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 妹尾家は、カタカナのコを左右反転させた形に建てられていた。下辺の右端に位置する玄関を入ると、まっすぐに廊下が延びている。廊下の右手に座敷と仏間、突き当たりにトイレと浴室がある。廊下は座敷の周囲をなぞるように右に折れ、トイレと浴室に並ぶ形で、台所と板の間の収納庫が一続きになっていた。ちょうど、廊下を挟んで座敷の真向かいだ。収納庫の向こうには、使われていない六畳の和室と、増築された二つ目のトイレがあった。

 その和室とトイレの反対側——座敷を通り過ぎた廊下の右手側には中庭が広がっていた。古い灯籠とう ろうや大きな平石は苔や雑草に覆われ、地面は柔らかい土がむき出しになっていた。廊下と中庭はガラス戸で仕切られていたが、それでも日光や湿気で傷むのか、子どものわたしが歩くだけでもギイギイと耳ざわりに床板が鳴った。

 逆向きのコの字の短い辺にあたる廊下の突き当たりは納戸なん どで、その右手には和室が二間、襖で仕切られて続いていた。奥が剛一郎の部屋で、手前の一間は使われていなかった。左手には二階へ続く階段があった。玄関からは平屋に見えていたが、一部分だけ二階が増築されており、八畳の和室が三間設けられていた。このうちの一間に義一伯父の一家が宿泊しており、もう一間がわたしと母に当てられた。

 日帰りのつもりで軽装だったわたしと母のために、千佳が納戸から寝間着やタオルを出してくれた。納戸は六畳ほどの広さで、大型の家電や日曜大工用具、リネン類などが収納されていた。はりがむき出しの天井は大人が楽に立てるくらいの高さはあったが、内部の風通しは悪く、作業をしている千佳も母も、横で見ていただけのわたしさえすぐに汗だくになった。

 そんな中でも、千佳は朗らかにおしやべりを続けた。掠れたような低めの声が心地よかった。

 千佳は、昔この家で家政婦をしていたチヨの孫だった。チヨの娘は生まれたばかりの千佳を置いて姿を消し、千佳の父親の名も知らされていなかったチヨは途方に暮れた。夫と死別してから一人で暮らしていたチヨには、赤ん坊の世話をしながら仕事を続けるのは難しかった。やむなく貯金を切り崩す覚悟で職を辞そうとしたのを剛一郎が引き止め、働き続けられるように便宜を図ったのだという。チヨが亡くなった後は、剛一郎の強い希望で千佳が仕事を引き継いだ。チヨの体調が悪い時に代わりを務めたことが多々あり、気難しい剛一郎にも気に入られていたのだ。

 母はその頃には実家を出ていたので、千佳と会うのは初めてだった。「父は色々と面倒でしょう」と顔をしかめる母に、千佳は「祖母の恩人ですから感謝しています」と返した後、小声で「でも、時々、確かに」と付け加え、母を笑わせた。

 しかし平穏な空気も、十八時に夕飯が始まるまでのつかの間のことだった。

 十畳の座敷で夕食の席を囲んだのは、剛一郎、佑次郎とはつ江、義一と妻の奈津子な つ こ、その一人息子で高校一年生の貴也たか や、そして母とわたしだった。千佳は給仕のために台所と座敷を行ったり来たりしていて、食事の席には着かなかった。

 母と二人暮らしだったわたしにとって、「大家族での夕飯」や「家族団らん」はテレビの中の出来事だった。決して口には出さなかったけれど、「オジイチャン」や「オバアチャン」に対するのと同じほのかな憧れもあった。

 けれどその日わたしは、期待を粉みじんに打ち砕かれた。

 剛一郎は最初からずっと不機嫌で、義一を叱りなじった。病院は慈善事業ではない、お前は最低の経営者だ、馬鹿だ無能だと。義一はぼそぼそと謝り、奈津子も義一の横でじっと顔を伏せていた。貴也はにきびの浮いた青白い顔をうつむかせて携帯ゲームに夢中で、佑次郎は黙々と酒を飲み、はつ江は母に延々と愚痴をこぼし続けた。佑次郎の会社が潰れその後始末で剛一郎に借金をしていることや、自分がどれほど苦労し辛い思いをしているのかをくどくどと——「あなたみたいに好き勝手生きてきたひとにはわからないでしょうけど」と、折々にとげを交ぜながら。

 わたしは母の隣で、味のしない煮物や米を口に詰め込んでいた。座敷の隅でつけっぱなしになっているテレビに意識を向けようとしても無駄だった。聞きたくもない罵倒ば とうや嫌味、母のぎこちない笑い声が両耳に押し寄せる。どうして、耳は目のように閉じられないのだろう?

 何をしても笑って許してくれるオジイチャン、おいしいお菓子やプレゼントをくれるオバアチャン、家族で囲む楽しい食卓——そんな夢みたいなものは欠片も存在していなかった。わたしの目に映った「家族」は、乾いた紙粘土の粉っぽい切れ端の寄せ集めだった。

 どうしてうちは——わたしは——こうなんだろう?

 透明な箱に閉じ込められているような気分だった。狭いところで膝を抱えて、手の届かない景色をただ見つめているような。その感覚には慣れていた。休み明けの教室で楽しそうに土産話を披露する級友や、両親に両手を引かれる子どもの姿は、わたしをよくそういう気持ちにさせたものだった。

 がたん、と長テーブルが揺れて、わたしは我に返った。はつ江も剛一郎もいつの間にか口を閉ざしていて、テレビから空しい笑い声が響く中、母と剛一郎が睨み合っていた。

 剛一郎はうなるような声で言った。

「……最後の情けで、今晩は泊めてやる。だがもう二度と、顔を見せるな」

「こっちだって、頼まれたってあんたには会いたくない」

 母の口調は落ち着いていたが、膝の上の手は小刻みに震えていた。

「でもお母さんの形見くらいは、貰う権利がありますからね。この間は、誰かさんにうやむやにされましたけど」

「形見だと? この泥棒根性が、どの口で……千佳!」

 剛一郎の怒鳴り声に、千佳が向かいの台所から駆け付けてきた。

「はい、何か」

「お前、明日からこの家に住みなさい」

 千佳はぽかんとして、せわしく瞬きした。

「それは、どういう——」

「この家のものは何でも使っていい。好きにしろ、私が許す。今までの金も返さんでいい。ああそうだ、納戸に茂子の昔の嫁入り道具が仕舞ってあるから、あれもやろう。古いものだから今となっては貴重だぞ」

「お父さん!」

 母の悲鳴のような声を、剛一郎は無視した。

「何処かの泥棒に取られるくらいなら全部お前にやろう。お前はもうほとんどこの家の娘のようなものなのだし——いっそ、お前が娘ならよかったのだがな」

 騒々しい音と共にまたテーブルが揺れて、コップが倒れ箸が転げた。母が立ち上がりざまに、膝を引っかけたからだ。

 母は無言でわたしの手を掴んで立ち上がらせた。義一とはつ江の冷たい視線や、千佳の心配そうな気配を感じながら座敷を出ていく間際、夜八時をお知らせします、というテレビの音が遠く聞こえた。

 二階の部屋に戻ってからも、母はピリピリした雰囲気を崩さなかった。ほとんど会話も無いまま、ひっそりと風呂を済ませて、布団に入ったのが九時半頃だっただろう。

 慣れないことの連続で疲れ切っていたわたしはすぐに眠りに落ちたが——ふと、鼓膜を引っくような音で目が覚めた。

 寝起きの頭が、い草とシーツの糊の慣れない匂いに混乱する。少しして、妹尾の家に泊まっていることをやっと思い出した。

 部屋に時計がないので、時刻がわからなかった。母の腕時計を見せてもらおうと隣の布団を見ると、ぺったりとしぼんだ掛布団が残るばかりだった。

 トイレだろうか。それとも、最近わたしに隠れて吸っている煙草だろうか。

 ——帰ってこなかったら、どうしよう。

 そんな、わけもない不安に駆られたのは、この家に来てから母の知らない姿ばかりを見せられたせいかもしれなかった。授業参観にもTシャツとデニムで駆け付ける母が化粧をして髪を整え、わたしがテストで失敗しても優しく慰めてくれる母が、あんな怖い、悲しそうな顔を——。

 暗闇の中でじっとしていると、不安がぶくぶくと膨れ上がって息が詰まりそうだった。わたしは布団を抜け出した。

 階段に足をかけると甲高い軋み音がした。起きた時に聞こえたのは、母が階段を下りた音だったのだろう。向かいの義一たちの和室は静かだったが、その隣の部屋には明かりがついていて、貴也の携帯ゲームの音がかすかに聞こえてきた。

 一階はもっと静かだった。時々コオロギの短い鳴き声が聞こえたが、それが途切れると耳鳴りのような沈黙が押し寄せた。近くに住んでいると話していた佑次郎夫妻ももう帰ったようで、座敷も台所も電気が消え、夕食時の明るさが嘘のようだった。剛一郎の部屋からはうっすらと明かりが漏れていたが、隣の和室や納戸の前は暗闇に沈み、自分の足元さえよく見えないほどだった。

 母は何処に行ったのだろう。納戸の向かいのトイレからは何の音も聞こえなかった。向こう側のトイレか——それとも、家の外に出て行ってしまったのだろうか?

 玄関に向かおうと中庭の横の廊下に踏み出すと、床がギイッと悲鳴を上げ、家中に響き渡るようだった。できるだけ静かに、体重をかけないように次の一歩を踏み出すが、ゆっくりした動きに合わせて甲高い音が長引いただけだった。

 

「鬼の話を聞かせてください」は全4回で連日公開予定