最初から読む

 

雑談は脳が疲弊しない程度の簡単なものだった。どちらかの質問に、どちらかが答える。基本的にはその繰り返しで、かつ互いの存在がそこにいるとわかる、適度な量のやり取りだった。
「渡良瀬さんはどこへ行こうとしていたんですか?」
「利用者さんのところへ訪問介護に。介護福祉士をしているんです」
「そうでしたか。立派なお仕事ですね」
 一秒ほどの間。そして暗闇から質問。
「鈴鹿さんのご職業は?」
「……ライターをしています。編集プロダクションで。会社員ではなく、業務委託ですが。それと、一応、兼業で画家をしています」
「画家ですか。それはすごい」
「いえ、ぜんぜんすごくないです」
「いつかはそちらを本業に、ということですか?」
「そうです。いまはまだ全然ですが」
 人が見逃すものが見える。細かいところまでよく見ている。幼少期、いろいろな言葉でいろいろな大人が私の性質をあらわしてくれた。言い方や表現は違っても、ようは何か物を目にしたとき、そこから吸収できるディテールの量が、ひとよりも多いということだ。物を見るときの解像度が、ひとより少し高い。それが唯一の特技だと思ったし、逆にそれ以外は何もできないという負い目があったから、だから私は絵を描こうと思った。
「絵を描くっていうのは、キャンバスを出したり、こう、キャンバスを立てる器具を使ったり、そういうことをするんですか」
「そうです。油絵なので。ちなみに渡良瀬さんがおっしゃる器具というのは、おそらくイーゼルのことです」
「そう、それ。イーゼル」
 雑談。こんな暗闇のなかで雑談。見えないまま、ただ聞こえてくる声に応答している。ひとりじゃないということを、確かめ続けている。
「どんな絵を描かれるんですか?」
「いまは主に肖像画を」
「肖像画? 昔の貴族を描くような?」
 渡良瀬さんの言葉に、小さく笑う。今日、初めて笑ったかもしれない。車内ではいまもかすかに、誰かのすすり泣く声が聞こえる。それなのに、私は笑っている。感覚が麻痺してきているのだろうか。
「確かに肖像画ときくと、そういう何世紀も前の絵というイメージがあるかもしれません。けれどいまでも、意外と多いんです。美大の卒業制作で、同級生と共同個展を開いたとき、たまたま立ち寄って目にしてくださった企業の社長さんがいて、私に依頼をしてくれたんです。実際に描いた絵も気にいってくださって、それがきっかけでした」
「なるほど、社長ですか。経営者の方が多いということですね」
「それ以降は人からの紹介で細々とやっています。自分の祖母を描いてほしい、なんていう依頼もありました。まだ食べていけるレベルではありませんが」
 少し私が話し過ぎているように思い、そこで説明を止めた。
 雑談を広げるための種を探す。何か芽が出そうな話題はあるか。
「渡良瀬さんは、趣味とかは?」
 何かに似ているなと思って、学生時代に友人に付き合わされた合コンを思い出した。数合わせに誘われて、まともに話もできなくて、二度と行かないと決めた合コン。でもあれよりはずっとマシだ。顔は見えないし、気もずっと遣わなくていい。いや、車内で半分生き埋め状態になっているいまのほうが、よっぽど酷い状況か。
「趣味は山登りです。僕のような年の独身男性が自然と行きつく、ありきたりな趣味のひとつですね」
「失礼ですが、渡良瀬さんはおいくつなんですか?」
「今年で三一になります」
 私の五つ上。声で想像していたよりも、少し若い。四〇代に届くかぎりぎりくらいだと思っていた。
「私は二六です」
 礼儀としてなんとなく、聞かれるよりも前に返したほうがいい気がして、シンプルに答えた。暗闇の奥で渡良瀬さんがうなずいたような気がした。彼は趣味の話に戻っていく。
「休日はいつも近くの山に。電車で行くこともありますが、たいていは車を使っていきます」
「山登りはどんなところがいいのでしょう」
「一人になれるところです。完全な一人ではもちろんありませんが、登っている最中は、登っていることだけを考えていられる。誰にも邪魔されず物事に集中できるというのは、ある種、一人でいるのと同じことだと思っています。つまり、自分という存在に集中できるんです」
 その答えを聞いて、渡良瀬さんという存在が一気に、私にとって身近なものになった。同じだったからだ。一人になれる。絵を描いている間は、何も考えず一人になれる。余計な邪魔は入らない。一人でいることに、ただ集中できる。だから私は絵を描いている。
 彼のよく通る声が、心地よく私の心を代弁してくれているような心地になった。その一瞬だけ、本当に現状の危機を忘れることができた。
「素敵ですね。いつか私も登ってみたいです」
「ぜひ一緒に」
 礼儀として返してくれたのがわかる。ええ、ぜひ、と私も返す。見えないままの彼の声をもっと聴きたくなって、質問を続ける。
「山登りの趣味はいつから?」
「大学からですね。山岳部に入っていました。そこで一度、遭難した経験があるんです」
「遭難、ですか」
「私が足を滑らせて、崖下に落ちたんです。先輩も一緒に落ちて、彼の適切な処置と対応で無事に乗り切ることができました」
「怖かったですか」
「ええ、とても。ですが救助が来る間は先輩が励ましてくれたんです。お互いに声をかけあいました」
 励ます。声をかけあう。
「その経験があったから、この雑談を?」
「はい。同じように乗り越えられたので」
「それは心強いですね」
 どうでしょうか、と、暗闇の奥で渡良瀬さんが苦笑いをした気がした。顔も表情も見えないけれど、そういう雰囲気の答え方だった。
「山といまでは、だいぶ状況が違います。脱線の情報はおそらく鉄道会社にも伝わっているはずだし、救助に動き出してくれているはずですが、山のようにヘリで来てくれるわけでもない。山とは違って密閉されているし、風だって――」
 そこで渡良瀬さんが言葉を止めた。
 何かあったのかと呼びかけようとしたとき、彼が言った。
「風が、ある」
 え? と、私も背もたれにしていた座席の一部から身を起こし、顔を四方に向けてみる。彼の言う風はすぐには感じなかった。けれどこれまで一定だった彼の口調のトーンが、ほんの少しだけ興奮を帯びているのがわかった。
「……やっぱり、風です。風を感じます。どこからか流れ込んできてる。もしかしたら、車内から出られるかもしれない」
 渡良瀬さんが立ち上がる気配があった。といっても天井は低く、ほとんど中腰かしゃがんでいる状態だろう。
「こっちです鈴鹿さん。こられますか?」
 靴や布を擦るような音が遠のいていく。彼の進んでいく方向はわかったので、それについていく。数メートル這っていったところで、彼の言う風がようやく私にも感じることができた。ほんのわずかだが、頬を撫でてくる。小さな子供がいたずらをするみたいに、そっと吹きかけるような息を連想した。
「こっちです」と、渡良瀬さんはしきりに私に呼びかけてくれていた。おかげで彼の存在を見失わずに済んだ。見失う? 表現として合っている?
 膝がするどい何かを踏んで、痛みが走る。叫ぶほどではなかったが、意識の一部を鈍く支配してくる。ガラスを踏んだのかもしれない。
 ばき、と何かが砕ける音が響いた。思わず飛び上がり、身を縮める。渡良瀬さん? と暗闇の奥へ呼びかける。
「こっちです! 窓を割りました。出られます」
 進んでいく。気づけば天井がいくらか高くなっていて、中腰になることができた。彼の声が近づく。
「手を伸ばせますか? なんとかつかんでみます」
 言われるがままに、前に手を出す。やみくもに両手をうろつかせていると、男の人の手が、私の右手をつかんだ。驚いて小さく悲鳴をあげると、すみません、と彼の声が返ってきた。耳の奥に彼の声がしみこんで、それで落ち着いた。
 握る力は強く、そして大きな手。何よりも温かい。幻じゃなく、確かにそこにいるとわかる体温。なぜか急に泣きそうになった。こらえるのが大変で、一度だけみっともなく、大きく鼻をすすった。
「ここです、わかりますか?」
 彼が手を引き、導いてくれる。すると暗闇のなかにわずかな小窓が見えた。そこだけ明らかな濃淡があった。漆黒のなかの、淡い黒。外だ。
 一度手が離れ、渡良瀬さんが先に窓から外に出ていく。ほんの少しだけ彼のシルエットが見えた。
 目をつぶるように言われたので、そうする。がしゃ、がしゃ、と何かが細かく砕ける音。私が窓を通りやすいように、枠についていたガラスを落としてくれているのだとわかった。
「もう一度、手を」
 すがるように、窓のほうに手を伸ばす。すぐに彼の手が私をつかんだ。今度は叫ばなかった。強く握りあって、そのまま半分引っ張り上げられるように、私は窓から外に出た。
 電車のどこの部分を歩いているかはわからない。とにかく、何かの段差をゆっくり下りながら、とうとう地面に足をつける。力が入らず、その場にへたりこんでしまう。彼のシルエットが見えて、そばで立ってくれているのがわかる。顔や表情は見えない。服装も分からない。肩幅が広くて、あとは細身の印象。身長は一七五センチよりも上かもしれない。
「トンネル内です。やっと出られた」
 その言葉で我に返る。彼の観察をしている場合ではない。車内から出られた。あとはトンネルを進んでいくだけだ。そうすれば外に出られる。
 彼の手を借りずに立ちあがる。膝と肩に痛みが走る以外に、問題はなさそうだった。本当に骨折すらしていないのだろうか。興奮で痛みがないだけか。それならば、本格的な痛みがやってくるよりも前に、出口を見つけないといけない。
 私が立ちあがったのを察して、渡良瀬さんが言ってくる。
「歩けそうですか? 僕が見てきましょうか」
「いえ、大丈夫です。出口を探しましょう」

 

『見えないままの、恋。』は全4回で連日公開予定