剛たちを玄関で見送り、トイレで小用を足していると、玄関ドアが再び開く気配があった。そして「おじいちゃん、犬がいるよ」というせいらの弾んだ声。
いちいちそんなことを。誰かが犬を連れて家の前を通っただけだろうに。高生は下着をずり上げながら「そう、それはよかったねー」と大きめの声で応じた。
「家の前に犬がいるよ」
「へ?」
すると剛が「迷い犬が敷地内に入ってる」と言った。
迷い犬。なんでうちに。
トイレから出ると、玄関の方からせいらが「おじいちゃん、早く、早く」と手招きした。サンダルをはいて外に出てみると、赤い首輪をつけた黒柴ふうの中型犬が、玄関ポーチの先、レンガタイルを敷いた小路の二メートルほど先にちょこんと座っていた。
「カーポートの奥の、物置小屋のところにいたんだけど」と剛が言った。「俺たちが家から出て来たのを見て、とことこやって来て、ここに座ったんだ。知ってる犬?」
「いや、知らん」
「本当に? 人に馴れてる感じなんだけど」
「だから知らないって」
「あ、そう……」剛はやや疑い気味の表情で小さくうなずいてから、「黒柴みたいだね。体重は……十キロちょっとぐらいかな」と続けた。
「ああ。でも顔つきにちょっと洋犬っぽさがあるな。多分、柴犬の血が濃い雑種ってとこだろう。体重はもうちょっとあるんじゃないか」
スーパーの前につながれて飼い主を待っている犬を見かけることがある。たまたま中年女性が飼い主らしき高齢男性と話していて、「このコは十三キロぐらい」と言っているのを聞いたことがある。目の前の犬も、それぐらいの大きさがある。
「お父さん、犬、触っていい?」
「待て待て」近寄ろうとするせいらを剛が制した。「人なつっこそうだけど、いきなり咬んだりするかもしれない。お父さんがまず触ってみるから」
犬はきょとんとした表情で首をかしげた。せいらが「かわいいー」と言った。
剛が玄関ポーチから下りると、犬は立ち上がって尻尾を振った。咬みつきそうな雰囲気は全くなかったが、高生は念のために「上から頭を触るんじゃなくて、首とか胸を触るようにした方がいいぞ。犬は知らない人間から頭をなでられるのを嫌がるから」と言った。何かのテレビ番組で得た知識である。剛は「はいはい」と言いながら犬の前でしゃがみ、片手で首の周りをなでた。犬は目を細めて、されるがままになっていたので、さらに剛は両手でなで回した。その手の匂いを嗅いで、「室内で飼われてたのかな。獣臭みたいなのはないね」と言った。
高生が「オスみたいだな」と言うと、剛も「だね」とうなずいた。「歳は……結構いってるかもな、この落ち着いた感じからして。若かったらもっと興奮したりおどおどしたりしそうな気がする」
せいらが「おじいちゃん、この犬、飼う?」と弾んだ声で聞いてきた。「名前はチャーリーにしよっ」
「いやいや」と高生は頭を横に振った。「首輪がついてるだろ、それは飼い主がいるってことだから」
「飼い主の人が来なかったら飼う?」
剛が「すぐに飼い主は見つかって、この犬は自分のおうちに帰るよ」と言った。
「じゃあ、犬がおうちに帰る前に私も触るっ」
せいらが玄関ポーチから下りたので、高生は「頭じゃなくて首や胸を触るんだぞ」と、さっきと同じ言葉を繰り返した。
しかし、せいらは、いざ触れる距離になるとビビってしまい、手を出してから急に引っ込めた。剛が犬の首輪をつかんで「ほら、大丈夫だから」と促すと、ようやく指先で胸の辺りにそっと触れた。それで安心したようで、せいらは「わあ、ふかふか」と高生の方を振り返って笑い、それからは両手でなで始めた。犬は嫌がる様子もなく、目を細めていた。
「俺は見たことないけど、近所で飼われてる犬だろうかね」
高生が言うと、剛が「町内会長さんとか、犬を飼ってるご近所に聞いたらすぐに判るよ。それまではどこかにつないでおいた方がいいかも」と応じた。
確かに、放っておいたら車に轢かれたり自転車に接触したりするかもしれない。高生は「ああ、ロープがあったかな……」と答え、家の中に戻って靴箱の一番下の段からリュックサックを引っ張り出した。市が七十歳以上の高齢者に配布した防災リュックで、中にロープが入っていたはずである。
とりあえずは、玄関ポーチ近くの、今は駐輪場と物干しに使っているカーポートの柱にロープをくくりつけて、犬の首輪につないだ。犬はそのときも抵抗しなかった。高生も触れたくなり、しゃがんでなでてやると、鼻先を高生の股間に突っ込んできて匂いを嗅いできた。犬は視覚よりも嗅覚で人を識別すると聞いたことがある。もしかしたらこの匂い嗅ぎで、相手の性別や年齢などを理解したのかもしれない。
「飼い主の情報はないかな……」高生はつぶやきながら赤い首輪を観察してみた。剛が「そういえば、予防接種したことを証明する小さな金属プレートみたいなのが首輪についてたりするんじゃないかな。それがあったら登録番号みたいなのから飼い主が判るはずだよ」と言った。
それらしき金属プレートはなかったが、黒い油性ペンで小さく〔マジック〕と書いてあった。
「このマジックというのは、犬の名前だろうかね?」と高生が顔を上げると、剛も「うん、名前だろうね。名前が判ってるわけだから、飼い主はすぐに見つかるよ」とうなずいた。せいらが「チャーリーがよかったのに」と言い、剛は「チャーリーじゃなくてマジックだってさ」と首をすくめた。
とりあえずここにつないでおいて、高生が町内会長さんなど近所に聞いて回って飼い主を探す、ということになった。剛は「じゃあ、俺たちは行くから」と自家用車のワンボックスカーに向かおうとしたのだが、さきほどからしゃがんで犬をなで続けていたせいらが「せいら、マジックと一緒にいたい」と言い出し、犬の首を両手で抱きしめた。
「一緒にいても、すぐに飼い主が見つかって離ればなれになるんだぞ。今バイバイしといた方が寂しくないから。ほら、行くよ」
「嫌っ、せいら、マジック飼いたい」
「だーかーらーっ」と剛は少し苛立った口調になった。「よその犬なの。飼い主がちゃんといるの。さっきからそう言ってるだろ」
「飼い主の人にちょうだいって言うっ」
「うちはマンションなんだから、飼えるわけないだろう」
「おじいちゃんちで飼うっ」
「よその犬なんだから無理だってば。ほれ」
剛がせいらの腕をつかんで強引に犬から引き離すと、せいらは案の定、口をへの字に曲げて泣き出した。だが泣いたからといってどうなるものでもない。高生は、内心ため息をつきながら、剛に抱きかかえられて手足をばたつかせている孫娘を眺めた。
せいらはこの後、そのまま焼き鳥屋に連れて行かれて店内で夕食を摂るのだろう。その後もたいがい店内にとどまって、常連客たちに遊び相手になってもらっているという。そして、せいらが眠くなったら奥の小部屋で寝かせ、閉店後に寝入っているせいらを抱えて車で帰宅することになる。小さな子どもをそういう環境に置くのはどうかと思うが、いらんことを言うとまた剛との関係が悪化するので黙っている。そういう育て方のお陰でせいらが社交的で明るい子に育つ可能性も、あるにはある。
せいらだけをうちに泊まらせるのはまだ無理だろう。暗くなったら「お父さんとお母さんのところに行く」などとぐずり出すに決まっている。剛もそれが判っているからこその対応なのだろうが、泣きながら連れて行かれる孫娘を見送るのは気分がいいものではない。
「あ、そうだ、せいら」考えをまとめた高生は両手をぱんと合わせた。「飼い主が判ったら、その人にお願いして、また触りに行けばいい。おじいちゃんが連れてってあげるから」
すると剛も「そうそう、その手があった。せいら、よかったな。来週、飼い主の人のところに行ってマジックと遊んだらいい」と大きくうなずいた。
「じゃあ明日来たいっ」
「判った、じゃあ明日また来よう」明日は日曜日なので、幼稚園は休みである。
この犬のお陰で、珍しく二日連続で孫娘がやって来るわけか。高生は少しだけマジックに感謝した。
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