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 隣の奥さんは世話好きな方で、私と妻が日中にいないことを気遣って、頻繁に買い出しなどを引き受けてくださいました。
 それ自体は、非常にありがたいことなのですが、彼女には、少々お節介と申しますか、干渉し過ぎるきらいがありまして、私としましては、迷惑に思うこともしばしばありました。
 かなりの老齢な彼女からしてみれば私共はただの小僧と小娘だったのでしょう。夫婦とは、男とは、人生とは、と延々と説教をしたり、この日のように勝手に扉を開けたり、勝手に家に上がり込んだり、そういったことが常態化していたのです。
 とは言いましても、いずれも目くじらを立てて怒るほどのことではありませんから、たとえ呼び鈴も鳴らされずに、突然、家の中を覗き込まれたとしましても、普段であれば、二、三、世間話を交わせば、それでお終いとなります。取り立てて記述するようなことでもありません。
 けれども、実際にはこのように取り立てている訳ですから、起こったのです、異常な事態が。
 振り向いた時、私はまだ腕を持ち上げたままで、チクワの穴を通して隣の奥さんのことを見てしまいました。
 穴の向こうに立つ彼女の姿は、思い出すのも躊躇われるほど、猟奇的でした。
 ボロ切れのように衣服はそこかしこが千切れ、皮膚がめくれ上がって全身からは血が滲み、顔の左側およそ三分の一の肉が削げ落ちて、眼窩がえぐれ、歯列が露わになっていたのです。そして、その傷だらけの頭部を支える首は、粗挽き状に崩れ、頸椎が見え隠れしていました。
 それでも彼女は、恐怖映画に登場するリビングデッドさながらに、平然と三和土に立っていました。それどころか、妻が、はーい、と間延びした返事をして財布を取りに立ち上がりますと、そういえばね、と言って、口から血を吐き出しながら、どこどこの店で白菜が安かったやら、町内会の防災訓練がもうすぐやらと、至って普通に話をするではありませんか。
 心臓を凍える手で鷲掴みにされたかのように、息が止まり、目が眩み、冷や汗が滴るどころか溢れ出しました。私は、悲鳴こそあげませんでしたが、もはや冷静ではいられず、チクワを、箸もろとも、畳の上に投げ捨てました。
 それを見た妻が、どうしたの、と言いました。その声が耳に届くと同時に、私の視界に正常な景色が舞い戻って参りました。
 覗き込むように屈んでいる妻の顔、そして、その向こう側には隣の奥さんの姿がありました。どこにも血など見当たりません。奥さんの顔はクシャクシャでしたが、それは、いつものことでした。
 幻なのか。頭がおかしくなったのか。その時は未だ半信半疑でした。
 実は、私は昨年の冬の初めに、脳梗塞で入院したことがあります。幸い早期発見でしたので半月もせずに退院できましたが、今になってその後遺症が現れたのではないか、とも思ったのです。
 けれども、妻に心配を掛けたくはありませんでしたから、私は余計なことは言わず、適当な言い訳のみを口にしました。
「しゃっくりが出て、思わず箸を落としてしまったよ」
 私の話を聞いた妻は、釈然としない表情を浮かべながらも小さく頷いて、隣の奥さんのもとへと向かいました。
 隣の奥さんは、間の悪い男め、とでも言いたそうな興の醒めた顔をし、「あら、お食事中だったのね。すみませんねえ」と言うと、灯油の代金を受け取って、速やかに帰っていかれました。
 残された私と妻は、その後、静々と食事を進めました。
 そして、その日の深夜のことです。
 隣の奥さんは、一人で外出中に、近所の屋敷から逃げ出した二頭の大型犬に襲われ、喉を食い千切られて、亡くなってしまいました。
 現場を目撃した方の話によれば、それは、地獄絵を思わせる有様だったそうです。
 私は出勤時間が早いため、事件を知ったのは翌日の夜のことでした。
 妻から詳細を聞かされた時、もちろん驚きはしましたが、同時に、やはり、という変に納得する心持ちがしました。それまで予感めいた単なる胸騒ぎでしかなかったものが、確信へと変わったのです。
 チクワの穴から人を見れば、未来の、死に際の姿が見える。

 

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