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 手を伸ばしながら進む。
 すると指の先が何かに当たった。手を当てて探ると、湿った感触があった。やがてトンネルの内壁だとわかった。壁が見つかったのはラッキーだ。沿って進んでいけばいい。
「ふた手に分かれますか? 壁に沿って、右と左に」
 提案すると、少しの間があって渡良瀬さんが答えた。
「……ではそうしましょう。でも無茶はしないで。少しでも危なそうなら戻ってきてください。声は定期的にかけ合いつづけましょう」
 そうします、と答えて、私たちはふた手に分かれた。
 見つかったのは出口ではなく問題だった。私が選んだルートはすぐに行き止まりになってしまった。何か大きなものが横たわり、それが進路をふさいでいた。
 立ちふさがる壁の一部に触れると、ひどく冷たい。溝のようなものが流線型に入っている。この冷たさは金属だろうか。そこまで考えて、ようやく思い当たった。車輪だ。
 目の前をふさいでいるのは、横転した車両だ。それも一両だけじゃない。天井まで暗闇の濃淡が変わらない。積み上がっているのだ。
 なかにはどれだけのひとがいるのだろう? 声は聞こえるのだろうか? 誰か無事なら、どうして誰も、何も言わないのか。どうしてどこからも、悲鳴や助けを求める声が聞こえないのか。
 怖くなって引き返す。彼の名前を呼ぶ。わたらせさん、ワタラセさん、渡良瀬さん。心が臆病になっていく。恐怖にまた支配される。
「鈴鹿さん」
 声が想像したよりも、ずっと近くで聞こえた。伸ばした手が布に触れる。彼の体だった。落ち着いて、と語りかけるように、渡良瀬さんは私の手をそっと握ってくれた。いくらか冷静になり、彼から離れる。
「す、すみませんでした」
「いいんです。それより、そちらはどうでしたか?」
「だめでした。車両が横たわってるみたいです。たぶん何両かが積み重なって天井まで……」
 そうですか、とつぶやき、一拍置いて彼も答える。
「こちらもだめでした。土や石が積み上がった壁にいきあたりました。おそらく土砂か何かだと思います」
 出口はない。すべてふさがれている。車両から出られても、視界は依然として暗闇から脱出できていない。
 私たちは自力では、ここから出ることができない。

 脱線の衝撃でたわんだレールが、わずかに地面から持ちあがっている部分があって、私と渡良瀬さんはそこに背中を預ける形で座った。密着し過ぎず、離れ過ぎず。間に一人からぎりぎり二人、座れるくらいのスペースが空いている。お互いに手を伸ばせば触れられる距離にいる。
「ここで待ちましょう。土砂が除去されれば、すぐに光が差し込むはずです」彼が言った。
「ここにいればすぐにわかりますね」簡単な返事しかできなかった。
 そのとき、がん、と重い金属音が響いた。外からかと期待したが、どこか車両のなかから聞こえる音だった。がん、がん、がん、と誰かが何かを打ちつけているようだった。ここにいる、助けてくれ、声が出せないんだ、早くきてくれ。その音がトンネルの外にいるであろう救助隊にはまだ届いていないことを、私と渡良瀬さんだけが知っている。
 頭が重く、喉も渇いていた。肩のあたりが痛みだしている。急に疲労がこみあげて、いま立てと言われたら、とても長い時間がかかってしまうだろう。
 渡良瀬さんが何か尋ねてきた。聞きとれなくて、謝った。彼がもう一度訊いてくれた。
「休日は何を?」
「絵の仕事があれば、その対応や準備を。ないときは映画を観てることが多いです。好きなカフェがあって、そこでは店主の気まぐれで壁にかかったスクリーンに映画が上映されるんです」
「映画は僕も好きです」
「一番好きな映画はなんですか?」
「……すぐには決められませんね」
 私もだ。同じ質問をされたら、そう答えるだろう。本当に映画が好きな人の回答だ。話を合わせるための嘘じゃなかった。このひとはたぶん、嘘は言わない。たった数十分一緒にいるだけでも、彼の誠実さが節々で伝わってくる。数十分? いや数時間かも? まさか数日? 事故からどれくらい経ったのだろう。乗っていたのは昼過ぎだった。もう夕方になっているのか、それともとっくに夜か。いまは何時だ。
 何度かやり取りを交わして、雑談が途切れる。一度眠って、目を覚ますと、直前の雑談の内容は忘れていた。眠ってしまったせいで、どれくらい経ったのかますますわからなくなった。
 喉が渇いていて、水の音に敏感になっていた。ぴちゃ、ぴちゃ、と天井から垂れてくる水滴の音や、どこからかちょろちょろと流れ込んでくる音も聞こえる。渡良瀬さんがいる方向から、水を口に含むような音が聞こえた。地面にたまった水たまりから手ですくって飲んでいるのだとわかった。私も這って移動する。
 伸ばした指先が水たまりにつかって、急いですくって飲む。これが飲んで良い水なのかどうかもわからない。泥水かもしれない。だけど一度飲むと、止まらなかった。手ですくうのも億劫になり、やがて顔を近づけて直に飲んだ。どうせ誰も見ていない。
 時間がまた飛ぶ。眠りから覚めると、レールのところまで戻ってきていた。膝や袖が濡れている。体の節々が痛んで、耐えきれずに一度吐いた。
「なるべく吐かないようにしてください」渡良瀬さんが言った。彼が近くにいることをそのときになって思い出した。
「す、すみません。不快な思いをさせて」
「そうじゃなくて、衰弱しないように。食べ物は外に出さないほうがいい」
「……なるほど」
 いつ救助がくるのか。あとどれくらい待てばいいのか。それは渡良瀬さんにだってわからない。彼は登山に精通はしているが、脱線事故には精通していない。だけど長期戦を覚悟している。まだ生きようとしている。その強さに、沈んでいた意志が、引っ張り起こされる。
 最後に誰に会いたいですか? そんな雑談の話題も思いついたが口に出すのはやめた。考えるのもやめる。
 視界がぐるぐるとまわっている。正体がわからない水を飲んだせいだろうか。しゃべっていないと、またすぐに意識を失いそうだった。
「何か苦手なことはありますか?」私が訊いた。
「大勢でわいわいと騒ぐような場所や環境は、あまり好きではありません」
「じゃあ、いまは最高ですね」
 彼が笑ったので、私もそうした。上手く笑えているかはわからない。唇の皮がむけた。
 意識が途切れて、気づいたらまた雑談をして、また途切れる。それを何度も繰り返した。空腹すぎて、雑談の最中で一度だけ彼と喧嘩をした。喧嘩というよりは、意見の応酬が少し白熱した程度だが。その話題も思い出せない。
「油絵の手順って?」「鉛筆による下描きと、色を乗せる中描き、細部を完成させていく本描きと仕上げがあります」「どこが一番重要ですか?」「選べません。好きな映画を一つに絞るのと同じくらい大変です」
「渡良瀬さんが映画を好きになる基準は?」「物語、キャラクター、カメラアングル、色彩、カット、監督の趣向が見えるものはなんでも。俳優から好きになることもありますね」「好きな俳優はいますか?」「アン・ハサウェイが好きです」
「鈴鹿さんに兄弟は?」「いません、一人っ子です」「僕もです」「渡良瀬さんはなんとなく長男という雰囲気ですね」「よく言われます。妹がいそう、とかも」「私は一人っ子だと答えると、やっぱり、なんて言われます」
 時間がさらに経った。
 一日、もしくは二日、それ以上。何時間か前かは忘れたが、一度だけ車両のほうからけたたましい女性の悲鳴が聞こえた。トンネル内に反響し、悲鳴だったその音が、しばらく頭上をただよっていた。
 助けはこない。このまま死ぬのだろう。体の感覚があまりなくて、でも左手だけはしっかり動くのが、せめてもの救いだった。
 怖い。嫌だ。死にたくない。そうやって何度か泣いて、最後には泣く気力もなくなった。
 渡良瀬さんは私が泣いて不愉快だったかもしれない。でも責めることなく、いまもそばにいてくれている。気配でそれが分かる。明らかに彼も衰弱しているが、その存在だけはまだ感じる。
「渡良瀬さん、ひとつだけお願いしてもいいでしょうか」
「……言ってみてください」
 私はかすかに動く左手を伸ばす。渡良瀬さんのいるほうへ。
「手を、握ってもらえないでしょうか」
 怖くてたまらないんです。汚い手かもしれませんが、ほんの数秒でもいいので、握っていてもらえないでしょうか。そう続けようとした。口に出す前に、彼が手を握ってくれていた。ずっとそうしてくれていた。
「……ありがとうございます」
「いいんです」
 最後に誰に会いたいですか? 何時間か、あるいは何日か前に言いだそうとして、やめた雑談の話題を思い出す。いまなら私はどう答えるだろう。両親か、仕事先の相手か、大学時代の数少ない友人か。けれども考えて、思い浮かぶのはひとつだった。
「渡良瀬さん」
「なんでしょう」
「叶うなら、あなたの顔が見たかったです。見えないままじゃなくて、あなたに会いたい」
 叶いますよ、と答えてくるだろうと思った。きっと叶います。だからあきらめないで。そう励ましてくるのを想像した。
 だけど違った。彼はこう答えた。
「僕もあなたに会いたいです」
 笑いたかった。ほほみたかった。でも口元がもう動かせないので、せめて、握った先から伝わってほしいと祈った。同じ気持ちで嬉しいです、と。
 やがて、つないでいた手が離れていく。私のほうから離したのかもしれないし、彼のほうからだったかもしれない。
 意識を手放すように、とうとう目をつぶる。
 ふいに、まぶたの裏の景色が白く飛んだ。暗くなったかと思うと、また白くなる。この点滅はいったい何なのか。
「鈴鹿さん」
 彼が呼ぶ。だけど応答する気力がない。
「鈴鹿さん!」
 今度はもっと大きな声。放っておいても揺さぶられて、無理やり起こされそうだった。しぶしぶ力を振り絞って、閉じていたまぶたを開く。
 とたんに視界が白み、そして何もかもが見えなくなった。

 それは私が、二日と二三時間ぶりに浴びた光だった。

 

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