1 声は温かくて、穏やかだった。
あなたの目は、ほかの人が見逃してしまうものが見えるのね。幼少期、母は私の目の良さをそう表現した。電車に乗り込んできた親子を見て、私はふとその言葉を思い出した。真結、あなたは人よりもよく、ものが見える。
母親は濡れた上着の肩を払いながら、もう、とため息をつく。
「傘、持ってくるの忘れちゃったね」
真新しい交通安全のキーホルダーをリュックにつけた子供のほうも、母と同じように服についた水滴を払いながら、つぶやく。
「まったくもう、さいあく」
しぐさも言葉づかいも、母親の影響を受けているのがわかって、可愛らしかった。交通安全のキーホルダーは、少年の通っている小学校で配られたものなのかもしれない。今年一年生になったばかり、と勝手に想像してみる。
そっと背中を向くと、窓に水滴がついていた。それほど強い雨ではなさそうだが、これからもっと降り出すのだろうか。
電車が動き出してすぐ、親子に気づいた女性が座っていた席から一つ隣にずれて、二人分のスペースをつくる。母親がそっとお辞儀をして、息子の手を取り一緒に座った。
息子とつないでいた手を見る限り、母親のほうは私よりも五つか六つくらい上の年齢だと思う。たとえば今年中に私が誰かと結婚して、すぐさま子宝に恵まれれば、あの母親と同じ速さで人生を歩むことになるのかもしれない。現状はまったく想像がつかなかった。
電車が速度をあげると、窓につく雨粒の形も徐々に変わっていく。文章の途中に打つ読点に、似ていた。停車していたときについた句点のような形の雨粒もまだ残っていて、一面に不規則な模様を描いていく。一生見ていられそうだった。カバンのなかのミニスケッチブックに描き起こそうかとも思ったが、次の停車駅は人の乗り降りが多いのでやめた。
ぞくぞくと人が乗り込んできて、空いていた私の隣の席もすぐに埋まった。シンプルな身なりをした三〇代くらいの男性。座ってすぐにスマートフォンをいじりはじめる。誰かにメッセージを打っているようだ。もう一秒時間があれば内容まで読み取れそうだったけど、察知される前に視線を逃がす。
鉄道会社の制服を着た男性も乗り込んでくる。席には座らず、ドア付近に邪魔にならないよう、置き物みたいにじっとしはじめる。肩幅が広く、細い目つきをした男性。
最後にお爺さんが乗ってきて、優先席に座っていた青年が、友人らしきもう一人の青年に促されて急いで立つ。お爺さんは小さくお辞儀をして座る。
「ごめんね。二駅先ですぐなんだけどね」
「あ、いえ」
青年たちも同じ角度でお辞儀を返して、二人は優先席付近から離れていく。小さな優しさが広がる光景をもう少し目にいれておきたかったけど、別の男性が発車直前に乗り込んできて、その人の体で見えなくなってしまった。男性のかけているヘッドフォンからかすかに音漏れしていて、隣に立っていたスーツ姿の女性が、彼から横に一歩離れる。女性は通勤用らしきカバンからワイヤレスイヤホンを出して、そのまま耳につけた。吊革をにぎりながら、次に文庫本を取り出して、片手で読み始める。イヤホンは音楽を聴くためではなく、防音のためにつけたものらしい。手の甲の親指の付け根にほくろがあって、それも印象的だった。
文庫本のタイトルと表紙、それに著者名が目に入る。油絵のような趣のイラストで、青い正方形の箱と、その箱に座るスーツとハットをかぶったシルエットの男性が描かれている。男性からはみえない位置、箱の反対側に女性のシルエットも描かれていた。タイトルは『夕暮れをすぎて』で、著者名は『S・キング(Stephen King)』とある。スティーヴン・キングか、と頭のなかで合致する。大学生までは読んでいたけど、最近は本自体をあまり読まなくなった。代わりに増えているのは映画を観る時間かもしれない。
あなたは人よりもよく、ものが見える。逆にいえば、余計な情報さえつい拾ってしまう。良いか悪いか、意識的か無意識的かにかかわらず、すべての情報が平等に飛び込んでくる。母はあのとき、別に褒め言葉のつもりで言っていたのではなかったのかもしれない。
雨がまた少し強くなる。親子に視線を戻すと、息子のほうはゲーム機で遊びはじめていた。車窓から住宅街が消えて、土色の斜面があらわれる。切り開いた山の間を走っているらしい。車輪の音が響き始めて、トンネルが近づくあの独特の雰囲気を感じてすぐ、車窓が黒く染まった。車内に蛍光灯の明かりがついていたことを、そこで初めて知る。私の左隣に並んで座っている男女が、トンネルに入ると同時に、息継ぎをするみたいに盛り上がっていた雑談をやめる。数秒空いて、また男性が会話を再開させる。
「それでね、ティラノサウルスっていうのはね――」
こっそり拾おうとしていた声がそこで途切れた。そのとき、向かいの席では居眠りする母親の横で息子がゲーム機に熱中していた。何かに敗北したのか、悔しそうに顔をゆがめていく。
それが私の目にした、日常が吹き飛ぶ前の最後の光景だった。
まず、車内中に甲高い機械音が響き渡った。進行方向に引っ張られる体を立て直しながら、ブレーキの音だと理解して、次の瞬間には全身が浮いていた。
吹き飛ぶ。そう、吹き飛ぶ。まさにその表現が正しい。
座っていた座席が吹き飛んだ。前にいた親子が吹き飛んだ。ヘッドフォンの音楽に身をゆだねていた男性が吹き飛んだ。お年寄りに席をゆずった青年の靴が見えた。誰かのカバンが顔面に直撃した。吊革がなぜか足元に見えた。足が地面につかない間に、すべてが暗闇に包まれる。何かとてつもなく大きな手が、私たちの日々をまとめて払いのけるような、そういうイメージが浮かんだ。
重力の位置が分からなくなった。終わったと思ったらまだ終わってなくて、体中があちこちにぶつかる。何かにつかまりたいけど、すべてが手からすり抜けていく。たえまない衝撃と、壊れていく音。聞こえていたはずなのに、気づけばいまは聞こえない。ぽー、とエラーを起こしたみたいに一定の音が耳で鳴り続けている。
一度意識が途切れたのか、そこで記憶を落とした。気づけばどこかに寝そべっていて、スケッチブックや鉛筆、メモ帳にスマートフォンを入れたカバンがなくなっていた。探そうにも何も見えないし、そもそも体が動くのかどうかもわからない。
「ううううううぅぅ!」
近くで声がした。女性か男性か、どちらのうめき声かは分からない。右のほうで聞こえたかもしれないし、左かもしれない。それとも上か、あるいは下か。
顔を動かすことができて、少なくとも体と顔をつなぐ首の筋肉は動き、なおかつ意識はあるのだと安心する。でもすぐに途切れるかもしれない。首から下はぐしゃぐしゃになっていて、だから一つも動かせないのかもしれない。
左手は。左手はどうだ。脳の次に、私が一番動いてほしい場所。一番失いたくないもの。もしも左手がつぶれていたら、二度と筆を握れなくなる。右手が無事だとしても、タッチは変わる。同じ絵は二度と描けなくなる。
小指から動かして、ゆっくり拳をつくる。開いて、閉じてを繰り返し、指が正常に動くことを確かめる。左手も右手も大丈夫だった。そこでなぜか急に冷静になって、事態を理解した。脱線。トンネルのなかの脱線。私は脱線した車両のなかに閉じ込められている。
しだいに恐怖が支配して、思わず泣きそうになった。叫ぶ前に、ほかの誰かが悲鳴をあげだした。女性だと思う。
「で、電話! 誰か電話! こ、こここれこれ脱線してる! と思います! 誰か助けを呼んで! 携帯なくしちゃってて!」
応答するものはいない。あちこちでうめき声がする。近くで聞こえるものと、そうでないもの。何も見えない。自分はいま車両のどこにいるのか。叫んだ女性はどこから助けを求めているのか。
思いついて、持ち上げていた左手の力を抜く。震えて失敗し、二回目で、手のひらが床に落ちることがわかった。自分はうつぶせで倒れているのだ。
口のなかに何かごろごろとした物体があるのに気づいて、つばと一緒に吐く。たえまなく口内から液体が流れる感覚があり、血の味がする。吐きだしたのは、砕けたか抜けたかした歯だったのかもしれない。
『見えないままの、恋。』は全4回で連日公開予定