子どもの身体は熱を帯び、顔も真っ赤で、まるで火の玉のようだった。

 激高する子どもの形相をどこか遠い心持ちで眺めながら、今、この瞬間に大きな災害が起こっても、自分は子どもをかばわないかもしれないと彼女はぼんやり考える。我が子がかわいくないわけでは決してない。親子で心中するつもりもない。自分だけ助かろうともまったく思っていない。ただ、子どもを守るための行動を起こす気力が自分に残っている気がまるでしない。

 自分はもう空っぽだ。

 彼女は最後の力を振り絞るようにソファに身体を横たえた。仰向けになった彼女の目に、天井の白いクロスの継ぎ目が映る。リフォームしたばかりの物件を購入したはずなのに、すでにかなり目立っている。彼女は虚ろな眼差しでその線を見つめた。

 子どもはまだ泣きやまない。

 

 

 

 耳を澄ましていなくても店が混雑していても、のぞは「あしたも笑顔ッ!」が流れてくる瞬間を正確に捉えることができる。ふつっと糸が切れるような音と、空気にひびが入るような音。それらのノイズからきっかり二拍を置いて、イントロは始まる。希海が商品をレジにとおすのを待っていた男性客が、思わずといった様子で頭を振り出した。「あしたも笑顔ッ!」の軽快なリズムに揺られているようだ。総白髪で仏頂面の老人が見せた意外な行動に、希海の頬は緩みそうになった。

「あしたも笑顔ッ!」は、東京都東部を中心に展開するローカルスーパーマーケット、スパリカのオリジナルソングだ。およそ十五分に一回の頻度で店に流れる。常連客であれば、無意識のうちに口ずさんだことが一度や二度はあるだろう。従業員にとっても耳馴染みがあるどころではなく、チープなメロディや甲高い歌声は、もはや鼓膜にも脳にもこびりついていた。

「合計で、千百五十三円になります」

 最後にかつお節のバーコードをスキャンして、希海は金額を告げた。男性客ははっとしたように動きをとめ、鞄から財布を出した。そこに紺のエプロンと帽子を身に着けた戸田とだが颯爽と現れ、希海の後ろに立った。

「お疲れさま。皆川みながわさん、替わるね」

 時計を見ると午後一時二分だった。希海は礼を述べて戸田と交代し、休憩室に向かった。商品が積み上がったバックヤードを通過するあいだにも、天井のスピーカーからは「あしたも笑顔ッ!」が流れている。「お疲れさまです」と休憩室のドアを開けると、「お疲れさまです。上がりですか?」と中にいたさきが顔を上げた。彼女は大きなメロンパンを両手で持ち、もっちゃもっちゃと食べているところだった。

「うん。私は上がり。三崎さんは? 二時からじゃなかった?」

「二限が休講になって一限だけだったので、少し早く来ちゃいました」

 大学二年生の三崎は、九月からスパリカでアルバイトをしている。パート仲間からは物覚えが悪いと聞いているが、丸顔で愛嬌に溢れ、親とのほうが年齢の近いだろう自分にも気さくに話しかけてくれるため、希海は彼女が好きだった。三崎はメロンパンを食べ終えると、今度はあんパンがよっつ並んで入っている袋に手を伸ばし、けれども開封寸前でおもむろに天井を見上げた。

「私、ずーっと疑問に思ってたんですけど」

「うん?」

 希海はタイムレコーダーにカードを差しながら相槌を打った。スパリカは、三十二年前に現会長が家業の酒屋を拡張する形で一号店を誕生させた。体質の古い店で、出退勤の打刻にはパソコンではなく、いまだにタイムレコーダーが使われている。当然、スパリカ全四店舗をとおしてセルフレジは一台もない。下町と呼ばれるこの地区には年配の住民が多く、導入したところで説明に明け暮れるのが関の山、というのがパート仲間の見解だった。

「この、〈おとーふで便利な〉って、どういう意味なんですかね?」

 その質問こそどういう意味かと聞き返そうとして、希海は三崎の視線が真上のスピーカーに注がれていることに気づいた。「あしたも笑顔ッ!」の歌は二番に突入していた。

「ああ、これは〈おとーふ〉じゃなくて〈おとーく〉なんだよ。〈お得で便利な〉っていう歌詞」

「ええっ、ずっと〈おとーふ〉だと思ってました」

「そういう人は結構いるよ。どうして急に豆腐が出てくるのかって、お客さんからも聞かれたことがある」

「〈お得〉には絶対に聞こえないですよ。ねえ?」

「そう? 私は〈おとーふ〉にこそ聞こえないんだけどなあ」

 客としてこのスパリカ二号店を利用していたときから、希海の耳にはちゃんと〈おとーく〉と聞こえていた。しかし、先ほど持ち場を交代した戸田も、歌詞を長らく何ヶ所か聞き間違えていたと言っていた。

「皆川さんって、耳がいいんですね。音楽かなにかをやってました?」

「昔、六年くらいピアノは習ってたけど、あんまり関係ないと思うよ」

 希海は首をかしげ、うなじの上でひとつにまとめていた髪を結び直した。ピアノに熱中したことはなかった。筋がいいと先生に褒められたときもあったが、家で練習するのがとにかく面倒だった。始めたきっかけは、ピアノが弾ける女の子に憧れがあった両親の意向がすべてだろう。それでも希海が生まれ育った福岡県の海沿いにある小さな町には、習字教室と、音楽大学を卒業して地元に帰ってきた女性が自宅で開くピアノ教室のほかに習いごとの当てはなく、放課後の暇つぶしに、小学校を卒業するまでピアノは続けた。

「六年って長くないですか? 私、幼稚園のときに自分からママにねだってバレエを始めたんですけど、半年でやめちゃいました」

「バレエはお金がかかるんじゃない?」

「それ、ママにもめっちゃ言われました。シューズもレオタードも買ったのに、これ、どうすんのって。でも、先生は怖いし周りは意地悪だし足も痛いし、嫌になっちゃったんですよね」

「まあ、本人に気持ちがなくなったら、続けても意味がないからね」

「それなんですよ、それ」

 三崎はあんパンひとつを二口で食べ、ふうっと息を吐いた。「半年っただけでもがんばりましたよ」

「あ、私、もう行かないと。お迎えの前に銀行に寄るんだった。今日は卵が特売だから忙しいよ。がんばってね」

「はあーい」

 希海は脱いだエプロンと帽子をリュックサックに詰め、スパリカの裏口を飛び出した。電動自転車に跨がり、冷たい空気を切り裂くように銀行へとペダルを漕ぐ。東京スカイツリーは今日もそびえ立っている。気がつくと希海はペダルを踏み込むリズムに合わせ、「スパリカ、スパリカ、買いものならスパリカ」と小声で歌っていた。

 

 

「今を春べと」は全3回で連日公開予定