも行かなくったっていい。母がいればそれでよかったのに、オジイチャンを欲しがった欲張りの罰が当たったんだ。
「……ごめんね」
母はようやくわたしを抱きしめて、頭を撫でた。
「帰る、もう、おうち帰る」
「うん、わかった、帰ろう」
母の体温と優しい声に、わたしはほっと息を吐いた。
しかしいざ妹尾家を辞そうという時になって、わたしたちが乗ってきたバスの通り道で交通事故が発生したことがわかった。化学薬品を積んだトラックが横転し、道路にぶちまけられた薬品の除去のために周辺一帯が封鎖されて、わたしたちは帰る足を失った。周囲は民家ばかりで、宿泊施設もない。わたしと母は、やむなく妹尾家に一晩泊まることになった。
「鬼の話を聞かせてください」は全4回で連日公開予定