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 急に、怖くなった。剛一郎や義一の険しい目つきを思い出した。今にもあの人たちが起きてきて、叱られたらどうしよう。てのひらに冷や汗が吹き出し、頭の中で心臓がガンガンと鳴り出した。

「どうしたの?」

 後ろから聞こえた声に、ひっと喉が鳴った。その声が優しげな千佳のものでなければ、卒倒していたかもしれなかった。

 おそるおそる振り返ると、エプロンを外した姿の千佳と目が合った。千佳は申し訳なさそうに微笑んだ。

「びっくりさせちゃったかな、ごめんね。眠れないの?」

「……今、何時?」

「十二時過ぎだけど……ねえ、どうしてそんなところに立ってるの?」

「……床の音、歩くと、うるさくて」

「ああ」

 千佳は笑って、納戸のはす向かいのガラス戸を開けて中庭に下りた。そしてわたしの立っている横のガラス戸まで歩いてきて、こつこつと鍵のあたりのガラスを叩いた。おそるおそる、手を伸ばして鍵を開けると、千佳は軽々とわたしを抱き上げた。

「わあ、思ったより重い。なんて、女の子に失礼かな。でもこれくらいの歳なら、どんどん大きくならなくっちゃね」

 千佳のささやく息が耳元にかかるのがくすぐったかった。千佳はわたしと向かい合わせになって、わたしの裸足の足を自分のスニーカーの上に下ろした。千佳の足越しに、柔らかく湿った土が沈み込む感覚が伝わってきた。

 夜の間に雨が降ったのか、中庭は水の匂いがした。不安定な足場の代わりに、千佳はわたしの肩をしっかりと支えた。

「ほら、見て。綺麗だね」

 千佳に促されて、中庭の夜景を見た。

「……青い」

 不思議な光景だった。人工的な明かりのない中庭を照らすのは月明かりだけだったが、その光が何故か一面に青いのだった。空を見ると、ほぼ満月に近い月はいつものように白っぽい黄色だった。しかし視線を下ろすと、中庭の木々も灯籠も平石も、千佳の手や顔さえ、何もかもがセロファンを通して見た景色のように青みがかっていた。

 千佳の言うように、美しい風景だった。けれど同時に怖かった。

 この家にあるのは、わたしの知らないものばかりだ。たった一人の家族である母でさえ、違うものになってしまったようだった。

 わたしは千佳にしがみついた。

「どうしたの?」

「……怒らない?」

「誰が?」

「……あのひと、もう寝た? 起きてこない?」

 オジイチャン、とはどうしても言えなくて、うっすらと明かりが漏れていた一番端の和室を指差した。

「大丈夫だよ。剛一郎さん、いつもはお休みになる前に明かりを消されるのだけど、忘れて眠ってしまうことも多いから……でも、小さい声で話そうか」

「……怖い」

「剛一郎さん? そうね、ちょっと難しい人かも。でも、剛一郎さんは本当は寂しいんだよ」

「寂しい?」

 わたしは驚いて尋ねた。そんな気弱な性格には見えなかった。

「そう。本当は由子さんと仲良くしたいのに、できないの」

「どうして」

「さあ。大人は難しいね」

 千佳はおもむろにわたしの肩を離し、手を繋いだ。重心が急に後ろに移動して、わたしはのけぞるような体勢になった。

「わっ」

「ちゃんと掴まっててね」

 千佳が囁いて、ゆっくりと歩き出した。まっすぐ前に進むのではなく、円を描きながら前に後ろに——シンデレラが王子様と踊るダンスのように。

 千佳の足と一緒に、わたしの足もステップを踏む。最初は予想のできない動きにまごついたが、慣れると本当のダンスのようでおもしろかった。千佳とわたしの青い影がゆらゆらと、木や石の影の間を踊った。

「影踏み鬼みたい」

 呟くと、千佳は「よく知っているね」と微笑んだ。

「影踏みっていう遊びはね、もともと月明かりの下でする遊びなの」

「そうなの?」

「そう、月の綺麗な秋の夜にね。だからこれは、本当の影踏みだね」

「今は夏だよ?」

「八月は、昔は秋だったんだよ」

「ふうん」

 思い切って、千佳の手を強く握り、背中を思いっきりそらした。青い世界の上下が逆さまになり、月が下に転がった。

 もう何も怖くなかった。わたしは小さく笑い声を上げ、足を伸ばして千佳の影を踏んだ。

「あ」

「影踏んだ。千佳ちゃんが鬼だよ」

「あーあ、やられた。……ねえ」

 千佳はわたしの手を引っ張って引き戻し、足を止めた。

「千佳ちゃん?」

「負けちゃ駄目だよ。どんなに怖くても」

 千佳は真剣な表情で、瞳に青い影を映して、わたしを見つめていた。

「影踏み鬼は、本当は怖い遊びなの」

「怖い遊び?」

「そう。影はその人の魂。影を踏まれると魂を取られて、人じゃないものになってしまう」

 千佳はわたしの頬に手を当てた。柔らかい掌は、うっすらと汗ばんでいた。

「だから誰にも影を踏ませないで。自分の魂を取らせちゃ駄目だよ。誰に何を言われても、生きたいように生きるの」

 千佳の言っていることがよくわからず、戸惑った。何言ってるの——そう尋ねようとして、できなかった。

 千佳の肩の向こう、剛一郎の部屋の障子が開いて、黒い影が現れたからだった。

 影は、すぐに障子の向こうに消えた。薄暗い中の一瞬のことで、顔も服装もはっきり見えなかったが——。

 わたしの強張った表情に気づいたのか、千佳が振り返った。

「どうかしたの?」

「……今、誰か、いた」

 わたしの言葉を遮るように、階段の軋み音が聞こえてきた。誰かが二階に上がる足音だった。

「……私たち以外にも、夜更かししている人がいたみたいだね。もう寝ようか。私も戸締りを確認したら帰るからね」

「……うん」

 千佳はわたしを抱き上げ、納戸のはす向かいのガラス戸から廊下に入った。

 夜風に当たったせいかトイレに行きたくなり、わたしはすぐ側のトイレに入ろうとした。それを千佳が慌てて止めた。

「そこは故障中だよ! ほら、貼り紙……そっか、まだ漢字読めないか。平仮名にしてあげればよかったね」

 結局、わたしはまた千佳に抱き上げられ、中庭を突っ切って玄関側のトイレまで往復することになった。

 用を足して二階の部屋に戻った時、母は何事もなかったように布団にくるまっていた。戻ってきたわたしに気がついて、眉をひそめた。

「何処行ってたの?」

「……お母さん、いなかったから」

「捜しに行ってたの? ……ごめんね、トイレに行ってた」

 隣の布団に入ったわたしを、母はぎゅっと抱き寄せた。

 母もトイレに行っていたなら、どうして鉢合わせしなかったのだろう? きっと、わたしが千佳に抱き上げられて中庭を通るのと入れ違いに、母は廊下を通って戻ってきたのだろう。廊下の床の軋む音が聞こえなかったのは、うっかり聞き逃したからに違いない。

 自分にそう言い聞かせて、母の温かい身体にしがみついて目を閉じた。

 その翌朝、剛一郎の遺体が発見された。

 第一発見者は千佳だった。いつもの時間になっても起きてこないことを不審に思って様子を見に行き、納戸の梁で首を吊っている剛一郎を見つけた。

 血相を変えた千佳から知らせを聞いて、母は青ざめた顔で、ごめんなさいと呟いた。

 

「……自殺、だったそうです」

「ふうん」

 残り少なくなったアイスカフェラテを、桧山は行儀悪く音を立ててすすった。自分で聞きたいと言い出したくせに、その表情は不満げだ。

「やっぱり、期待されていたような話じゃなかったですよね」

「いえいえ、そんなことないです。とっても素敵でした。特に、影踏み鬼のあたり」

「でも」

「カゲという言葉は、昔は人の魂のことも意味したそうです。カゲを踏まれる、つまり魂を取られることで、鬼——この世のものならざる存在になってしまうというのが影踏み鬼という遊びだそうで。今でも人が亡くなることを『鬼籍に入る』なんて言いますしね。真夜中の影踏み鬼が、本当に鬼を呼び込んで死を招いたのかも——なんて」

 饒舌じよう ぜつに話す桧山の機嫌は悪くなさそうだ。では、さっきのぶすっとした顔は何だったのか。

 こちらの心を読んだように、桧山は「僕が納得できないのは」と話し出す。

「何で警察は自殺と判断したのかってことです。家族仲の悪い資産家の一家なんて、殺人の動機には事欠かないじゃありませんか」

「ひとの家庭を二時間サスペンスドラマみたいに言わないでくれますか」

「これは失礼」

 口先では謝罪しながら、桧山の態度は依然として飄々ひよう ひようとしている。

「でも実際、どうしてです? 遺書でもあったんですか?」

「いえ、ありませんでした。警察も当初は他殺の可能性も考えていたそうですが」

「結局そのセンは消えた、と」

「はい」

 外部からの侵入者の可能性はまっさきに否定された。納戸にも剛一郎の部屋にも荒らされた痕跡こん せきはなく、遺体の発見現場に残された足台やロープはもともと納戸に置かれていたもので、外から何かが持ち込まれたり持ち去られた様子はなかった。周囲の住宅街でも、不審者の目撃情報は確認されなかったという。

「それはつまり、可能性があるとしたら、内部犯ということですね」

 桧山はしたり顔で頷いた。

「あの日妹尾家を訪れていた誰か——例えば、剛一郎さんにひどく叱責されていた義一さん。あるいは、剛一郎さんに借金をしていた弟の佑次郎さん、それに」

「桧山さん」

「え、僕?」

「そうじゃなくて。何か……探偵みたいですね」

「そうですか?」

 本当は、楽しそうですね——と喉まで出かかっていた。実際、桧山の大きな口の端はゆるりと上がっている。

 

「鬼の話を聞かせてください」は全4回で連日公開予定