「オペレーションより緊急通報。〇七〇四、四日市市沖二キロの海上で貨物船とプレジャーボートが衝突、貨物船内にて火災発生。双方乗組員に行方不明者多数」
浜岡舷太が出勤した途端、海上保安庁の特殊救難隊に出動要請が出た。十二月末、官公庁の仕事納めも近いこの日の東京都大田区羽田は比較的暖かく、舷太はカーゴパンツにナイキのフーディという恰好だった。ロッカールームでオレンジ色の作業制服に着替え、隊のベレー帽を握りしめて事務棟へ駆けあがる。昨夜から当番に入っていた第四特殊救難隊の隊員たちが雪崩を打つように階段を下りてきて、押し戻される。
「邪魔だ」
「どけどけ」
一階の資材置き場に並べてある各自の出動バッグを次々と担ぎ、隊員たちは資機材を積んだ専用トラックで出動していった。舷太は事務デスクが並ぶ大部屋に飛び込む。
直属の上司である第三隊長の尾上拓哉がおにぎりをほおばっていた。新妻が毎朝握ってくれるらしい。隊長として誰よりも早く出勤する尾上は、デスクで朝食を摂りながら全国紙に目を通すのが日課だ。
「隊長。僕たち出動しなくていいんすか」
「俺たちの出勤時間は九時五分だよ」
壁の時計を見上げる。午前八時半前。
「いや、でも、船上火災発生に行方不明者多数なんて、一個隊だけでは足りない規模の海難ですよ。追加招集があるはずです」
「お前、朝飯食った?」
「もちろんです、〇六〇〇に起床し、しっかり腹ごしらえをしてきています」
ついでに体力づくりのため、横浜市の鶴見市場にある官舎から、ここ羽田まで走ってきたことも伝える。
「ならもう腹減っただろ。お前も食え」
おにぎりから海苔のにおいがぷうんと漂ってきた。舷太は断る。
「そういやお前、年末年始の予定は」
「もちろん、いつでも出動できるように休日も近場で待機しております」
「若いんだから、遠慮せず彼女とどっか遊びにいけよ。いつ結婚すんだ」
いきなり聞かれて面食らう。
「いや、考えてなくもないですが、自分はまだ特殊救難隊員として新人ですし」
「新人研修は十一月で終わったじゃん」
「ですが、僕はまだ出動経験がありません。このような未熟な身で結婚など、考えられません」
「真面目なんだねー」
追加招集の気配はなく、尾上はスポーツ紙の官能小説連載を読み始めた。
十二月三十一日、舷太は恋人の黒崎史奈とよこはまコスモワールドの大観覧車で新年のカウントダウンをした。夜通し横浜中華街で食い倒れだ。舷太はいつでも出動できるよう、飲み物はジュースにとどめておいた。
酒を一滴も飲まない舷太を退屈に思ったのか、史奈は隣のテーブルで新年を祝っていた中国人の老人から黄酒の関帝を勧められ、酔っ払っている。
「もう、そんなに飲んだら倒れちゃーう」
「若い彼氏いるから、倒れてもヘーキ。彼氏、いい筋肉だね」
年末年始を横浜で過ごす人で店内はあふれかえっている。飲み屋が暑苦しく舷太は半袖になっていた。老人につんつんと腕をつつかれる。
「あなたボディビルダー?」
「違う違う、これは見せる筋肉じゃないよ。使う筋肉だから」
史奈が勝手に誇る。
「彼は特殊救難隊員なんだよ」
「ふーん、消防?」
「海上保安庁! 海難救助のプロ」
「ああ、海上自衛隊ね」
「違うったら。海上保安庁。海の警察、海の消防。彼はその中でも現場の巡視船や潜水士が手に負えない超ムズカシイ海難の対応をするスペシャリストなの!」
史奈は言うだけ言って、くたっと寝始めた。舷太は恥ずかしくなって、史奈をおんぶして帰ることにした。
「家、近くなの」
店主に訊かれる。
「鶴見市場の方です」
「遠いよ。電車ないよ。タクシー呼ぶ?」
「大丈夫です、訓練のつもりで帰りますんで」
史奈をおぶい本町通に出た。横浜港大さん橋や赤レンガ倉庫などで初日の出を見るためか、四時だというのに車も人も多い。
「歩くと二時間以上かかるから、ちょっと走るよ。揺れるかも」
「いいけどさー。おうちに到着してくたくたになったところに海難で出動入ったらやばいよ」
「それでも出動できる体力をつけてるよ」
「舷ちゃんみたいな人、うちの施設にも一人いたら助かるのにな。四階にいる寝たきりの利用者さんをいちいち車椅子に移乗させないで、おんぶして一階の浴場に連れていけるでしょ。エレベーターの待ち時間短縮できる」
史奈は舷太と同い年の二十五歳だ。介護業界で働いている。彼女とは海上保安学校がある京都府舞鶴市のボウリング場で出会った。舷太が卒業し、鹿児島の巡視船あまぎに配置になっても、羽田特殊救難基地に異動になっても、史奈は迷わずついてきてくれた。
舷太は高校時代に入り浸っていた漫画喫茶で海上保安庁特殊救難隊の漫画を読み、憧れていた。だから巡視船の仕事に慣れてきてすぐに、航海長に「特殊救難隊に行きたいです」と希望を出した。怒られた。
“潜水士にすらなっとらんのにトッキューに行けるか。まずは管区の選抜競技会に出てからや”
潜水士希望者が体力を競う選抜競技会に出て狭き門を突破した。半年に及ぶ潜水研修で潜水技術を学び、資格を取って、晴れて潜水士としてデビューしたのが、三年前のことだった。
「せっかくここまで技術も体も鍛え上げたのに、トッキューになってから一度も出動してないんだよね」
舷太は背中の史奈に愚痴をこぼした。
「巡視船あまぎで潜水士をしていた時の方が、本番が多かったよ。海水浴客が沖に流されて捜索とかさ」
「フェリーがクジラとぶつかったときも、デートしてたカフェから飛び出していっちゃったよね、舷太君」
「死傷者は出なかったけど、航行不能になったフェリーを曳航しなきゃならないだろ。その海中作業は潜水士じゃないとね」
「あまぎのときはしょっちゅうデートすっぽかされてたけど、いまは暇そうだよね」
暇、という言葉に舷太はちょっと傷ついてしまう。当時は巡視船の船務もあるので、忙しかった。舷太は航海科だったから、見張り当番のワッチ業務があるし、舵を握ることもあった。舷太は、潜水士と航海士の兼任に慣れてきたころ、潜水隊長に「特殊救難隊に行きたいです」と再び希望を出した。今度は呆れられた。
「特殊救難隊は海難救助の最高峰やぞ。毎年全国で十人も選ばれない。潜水士のみで行われる選抜競技会で日本一になってからの話や」
舷太はその競技会で優勝し、特殊救難隊への切符をつかんだ。配属後は四か月に及ぶ厳しい新人研修が待っている。舷太が入隊したときは七人の新人がいたが、研修で二人が脱落した。彼らは全国に十一ある各管区の代表として、その名を背負って特殊救難隊に入ってくる。新人研修で脱落し古巣に帰ることは辛いが、それよりもはるかに新人研修の方がきつい。
舷太はそんな新人研修も無事終えて、去年の十一月に第三特殊救難隊に配属された。
「もう二か月過ぎたのに、僕だけなんだよ。本番を経験していないの」
史奈がふにゃふにゃと相槌を打つ。
「一隊の大沢君は配属三日目でオホーツク海にいた救急患者の吊り上げ救助。二隊の松下君は十一月にフェリー火災の鎮火をやった。四隊の半田君と五隊の富沢君は十二月、でかい事案があってさ」
「四日市の衝突海難だっけ」
四隊が火災船を鎮火し、行方不明者の捜索を行ったが、事案発生から三日目に曳航していた船体が転覆、沈没してしまった。追加で第五隊が出動し、船体に残っていた衝突跡の撮影や遺留品を回収した。
「神様が、舷太君を現場に行かせないようにしているみたい」
「だろー。同期で本番を経験してないの、俺だけになっちゃったよ」
「波動の彼方にある光」は全3回で連日公開予定