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 買い物を入れたエコバッグを自転車の後ろカゴに積んで自宅へと向かった。次男の武が高校生のときに通学で使っていた自転車なので、後輪の泥よけカバーには高校のステッカーが貼ったままになっている。そのせいか一度、お巡りさんに呼び止められて職務質問されたことがある。武は首都圏にあるシステム開発の会社で働いていて、めったに帰省しない。もう三十代半ばになろうというのに独身のままで、結婚の予定もないらしいが、詳しいことは判らない。剛とも連絡を取り合っていないらしいが、兄弟仲はどんな感じなのだろうか。家族間の対話を怠ってきたツケかもしれない。
 紗代が生きていれば、息子たちとの関係も違う感じで続いていたはずだ。紗代頼みにしていた自分もよくないが、まさかあんな急にいなくなってしまうなんて思うわけないではないか。
 心にぽっかりと穴が空く、という表現があるが、相手が身近な存在であればあるほど、そしてそれが予期していなかったことであればなおさら、穴は大きくなるものらしい。だから最初のうちは、紗代はまだ生きているけれど身体の具合が悪くなって寝室にこもっていることにして、「洗濯物を干してくる」「アルミホイルはまだ在庫があったよな」などと寝室の方に向かって声をかけたりしていた。そういう奇妙な独り言がなくなるまで、一年近くかかった。
 自転車で国道沿いの歩道をしばらく走った後、左折して狭い市道に入った。途中にある民家の敷地内には、満開時には行く人の足を止めるしだれ桜があるのだが、三月上旬の今はまだ咲く気配を見せていない。
 低い金網フェンスで囲まれたグラウンドゴルフ専用の広場横を通り過ぎた。今日は土曜日だが今の時間は誰も使っておらず、広場の中央付近でカラスが何かをつついている。捕まえた小動物を食べているのか、それともいじめているだけなのか。
 以前、市役所の高齢者対策何ちゃらという担当職員が高生宅を訪ねてきて、地域の仲間作りと運動になるからと、グラウンドゴルフクラブへの参加を勧められ、この広場でお試し参加をしたことがある。だが、上手な人が先輩面をして「あーあ、どこに打ってんのよ」と言ってきたり、勝敗にこだわる人が複数人いてギスギスした感じだったので最初の一回だけでやめた。高生は中学高校で野球部だったので、グラウンドゴルフなんかよりも町内の子どもたちとキャッチボールをしたいと思っているのだが、そのための行動を起こしたことはない。回覧板で参加者を募っても誰も応じてくれなかったら格好悪いし、そもそも近所の児童公園には〔キャッチボール禁止〕の看板が立っている。昔は子どもが路上や空き地で普通にキャッチボールをしていたものだが、最近ではそういう光景はすっかり見なくなった。野球人口が減るわけである。
 眠気を感じて、あくびが出た。昼食にご飯を少し食べ過ぎたようである。買い物に出るとき、ソファで居眠りをしたい衝動にかられたことを思い出す。昼寝は気持ちいいが、夜に寝付けなくなるので注意しなければならない。
 今日はこの後、近くの水路でフナ釣りをするつもりだった。柔らかめの練りイモさえあればヘラブナもマブナもよく釣れるポイントがあるのだが、フナは大食いをする時期と食べ控えをする時期があり、シーズンは五月中旬ぐらいまで。その後は九月中旬ぐらいまであまり釣れない。だがその間は別の場所でタナゴなどの小物釣りを楽しめばよい。河畔公園を流れる川から分岐している団地沿いの水路は、高生があちこち巡った末に見つけたタナゴ釣りの好ポイントである。
 子どもの頃にやっていた釣りを退職後に再び始めたのは、カネのかからない暇つぶしとして消去法で選んだ結果だが、次男の武にブログを立ち上げてもらい、そこで釣果の写真を掲載するようになってからは、俄然身が入るようになった。さまざまな年代の人たちから「良型が釣れましたね」「近所にいいポイントがあってうらやましい」といったコメントが入ると、まんざらでもない気分になる。コメントをくれる人たちの多くは自身のブログでもやはり釣果を掲載していることが多く、互いに訪問し合って、コメントしたり情報交換をしている。直接会うことのないネット上だけの友人ではあるが、独り暮らしのわびしさを紛らわせてくれる。
 右折してさらに細い道に入ろうとしたとき、「きゃあっ」という悲鳴らしきものが耳に飛び込んできた。その道の前方から、猛然とスクーターが突進して来たので、あわてて自転車を降りてよけようとしたのだが間に合わず、スクーターのハンドルと自転車のハンドルがぶつかり、高生はバランスを崩して自転車ごと転倒してしまった。
 尻餅をつき、「たたたた……」とうめいた。尾てい骨にひびでも入ったんじゃないかという痛さだった。
 スクーターの方もバランスを崩したようだったが、転倒まではしなかった。フルフェイスのヘルメットを被った、黒地に赤ラインが入ったジャージの上下を着た中肉中背の男だった。その男は両足ではさむようにして、フットレストの上にベージュのハンドバッグらしきものを載せていた。
 スクーターの男はすぐさま「大丈夫ですか」と声をかけてくると思っていたら、何とヘルメットも取らず、あっという間にエンジンを吹かして国道の方へと走り出した。高生は「おいっ」と怒鳴りながらナンバーに目をこらす。スクーターはすぐ先で左折して見えなくなった。
「何てやつだ、ったく」
 細い道の先から、顔を赤くした小太りの夫人が自転車を漕いでやって来た。
「引ったくりですっ。後ろから追い抜きざまに、前カゴに入れてあったバッグを盗られたのっ」
「えーっ」と高生は口にしたが、すぐに尻の痛みを思い出して「……たたたっ……」と顔をしかめた。

 

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