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 どうする。次はどうする。まず何をする。あなたはほかの人が見逃してしまうものが見える。見えない! 何も見えない! 見えないのでは意味がない。
 圧倒的な暗闇だった。なぜここまで暗いのか。トンネルのなかの明かりはどうしてしまったのか。
「痛いいい! 痛いよオオオオ!」
 子供の泣き声が響いた。ゲーム機で遊んでいたあの少年かもしれない。母親は近くにいるのだろうか。子供はしばらく泣いていたが、糸が切れたように急に聞こえなくなった。気絶してしまったのか、もしくは――。
 あの少年の遺体を想像して、全身が震え始める。寒さが急に襲いかかる。唇も震えて、歯がカチカチと鳴りだす。自分の意思では止められない。
 とりあえず起き上がろう。起き上がりたい。体を起こすために腕を動かす。すると右手首のあたりに何かがぶつかった。指で触れると、何か小さなものだった。つまめるサイズの小さなもの。さっき吐き出した歯を思い出す。なんとなく、そこに残してはおけないと思い、パンツのポケットにしまった。そのときになって、別のポケットにしまっていた財布は吹き飛ばずに無事だったことを知った。財布ではなくスマートフォンをしまっておくべきだった。
 立ちあがる途中で頭をぶつける。がん、と静まる車内で金属音が響く。天井を触れると、ななめになっていて、一定の高さではないことがわかった。
 体はどこも正常に動く。信じられない。もちろん節々に痛みはあるが、動かせないほどではない。もしくは神経が高ぶって、それほど痛みを感じていないのかもしれない。いつ動かせなくなるかもわからない。
 中腰のまま進もうとしてすぐ、何かが膝にぶつかった。柔らかい素材。座席だろうか。足元でぱき、と割れる音。ガラス。一つひとつをイメージし、頭のなかに描写していく。この車両のなかはどうなっている? 寒い。六月とは思えない寒さ。
 口のなかが血でいっぱいになって、つばと一緒にまた吐きだした。袖で拭ったあと、買ったばかりのカーディガンだったと思い出す。しかも色は白だ。もう着れない。そもそも私が服を着替える機会などもうないのかもしれない。助けはまだこない。
 手を伸ばして進むが、すぐに壁か何かにあたり、外に出られるスペースが見つからない。トンネルはおろか、車内からも出られない。
 数分前に悲鳴をあげていた女性の声はもう聞こえない。私も叫んでしまいたかった。おさえているものを、ぜんぶぶちまけるように。そうすれば少しは楽になるかもしれない。たいていの場合、涙と悲鳴は自分を癒すためのものだ。いますぐ泣いて叫びたい。お願い。お願い、誰か──。
「誰かいますか?」
 重なった。口に出していない私の言葉と、そのひとの声が、ふいに重なった。男のひとの声で、近くにいるのがわかった。
「誰か近くにいますか?」
 男性がもう一度、つぶやく。声が聞こえたほうに、一歩進む。天井がまた低くなって、中腰から膝をつく体勢になった。
「あの、そこにいますか?」今度は私がつぶやく。暗闇の先で身じろぎするような音がして、すぐそこに声の主がいた。
「よかった。無事ですか?」
 男性が安心するように言ってくる。何がよくて、どうして私の無事を確認してくるのかもわからなかったが、自分以外に意識がある誰かがそばにいてくれるのは、確かに心の底から安心できた。声は温かくて、穏やかだった。見た目も顔も表情も、何一つ分からない相手だけど、その声だけが私の震えを少しだけ和らげてくれた。
「こっちは無事です。そちらは大丈夫ですか?」
「ええ、大丈夫です。いまのところは」
 男性は近くにいる。確かに気配があって、足を動かしたり手を動かしたりしている。私と同じように意識があり、体も動かせる。いまのところは、まだ。
 会話を続けようと口を開きかけたとき、少年の泣き声がまた聞こえてきた。よかった。生きている。気絶していただけだ。
 目は変わらず暗闇に慣れない。というより、慣れるための光量すらもない。でも人の気配が確かにある。ここは完全な暗闇だけど、しかし完全に独りというわけではない。
 手を伸ばすと、柔らかい素材の感触があった。席の一部だろう。そこにもたれかかるようにして座る。男性も近くに座ったようだった。
「救助はまだ、来ませんね」男性が言った。
「そうですね。車内に閉じ込められてる気がします」
「そちらのほうに、出られるところはありましたか?」
「見つかりませんでした」
 こちらもです、と男性が返事をする。
「スマートフォンは?」今度は私が訊いた。
「手に持っていたのですが、どこかに吹き飛びました。見つかりません」
「私もです。カバンごとどこかにいってしまいました」
 絶望的な状況を共有しあう数秒の間があって、それから男性が尋ねてきた。
「あなたのお名前は?」
 名前。私の名前。人と話して安心したのか、頭がぼーっとしてきた。眠気が襲ってきている。だめだ。ここで気を抜いてはいけない。
「す、すず鹿です。鈴鹿真結です」
「スズカマユさん。鈴鹿サーキットの鈴鹿」
「たぶんそれです」
 名前の漢字も教えたほうがいいだろうか。いや、いまはどうでもいい。私は鈴鹿サーキットと同じ漢字の苗字を持つ鈴鹿さんだと分かれば、それでいい。
「僕はわた良瀬らせです。名前はけいといいます」
「渡良瀬川の渡良瀬」
「ええ、そうです」
 答えながら、渡良瀬さんが少し笑った気がした。勘違いかもしれない。足や手を動かす音だったかもしれない。
 渡良瀬さんの声に動揺は見られない。彼の声は低く、それでいて聞き取りづらくなく、きちんと耳の奥まで届く。乱れることなく一定で、一音いちおんを確かに紡いでいく。呼吸の音さえ整っているように感じる。顔も背恰好も知らないのに、どこかのバーで一人、ウイスキーを飲んでいるような姿を想像してしまう。それもたぶん、席はなるべく端のほう。
「鈴鹿さんはどこへ向かう途中だったんですか?」低く整った声が尋ねてくる。
 この電車に乗って向かおうとしていたところ。おかしなことに、すぐに思い出せなかった。思考がまとまらなくなってきている。私の乗っている電車は脱線してしまった。トンネルのなかで閉じ込められてしまった。もしそうならなければ、私はどこで降りるはずだったのか。頭がまた、ぼーっとしてきた。
「すみません、急にごめんなさい」
 渡良瀬さんが応える。それで我に返った。
「動揺してて、話すどころじゃないですよね」
「い、いえ。こうして話してるのは、楽です」
 暗闇の奥で、安心するように渡良瀬さんが息をついた。
「鈴鹿さん、よければこのまま話しませんか? 互いに励まし合えれば」
「は、励ます、ですか?」
「そうです。正直、僕はいま心細いし、怖くて仕方がない。もし鈴鹿さんがよければここで一緒に……」
「でも私、人と話すのはあまり上手ではないかも」
 こんなときに何を言っているのだ、私は。
 渡良瀬さんはあきれることなく、丁寧に返してくる。
「特別なことをするわけじゃなくて、ただ話相手になってくれると嬉しいんです。救助がくるまでの他愛のない雑談です」
 会話を交わし、互いに励まし合う。話し相手になる。
 もしかしたら得策ではないのかもしれない。喉の渇きを抑えるためには、言葉を発さないほうがいいのかもしれない。けれど渡良瀬さんは言っていた。怖くて仕方がない、と。それはここにいる全員の心を代弁している言葉だった。
 体力が疲弊しない程度の会話なら。それでいま抱いているこの恐怖が、少しでも和らいでくれるなら。
「わかりました。励まし合いましょう」

 

『見えないままの、恋。』は全4回で連日公開予定