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 このようなことを書くのは大変にお恥ずかしいのですが、私は裕福ではありません。いいえ。申し訳ありません。その表現は正確さに欠けておりました。嗚呼、なんと浅ましいのでしょう。私は、この期に及んで未だ見栄を張ろうとしております。裕福ではない、などと曖昧な言葉で濁してしまいましたが、もっと言えば、私は、貧しいのであります。
 貧しい。その表現こそ、私の置かれた環境を的確に示しているでしょう。
 若かりし頃は、いずれは持ち家を手に入れよう、と思ったこともありますが、この手記をご覧になっている方ならば承知の通り、今もって狭くて暗い借家に暮らしております。
 借金までして育て上げた一人娘は家を出ていってしまいましたので、残された私と妻は、定年までに負債をなくすことだけを目標にして、ここで慎ましやかな二人きりの生活を何年も送って参りました。
 その妻も。いえ。この話は後述しましょう。
 ともかくも私は金がなかったのであります。いくら勤勉に過ごそうと、霞を食う仙人ではありませんし、誇りだけでは腹は膨れません。そこで私は、家族と食べて、と言われて渡されたキズモノのチクワを、弁当の代わりに食すことにしたのです。
 袋から取り出したチクワは、言われてみれば確かにヒビが入ってはいましたが、一目見ただけならば、綺麗な筒型をした、いわゆる普通のチクワでした。味も何ら問題ないはずですから、私は躊躇うこともなく、丸のままチクワに噛り付きました。
 そうして、両手にチクワを持って、むしゃむしゃと貪っておりますと、コンビニエンスストア脇の道に、高所作業車というのでしょうか、ゴンドラ付きのアームを備えた車がやってきて、青いツナギを着た男達が工事を始めました。どうやら、大雪によって電線だか電話線だかに不具合が生じたらしく、それを復旧しに来たようです。
 その時の私は、単なる、チクワを食べる男、でしたので、チクワを食べること以外にこれといってするべきことはなく、何の気なしに工事の様子を見守りました。
 ゴンドラに乗る作業員は私の娘よりも若いと思われる茶髪の青年で、洒落ているつもりか、ツナギを胸元まで開いて着崩し、ヘルメットもただ頭に載せているだけ、という出で立ちをしていました。顔の左右に留め具の外れた顎紐が、だらしなくぶら下がっていたのを良く覚えております。
 その青年は、いかにも面倒臭そうに作業をしていました。私は、そうした態度が甚だ気に入りませんでしたので、「この野郎め」と、一言呟いて、望遠鏡を扱うように片目でチクワの穴から青年を覗き見ました。
 すると、摩訶不思議なものが目に映りました。
 つい先程まで確かに青年の頭にちょこんと載っていたヘルメット、橙色をした防護帽がなくなって、代わりに、真っ赤な帽子が青年の頭を包み込んでいたのです。しかも、青年の首は不自然な方向に曲がっていました。まるで右折を示す標識の矢印のように、頭頂が、真横を指していたのです。
 私は驚いて、すぐさまチクワを退けて、両の目で改めて青年を見ました。
 青年は何事もなかったかのように、ヘルメットを被って、相も変わらず面倒臭そうに作業をしていました。
 朝が早かった所為で疲れているのだろう。私は自身にそう言い聞かせ、目頭の辺りを摘むように揉みました。けれども、何とも言えぬ気味の悪さは払拭できず、早々にその場を去ろうと、慌てて残りのチクワを平らげることにしました。
 そして、最後の一口を飲み込んだ時です。窓の外から男の悲鳴が聞こえ、直後、湿気た爆竹が破裂したかのような鈍い音が聞こえて参りました。
 恐るおそるそちらに視線を向けますと、ゴンドラに乗っていたはずの青年が、地面にうつ伏せの状態で横たわっていました。恐ろしいことに、その首は直角に折れ曲がり、その頭は赤い帽子を被っているかのように血にまみれていました。
 ゴンドラから落ちて死亡した、ということは即座に察することが出来ました。
 それだけでも十分に驚愕すべきことではありますが、私は、それよりもむしろ、その青年の姿が、チクワの向こう側に見えた姿と全く同一であったことに、強い衝撃を受けました。
 そんなことはある訳がない。しかしながら、何となしに自身が突き落としてしまったかのような心持ちになり、私は、逃げるようにトラックを発進させました。
 そうです。この青年がチクワの最初の犠牲者です。ただし、その時点ではまだ、チクワの恐怖について、私は理解をしていなかったのであります。

 

「私はチクワに殺されます」は全5回で連日公開予定