初めて出逢った夜、彼女の義眼に心を奪われた。それは妖しく光をたたえて小さな夜の闇を映していた。初対面の女が狂おしいくらいに愛しくてすぐにでも抱きしめたかった。しかし、その時、僕は普段からの常識人の顔を保って「初めまして」とだけ挨拶をした。本当は「初めまして」と言うのもおかしな状況だったのだけれど、自己紹介から始まる会話は僕の欲望をゆっくりとなだめていった。彼女が「小夜子さ よ こ」という名で、名前に小さな夜を抱えていると知った時は、納得のあまりうんうんと少し頷いてしまったかもしれない。

「今どきの名前じゃないでしょ。ほら、子がつく名前って最近ほとんどないから」

 それは僕の納得には全然関係ないのだけれど、まあいい。

「嫌いなの?」

「ううん、好き」

 僕達は他愛のない会話を交わし続けた。そして僕が切望した通りに何日か後には彼女をぎゅっと抱きしめていた。もう一生離さないと思いながら。

「一目惚れなの?」

「そうさ、一目惚れさ」

 彼女はその答えに顔の左半分ではにかみ、右半分で切なそうにうれえた。僕から見る右半分、彼女の左目にその愛しい義眼はある。

「こんな目なのに?」

「ああ」

 それは関係ないとか、全然気にならないとか、そんな風に言えば小夜子は右半分にも微笑ほほ えみを浮かべたかもしれない。彼女は義眼を負い目に思っている。それはわかっているけれど、そんなちょっとした嘘を言葉に出来なかった。いや、それは僕にとっては大した嘘だ。

「こんな目なのに?」

「そんな目だからだよ」

 頭の中ではそう答えていた。しかも僕はその義眼に一目惚れしたのだと言いたかったが、辛うじて「ああ」だけで思いとどまった。本心を一生隠し続けるのかな、とふと思った。僕の中ではすでに彼女と添い遂げようという決意なるものが根づいていたからだ。そして想像してしまう。「僕が人生で一番魅かれたものが君の義眼だった」と死ぬ間際に言ってみたら小夜子はどんな顔をするだろう。そうしようと決めると、それは一生の終わりを飾るに相応ふさわしい楽しみになるように思えた。ささやかな楽しみは最後に取って置くことにして実際にはこう付け加えた。

「その目も君の一部だから」

 これは嘘ではない。義眼は確かに小夜子の一部だ。小夜子に入っているからこそ素敵なのだ。僕が愛しているのは義眼ではない。それだけなら砂場にまぎれた傷だらけのビー玉とさほど違いがない。小夜子の名前の中にある「小さな夜」という響きを僕が二番目に愛しているのと同じように小夜子の一部であることはとても重要なのだ。

 一つ気になることがある。我慢していたけれど思い切って聞いてみた。

「義眼を外すことってあるの?」

「あるわ。でも眠る時もしてるの。外したらびっくりするでしょ」

 一瞬で考えた。義眼を外した彼女を僕は愛おしく思えるだろうか。

「そうだな、少しびっくりするかも。どこかにコロコロと転がってたら」

「そっち?」

「え、どっち?」

「びっくりするって言ったのは私の顔の方だよ」

 失敗した、と思ったが彼女は笑っている。セーフだ。

「大丈夫よ。あなたの前では絶対に外さない。それに転がらないわよ。球体じゃないもの」

 彼女は携帯で検索した義眼のサンプルを見せてくれた。それはちょっとしたコンタクトレンズみたいだった。少しも心魅かれない。彼女の携帯の画面を覗き込みながら顔を上げると、彼女の左目が目の前にあった。小さな闇は今日もそこにある。僕は無性にその目にキスがしたくなった。それなのに彼女が目を閉じてしまったので代わりに唇にキスをした。彼女と普通のキスをしながら僕は目を開けたまま彼女の閉じられた左目を一心に見つめていた。僕の最愛のものを優しく包むまぶたさえ愛しい。僕は我慢できずに彼女の瞼にもキスをした。彼女の肩が少し震えた。

 キスしてから数日後にはプロポーズをした。小夜子は頷いたが、口にした言葉は否定的だった。

「私のこと、何も知らないのに」

「じゃあ、少しだけ知っておこうかな」

 町田まち だ小夜子、三十二歳、化粧品会社で電話のオペレーターをしている。

「電話だと初対面の人でも驚かないですむでしょ」というのが彼女の言葉だ。僕とは比べものにならないが、彼女の義眼への執着もかなりのものだ。

 

 夜に散歩をしていて携帯電話を見つけた。公園のモニュメントの隅に捨てられたように置いてあった。黒くて何の柄もないシンプルなものだ。なぜか飾りっ気のない黒い携帯の持ち主は女のような気がした。夜の闇に紛れてわずかに外灯の明かりを反射しているだけのそれを僕が見つけたのは奇跡に近い。手に取った瞬間にいきなり鳴り出したので、出てみると、若い女の声がした。僕は「ほらね」とつぶやいたかもしれない。どこにいるのかも聞かずに、すぐさま届けますと伝えた。彼女は携帯をどこに忘れたのか初めからわかっていたようだ。携帯を鳴らしてみたもののまさか誰かが出るとは思ってもみなかったらしい。だから僕が見つけたのはやはり奇跡だ。

「声には自信があるの。だから届けてくれるって言ったんでしょ」

「そうだな、いい声だった。だから届けたのかも」

 彼女の望む答えを口にした。本当は手に取った黒い携帯のひんやりとした手触りに心魅かれ、傷一つないぴかぴかの黒い携帯をひっそりと忘れる女に会ってみたかったからだ。

「私の左目はね、二十歳はたちまであったの」

 今だってあるじゃないかとつい言いそうになる。しかし僕は元来思ったことをすぐ口にする性分ではない。それはこれからも僕を世間に同化させることに役立つと思う。

 小夜子は短大を卒業して保育士になるつもりでいたらしい。だが学生時代に始めたベビーシッターのアルバイト中に事故にあって左目を失くしてしまった。

「爆弾が公園に置いてあったの」

 爆弾、公園、僕の心にさざなみがたった。

 僕は小夜子より二つ年下の三十歳で薬品会社の研究員として働いている。高校時代から理系の教科が得意だった。高校生の時、外国で爆弾テロが相次いだ。そのニュースを見て僕は「爆弾を作ってみようかな」と思いついた。僕は化学部で先生の信頼を得ていて薬品庫の鍵を預かることが度々あった。怪しまれないように時間をかけて薬品を盗むことが可能で、証拠を残さないように上手くやれた。なくなっているとわからない程度の材料で大した爆弾が作れるはずがない。爆弾と言っても少し人を脅かすくらいのものだ。僕はテロをおこす気はなく、人を傷つけたいとも思っていなかった。ただ爆弾を作るということとそれによって少しばかり驚く人達がいてくれることに興味があっただけだ。僕の爆弾には殺傷能力などないと信じていた。

 ところが学校からの帰り道、ふと目をやった歩道のひび割れた穴にパチンコの玉が一個挟まっているのを見つけた。一瞬光を放ったように金属の塊は輝いた。綺麗に埋まっていたのに指で触ると簡単に取り出せた。爆弾を完成させたのはその日の夜だ。僕は折角拾ったのだからとパチンコ玉を爆弾の中に仕込んだ。

「爆弾には一個だけパチンコ玉が入れられていたの。悪意の塊。それが左目に当たって私の目は失くなってしまったの。事故というか立派な事件よね」

 正直なところひどい結果は少しも想像していなかった。悪意なんてなかったと今すぐ告白したかった。過去の僕達の繋がりを知らされて心は大きく波打った。

 

 僕は爆弾を深夜に作りあげてからそのまま自転車で家を出た。爆弾は白い小さな箱だ。朝までに家に帰る時間を計算しながら出来る限り遠くまで自転車を走らせ、住宅街にある小さな児童公園を見つけた。爆弾は遊具から離れた植え込みの下に置いた。そして夜中の公園で色々と空想した。

 出来れば子どもが見つけた方がいい。爆発にとてもびっくりするだろう。遊具に行かず植え込みを覗き込むような子どもなら少し天邪鬼あまの じや くだ。驚いて、パチンコ玉が当たるくらいが人生の始まりの頃にはちょうどいい。少し泣けばもっといい。自然に顔がほころんだ。

 公園の外灯は薄暗く、遊具の動物達がオレンジや黄色や緑に色付けされているのが辛うじてわかる。顔つきさえおぼろげなのにトラやウサギが僕に向かって少し笑っている気がした。

「ちゃんと見届けてよ」そう声に出して僕は公園をあとにした。

 犯人が現場に二度と戻らないのは捕まらないための鉄則だ。だからもうここには来ないと決めた。達成感に浸りながら自転車を漕ぎ続け夜が明ける前に家に帰り着いた。

 次の日、大きな、そう十年以上たった今でも特集が組まれる程の大きな飛行機事故がおこった。新聞の紙面もテレビもその事件一色で僕の爆弾は何事もなかったようにほとんど消えてしまった。小さな、小さな記事が新聞の隅っこに載ったが、爆発の状況は少しもわからなかった。続報は遂に報道されることはなかった。

「私の目が潰れた日は、あの飛行機事故がおこった日なの。日本中の人がその事故に注目している時に左目を失くしてしまったの。犯人は結局わからなかった」

 今は亡くなってしまった小夜子の母親はその頃病気で入院していたし、父親はもっと前に亡くなっていた。目の手術費や治療費は全部ベビーシッター先の家庭が負担してくれたらしい。ベビーシッターと言ってもあずかっていたのは赤ん坊ではなく三歳の女の子だ。元々、爆弾を爆発させたのは子どもの方で、巻き添えを食ったのが小夜子だ。子どもの両親は小夜子が子どもをかばって左目を失くしたことに心を痛めた。

 あの時、僕は爆発の様子を知りたかった。しかし現場に戻るのと同じぐらい調べることも危険だと知っていた。結局何も知らないままで生きてきて記憶の隅に片づけていたのに、いきなり状況を知る機会を得た。こんな感じ、前にもあったなと思った。

 子どもの頃、シリーズ物の本を全巻揃えて持っていた。もちろん本を読むのは好きだったけれど、その時は全集を揃えるということが一番の目的だった。揃ってからは順番にずらっと並べて一人でニヤニヤしながら眺めていた。読むのは番号順ではなく表紙の絵柄や副題に魅かれる順だ。ある日、本棚に空白があるのに気づいた。ちょうど一冊分が抜けている。時々部屋から持ち出していたが、なくした経緯が思い出せない。捜したのに見つからず、諦めはしたがずっと気掛かりだった。しかしなぜか欠落した一冊を再び買おうとは思わなかった。本があった部分は長い間ぽっかりと穴が空いたままだった。気掛かりがどんどん薄れて殆ど忘れてしまった頃、家具の隙間からその一冊を見つけた。あの時、全巻が再び勢揃いして心の穴まで塞がったような気がしたものだ。その時の気持ちと似ている。

 長々と過去へと思いを馳せていたら、傍に小夜子がいることをうっかりと忘れていた。知らず、知らずに少し笑っていたようだ。

「何が可笑お かしいの? 爆弾、パチンコ玉、飛行機事故、犯人?」

「えっ、犯人、僕が?」

「じゃなくて今笑ったでしょう。笑うとこ、どこにあったの?」

 僕は咄嗟とつ さの言い訳が出来なくて黙ったまま目を伏せた。それから少しずつ神妙な表情を作りながら、殊更こと さら真剣な眼差しで小夜子の不審を払拭する努力をした。

「どんな爆発だった?」

「それは私が左目を失った状況を聞きたいってこと?」

 さっきみたいに油断して笑みが漏れないように気をつけながら頷いた。

「あずかっていた女の子を連れて近くの公園に行ったの。ひなちゃんという子。あんまり大きくないけど遊具があったからその公園には時々行っていたの」

 昼間の様子があまりイメージできないけれど広さや遊具の配置は何となく覚えていた。そうだ、トラやウサギだ。本来は大きさが全然違う動物が同じ規格で点在していた。

「朝の割と早い時間でね、他には誰もいなかった。朝露あさ つゆで遊具が濡れていたからやっぱり帰ろうかとひなちゃんに言ったの。それなのに何と爆弾、見つけちゃったのよね」

「どこにあったの?」言葉を慎重に選んだ。

「入口近くの植え込みのとこ。ひなちゃんが見つけて駆け寄ったの。白くて小さな箱でね、蓋を開けた途端ボンって音がした」

「ボン? 爆弾にしちゃあ、ずいぶんと間抜けな音だね」

「だって、ひなちゃんは驚いて泣いたぐらいで傷一つなかったの。火花が散って箱は燃えてなくなった。まんまと証拠隠滅は成功したってわけ。爆弾の威力は殆どなかったって後で聞かされたわ。爆弾はパチンコ玉を一つだけ猛烈に飛ばすことに全力を尽くしたんだって」

「痛かった?」

「破壊的に。一瞬で目が潰れたとわかったもの。運が悪いよね。お腹とかだったら小さな青痣あお あざ一つ作って済んだかもしれないのに」

 いくら僕が愛しても大事にしても僕と出会うまでの小夜子の痛みは消えない。知りたかった過去の空白は埋まったけれど、一冊の本を挿し込んだ時のような達成感はない。小夜子は義眼になって不幸になったのだろうか。そもそも、今は幸せなのだろうか。

「元通りになりたいと思う?」

「それは目が潰れる前に戻りたいって意味?」

「そうだね。多分その意味」

 彼女は黙ったままで答えを口にしなかった。「元に戻りたい」と切望していないように見えるのは僕の贔屓ひいきだろうか。

「爆弾犯を憎んでいる?」

「犯人はどうしているのかなぁ」

 それは安穏としていて、幼馴染おさな な じみを懐かしむような声に聞こえた。

「普通に暮らしていたら許せない」

 違った。彼女は僕を憎んでいる。

「許さなくていいよ。一生、憎めばいい」

 僕は彼女を抱きしめた。彼女は唇をみながら肩を少し震わせた。きっと顔も知らない犯人への憎しみに心震わせているのだ。一瞬「その犯人は僕だ」と憎悪の具体化に協力したくなった。彼女のきつく閉じた目から涙が溢れ出した。愛しい左目からも流れてくる。手で瞼をなぞると、指先に震えが伝わった。彼女は怒っているのではなく哀しんでいるのだと気づく。

「哀しいの?」

「結婚してくれる?」

「もちろん。プロポーズしたのは僕だ」

 

「爆弾犯と殺人犯の物語」は全4回で連日公開予定