病院で診察を受け、待合フロアで警察官に経緯を話して解放された直後、美土里さんからスマートホンに電話がかかってきた。せいらの誕生日祝いに送ってもらった商品券で〔お買い物セット〕とかいう玩具を買ったとの報告と礼の連絡だった。高生は「いやいやこちらこそ誕生日会に行けなくて申し訳ない」と応じて早めに話を終わらせようとしたのだが、様子が変だと気づいた美土里さんから、今どこにいるのかと聞かれ、病院の待合フロアにいることと、その理由を簡単に説明した。美土里さんはこういう勘が鋭いところがある。高生のことを認知症じゃないかと最初に疑い始めたのも美土里さんだった。
幸い、尾てい骨は無事で、尻に擦り傷ができただけだったので、美土里さんには「たいしたことなかったから」と言っておいたのだが、一時間ほど経って、剛がせいらを連れて車で家までやって来た。焼き鳥屋の開店準備が一段落したところで様子だけ見に来た、ということらしい。おそらく、本当にたいしたことなかったのか確認しに来たのだろう。美土里さんが疑って何か言ったのかもしれない。
リビングのソファに浅く座った剛は、「で、逃げたスクーターのナンバーは覚えてなかった、と」と嫌味な言い方をした。
「違う、一度はちゃんと覚えたんだ」ダイニングテーブルの椅子を移動させて近くに腰かけた高生は、片手を振った。「覚えていたんだけど、誰かが呼んだ救急車に乗せられたり、病院で診察を受けたりしてるうちに忘れてしまったんだ」
「ちゃんと見て、覚えたけど、思い出せなかったわけね」
「それは……まあ、そういうことにはなるが」
孫娘のせいらは、剛の隣に座って、録画した映画『チャーリーとチョコレート工場』を熱心に観ていた。四歳にしては小柄なのは、自分の遺伝のせいかもしれない。
せいらが喜びそうな子ども向けの番組を結構な本数録画してあるのだが、その手のものは自宅で観られるということなのか、高生宅に来るとたいがいこの映画を選んで観ている。多分もう十回近く観ているだろう。気に入っているようなので「何回も観て飽きない?」などと聞くことは控えている。
「お父さんを責めてるんじゃないよ、俺は」と剛は続けた。「とっさに見たスクーターのナンバーを忘れてしまったのは仕方ないことだ。もともと最近はもの忘れが多いようだし」
本当はその後で、こう続けたいのだろう。ほらね、だから認知症の検査に行くようにって何度も言ってただろう。
「もの忘れが多いとか、そういう言い方ばっかりするなよ」高生は苛立ちを抑えながら言い返した。「犯人の体格や服装なんかはちゃんと警察官に伝えたんだ。一瞬見ただけのナンバーを間違いなく記憶できる人なんて、そうはいないんじゃないか? お前なら覚えられたか? いきなり接触して転んだ直後だぞ」
「判った、判ったって。言い方が悪かったよ」剛は面倒臭そうに片手を振った。
病院で事情を聞いてきた警察官のことを思い出した。がっちりした体格の若い男で、礼儀正しそうではあったが、「ナンバーは見て、いったんは覚えたつもりだったけど、お忘れになった、と?」と言われたときは、何だか同情されているように感じた。やれやれ、目撃者は認知症かも──そんな心の声が聞こえてきそうだった。警察官は最後に「もし何か思い出すことがあったら、すぐにメモして、ご連絡いただけますか」と言ったが、態度からして期待はしていなさそうだった。
「おじいちゃんはボケてきたんだよね」テレビがコマーシャルになった途端、振り返ったせいらがそう口にした。剛があわてた様子で「違うよ、そんなことはないよ」と頭を横に振ったが、せいらはさらに「お父さん、お店を出る前にお母さんにそう言ってたもん」と挑むような顔つきで口をとがらせた。剛は怒ったように「ボケてきたら大変だと言ったの。せいらが聞き間違えたんだ」と返し、せいらは再び言い返そうとしたが、テレビ画面に向き直って、コマーシャルの早送りが終了して映画が始まったところだったのでリモコンを操作し、やり取りは尻切れトンボに終わった。
高生よりも先に、剛がため息をついた。
「まあ、あれだよ」剛は取り繕うような笑みを作った。「怪我がたいしたことなくてよかったよ。七十過ぎの人がスクーターと接触して倒れたりしたら、骨折してもおかしくないだろうけど、何ともなかったというのはたいしたもんだ」
無理してフォローされていることが判るので、余計にささくれた気分になったが、高生は「ああ」とうなずくだけで我慢した。
ふいにバナナのことを思い出した。買い物から帰って冷蔵庫を開けてみたら、二本のバナナの他に、四本入りの袋が入っていたのだ。昨日ちゃんと買っていたことを思い出せなかった。今日買った分を合わせると、十本になってしまった。
「せいら、バナナ食べるか?」と聞いてみたが、テレビ画面を見たまま「要らない」と返された。
「じゃあ、持って帰るか? おじいちゃんちにたくさんあるから」
「おじいちゃん」せいらは振り返ってほおをぷっと膨らませた。「せいら、バナナ嫌いだって前にも言ったでしょ」
「えっ」
「ほら、正月に会ったとき」と剛が話に入ってきた。「コンビニに寄って、バナナと生クリームをスポンジケーキでくるんだやつをせいらに買ってやろうとして」
「ああ……」
本当ははっきりとは思い出せなかったが、覚えていないと言えば自分を不利な情勢に追い込んでしまうことは明らかだった。
「まあ、何にしても」剛は空気を変えるように両手をぱんと一度叩いた。「今回のこととは別に、お父さん、行って欲しいんだよ、本当に。検査」
またボケ老人扱いか。高生は、怒鳴り返したい衝動にかられたが、昨夜のことを思い出して口を閉じた。
洗い終えた片手鍋を弱火のガスコンロで乾かしていたのだが、トイレに行っている間にそのことを忘れてしまい、風呂に入ってしまった。昨年買い換えたガスコンロは点けっぱなしにしておくと熱を感知して自動的に火が消える機能がついていたので大事に至らずに済んだが、旧式のものをそのまま使っていたら、もしかすると大変なことになっていたかもしれない。
検査に行った方がいいのは、頭では判っている。だが、剛のような言い方をされると、つい反発してしまう。そのことを言ってやろうと思ったが、飲み込んだ。曲がりなりにも、引ったくり事件に巻き込まれた父親を心配して訪ねて来てくれたことは確かなのだ。
「ああ、行くよ、近いうちに」
「本当に?」
「ああ」
「今は進行を止めることはできるそうだから」
「ああ」
「こういうことは早め早めに手を打つことが大事だから」
「だから判ったって言ってるだろう。ちょっとしつこいぞ」
「しつこく言わないとちゃんと行かないだろう」
せいらが振り返り、「ケンカはダメっ」と怒鳴った。妙な間が空いて、テレビ画面に映るおそろいの赤い服を着た同じ顔の小男たちが、オーガスタスがどうのこうのと踊りながら歌う声のボリュームが大きくなったように感じた。注意して聞いたことはなかったが、「おデブで意地悪いオーガスタスグループ」だとか「そうブタさ、いやしくてブサイク」などと歌っている。せいらにこんな歌を何度も聞かせてしまっていたのか……。
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