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 翌日は、雪の影響も落ち着いて、普段通りに配送作業は進みました。私は、元々勤勉ではありますが、その日は日頃よりも更に熱心に仕事に打ち込みました。少しでも気を緩めれば、前の日の出来事を思い出してしまいそうで、怖かったのです。
 誰にも相談はしませんでした。信じて貰えるとも思えませんでしたし、何より、ひとたび口に出してしまえば、あの出来事が真実であったと認めることになってしまいます。その時の心情としましては、チクワの光景は疲れによる見間違い、として片付けてしまいたかったので、沈黙を守り、ただただ忍びました。
 その甲斐もあってか、日が経つにつれて記憶は色を失い、やはり見間違いだったのだ、自分はただ無残な事故を目撃しただけなのだ、と思えるようになりました。
 ところが、およそ一週間後の一月十九日のことです。再び私を、深い深いチクワの穴の中へと引きずり込む出来事が起こったのであります。
 ちなみに、その日の事件は新聞の記事にもなっておりまして、一月十九日という日付に間違いはありません。いえ、この事件だけではなく、私の関わった幾つかの出来事は、世間一般のニュースとして、チクワのことには触れられていませんが、取り上げられております。
 もし、この手記をお読みになった後、お時間が許すのであれば、図書館にて過去の記事をお調べになるのも良いでしょう。私の体験した恐怖と絶望を、より実感せしめられることと思います。
 さて、話を元に戻しましょう。一月十九日も私はいつも通りに仕事をし、いつも通り、夜七時に家に帰り着きました。
 玄関の引き戸を開けますと、既に夕飯の支度が終わっていたようで、胃袋を刺激する香ばしい匂いが漂って参りました。
 私は帰宅の挨拶もそこそこに、すぐ洗面台で手と顔を洗い、居間の座卓の前に着きました。すると妻が、茶碗やら小皿やらを目の前に並べ、最後に、料理の載った大皿を持ってきて、それを私に差し出すように卓の中央に向けてスイと滑らせました。
「今日は中華風海鮮炒めよ」
 妻が、屈託のない笑みを浮かべます。
 かれこれ妻とは三十年以上も連れ添っておりまして、お互い、皺も増え、白髪交じりとなりましたが、私に向けられるその笑顔だけは昔と変わらぬものでした。
 妻は、日中にはスーパーマーケットでレジ打ちのパートをしておりましたので、私と同様に毎日疲れていたはずなのですが、それにもかかわらず、そのような様子はおくびにも出さず、いつだって献身的に一切の家事を行なっておりました。
 私は、一度も本人に伝えたことはありませんが、今もなお妻に対して感謝と尊敬の念を抱いております。
 私は早速、いただきます、と言って軽く一礼をし、大皿に箸を伸ばしました。そして、その時にしてようやく気が付きました。中華風海鮮炒め、飲食店では八宝菜などと呼ばれることもあるその料理は、一般的には、エビ、イカ、ホタテの貝柱などが含まれているものですが、節約のためでしょう、目の前に置かれた皿の中にはそれらの姿は全くなく、代わりに、輪切りにされたチクワが入っていたのです。
 動揺のあまり全身が硬直しました。仕事の際にチクワを運んではおりましたが、それらは全て箱詰めになった状態でして、冷酷な猛禽類の目を思わせる丸い断面を直接見るのは、およそ一週間ぶりだったのです。否が応でも、あの日のチクワの光景を思い出してしまいます。
 しばらく動けずにいますと、妻が不思議そうに私のことを見つめました。私は動揺を気取られてはなるまいと、敢えて、チクワの輪を箸の先端で摘み上げました。
 しかし、後悔先に立たずとはよく言ったもので、摘んだのは良いですが、それを口に運ぶことが出来ません。そうしている間にも、箸を伝わって不安の根が私を侵食していきます。と同時に、あってはならない、邪な好奇の心が、私の内で頭をもたげ始めました。
 今、チクワの穴を覗いたならば、何が見えるのだろう。
 まさに、怖いもの見たさ。恐怖と好奇はいつだって対になって現れます。押してはならぬものは押したくなりますし、見てはならぬものは見たくなります。そして歴史を鑑みれば、人は常に好奇を選んで参りました。入ってはならぬ領域に侵入し、時には進歩を、時には破滅をもたらしてきたことは明白であります。
 もうお分かりでしょう。ご多分に洩れず、私も覗くことを選んだのです。
 腕を持ち上げ、チクワが口元を通り過ぎ、目の高さまでやって来ます。私は左の目を固く閉じて右目を輪の中心へと近付けました。
「あなた、そんな行儀の悪いことはやめてくださいな」
 妻が、からかうように笑いながら私を窘めました。
 私は、はっと我に返り、自嘲気味に、あ、ああ、と返事をしまして、それから、腕を下ろそうとしました。
 その時です。カラカラと小気味よい音をたてて玄関の扉が開きました。
 私の家は狭いため、台所と居間との間の襖を開けたままにしておきますと、座卓の位置からでも玄関を望むことが出来ます。
 私は、咄嗟に音のするほうを振り向きました。
「こんばんは。灯油を買っておきましたよ」
 その声は、隣の奥さんのものでした。

 

「私はチクワに殺されます」は全5回で連日公開予定