春
近所の小規模スーパーで品選びを終えた七山高生はレジに向かおうとしたが、ふと立ち止まってカゴの中を見直した。
バナナも買った方がいいか? いや、まだ冷蔵庫に何本か残ってたよな?
バナナ二本とブラックコーヒーが最近の朝食の定番である。コーヒーは、以前は砂糖とミルクを入れていたが、半年前に受けた健康診断で、糖尿病予備軍といえる状態なので砂糖は控えるように、と言われてからはブラックにしている。ブラックで飲むのならということで、最初のうちは紙のフィルターでドリップしていたが、洗い物がそれだけ増えて残りかすの処分なども面倒なので、今はインスタントにしている。妻の紗代が生きていた頃は、洗い物の量やゴミの処理など気にしたことなどなかったが、五年前に死別して独り暮らしをするようになって、ようやく自分の問題として気にするようになった。
はて、冷蔵庫にバナナは何本残っていたか?
高生は思い出そうとしたが、よく判らなかった。少なくとも二本はあったような気がするのだが、それなら買っておいた方がいい。古希を過ぎた今も車の免許は持っているが、三年前に一〇万キロ超えのカローラを手放して以来、買い物はもっぱら自転車である。
明日、もし雨が降ったら買い物に行かなくても済むようにしておきたい。天気予報によると、明日の降水確率は五〇パーセントだったはずである。
バナナのことに限らず、最近、記憶力が落ちているという自覚はあった。自宅から十五キロほど離れたマンションに住んでいる長男の剛からは、認知症の検査を受けるようにと言われている。三か月ほど前も、孫娘せいらの誕生日に、剛と嫁の美土里さんに高生も加えた計四人で海鮮料理屋に行く約束をしていたのだが、当日、そのことをすっかり忘れてリサイクルショップを冷やかしに出かけてすっぽかしてしまい、スマホにかかってきた電話でさんざんな言われ方をされた。電話口で剛は「ほら、やっぱりね。認知症が進行し始めてるんだ。本当に早めに検査に行ってよ。迷惑するのは俺たちなんだから」と詰め寄るような口調だったし、背後で嫁の美土里さんが「お義父さん、前にあげた書き込みができるカレンダー、使ってくれてないのかしらね」と言うのが聞こえ、それに対して剛が「そんなものを使わせても意味ないだろう。どうせ書き込むことも忘れるんだから。たとえ書いたとしてもそのことを忘れるだろうし」と応じていたので、カチンときた高生が「ちょっともの忘れをしたぐらいでボケ老人扱いするな」と声を荒らげた結果、怒鳴り合いになって最後は剛の方から一方的に通話を切られてしまった。切る直前、剛の舌打ちが聞こえた。
ショックだったのは、四歳になる孫娘せいらの言葉だった。誕生日祝いをし損ねた翌週、好きな玩具でも買うようにと、ショッピングモールで使える商品券を送ったところ、嫁の美土里さんから電話がかかってきて礼を言われ、せいらに替わってもらって「誕生日のこと忘れてしまっててゴメンね」と詫びたのだが、せいらは「大丈夫だよ。おじいちゃんがいなくても楽しかったから」と言われてしまった。せいらにとって自分は、いてもいなくてもいい存在になってしまっている。
剛は十年ちょっと前に、銀行員を辞めて夫婦で小さな焼き鳥屋を始めると言い出した。まだ三十過ぎで、出世はこれからという時期だったので、寝耳に水だった高生は、そんな甘い世界ではない、せっかく銀行員になれたというのになぜなのかと猛反対したのだが、剛は聞く耳を持たなかった。後で美土里さんから聞いた話によると、夫婦間では前々からそういう計画を立てており、安く借りられる店舗が見つかったのだという。
そのときの大ゲンカが尾を引いて、関係はぎくしゃくしたままになっている。緩衝材のような役目を果たしてくれていた妻の紗代が突然の脳出血で亡くなってからは、せいらの誕生日や正月、ゴールデンウィークやお盆ぐらいしか剛たちとは会わなくなった。
焼き鳥屋の経営はどうせ行き詰まるだろうと思っていたので、そうなったら多少は資金援助をしてやったり、知り合いに利用を呼びかけたりして、父親の威厳を示すつもりでいたのだが、読みが甘かったのは高生の方だった。剛の店は今も常連客に支えられてちゃんと続いている。銀行員時代よりも何倍も楽しい、と周囲に言っているらしい。
高生自身は〔焼き鳥 つよし〕に顔を出したことはない。来てくれと頼まれない限りは行ってやるものか、と意地を張っているうちに月日が経ってしまい、タイミングを見失ってしまった。偶然を装って店の前に立ち、中の様子を窺ったことが一度あるのだが、楽しげな笑い声が聞こえてきて、どんな顔をして入ればいいか判らず、そのときはきびすを返した。その後も剛から「うちの店に来てよ」と声がかかることはない。意地っ張りな性格はしっかり遺伝している。
そんなことよりもバナナである。このスーパーではいつも四本入りの袋を一つ買うことにしているのだが、最後に買ったのが昨日だったか一昨日だったか思い出せない。家にはあと二本はあったと思うので、今日買わなくても明日の朝食分は大丈夫だが、もし明日、雨が降って買い物に行くのはやめようということになったら、明後日の朝食分がなくなってしまう。
別に一日ぐらいバナナを食べなくたって、体調に変化などない。冷凍してある食パンやご飯を代わりに食べればいいことだし、そういうことを気にするのはいかにも融通の利かない人間のようで、自分でも器が小さいと思ったりはする。
だが、食習慣として、朝食はバナナとコーヒーに決めているのだ。バナナは善玉の腸内細菌のえさになるオリゴ糖を豊富に含んでいるため、おなかの調子をよくしてくれる。カリウムという成分も多く、筋肉の働きを助け、身体のむくみを解消してくれる。食物繊維は便の形を整えてくれる。数年前に健康番組でそのことを知って以来、朝食はバナナなのである。高生はもともとやせていて、おなかを壊しやすい体質だったのだが、バナナを朝食にしたら下痢をしなくなった。生まれながらの体質だとあきらめていたのだが、バナナのお陰で改善できたのである。健康は継続が大切。日々のルールを変えることは、何かに負けたような気がするし、几帳面な性格は悪いことではない。地元の電気設備会社で定年退職するまでの五年間を経理課長として過ごせたのも、こういう性格のお陰だと思っている。
ふとここまで考えて高生は、自分は認知症などではないと思い直した。バナナの栄養価だってちゃんと覚えているではないか。冷蔵庫に何本残っていたか思い出せないことなんか、若い人間でもよくあることだろう。
剛の奴め、孫の誕生日を忘れたぐらいのことで。
高生は結局、四本入りのバナナを一袋、買い物カゴに追加投入した。
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