土佐清水より南へ五十海里、四国海盆に至る道筋の途中に、小さな火山島がある。島のあちこちには、火山活動によって穿たれた、風が唸りをあげて吹きぬける洞穴があり、古代道教の語句「龍穴」にちなみ、小島は龍穴島と呼ばれた。
龍穴島──。
周囲三里にも満たぬ島影は、日本地図の上では塵と見紛うほどの小さな点に過ぎぬ。しかし戦後まもないころまで、そこには漁師を中心とした集落があった。集落の起原は江戸中期に遡る。急峻な海底地形と黒潮の影響によって、周囲の海は魚影が濃く、土佐から流れついた漁民たちが、いつしか定住したのである。資料によると、明治になったころには、およそ八百人の住民がいたとのことである。前述のとおり漁業を基盤とした島ではあったが、集落の発展と近代化にともなって、大正から昭和初期にかけては、軍需品として重宝された硫黄の採掘で生計を立てる者も少なくなかった。
ところが昭和二十八年、島の中心にそびえる火山、龍神さまの巣とも呼ばれる龍穴山が、大きな噴火を起こし、住民はことごとく避難を余儀なくされる。
かくて令和七年現在、龍穴島は無人の島として、ただ海図の隅に名を留めている。
さて、読者諸君におかれては、唐突に小島の話を持ち出されて、ギョッとしたかもしれまい。しかし慌てなさるな、この龍穴島こそが、今回の惨劇の舞台なのである。
本書を手に取ったからには、私が作家であることはご存じであろう。これまで、巷で囁かれるチクワの呪いや、関東郊外に伝わる死者蘇生の秘術など、伝奇あるいは都市伝説をもとに作品を綴ってきた。いわゆるオカルト作家である。もっとも、私をオカルト作家たらしめるのは、奇怪な題材よりむしろ、幾度となく〆切を反故にしながらも、なお仕事を続けられているという、その怪奇のほうかもしれぬが。
ああ、しかし、その悪癖とも呼べる遅筆が、今回に限っては幸いした。耳新しい龍穴島の、その小島での仔細を、知るに至れたからである。それはこういう次第である。
五月初めの昼のこと、ディスプレイに浮かぶ白い原稿を腕組みして睨んでいると、担当編集者である植木くんから一本のメールが届いた。再三にわたる督促を無視してきた私であるが、その文面だけは見過ごすことができなかった。
──いまから伺います。原稿か、先生の首、どちらかは必ず頂戴します。
ゾッとした。眼の前の原稿は、いまだ原稿とは呼べぬ白い紙である。かといって首を差しだすわけにもいかぬ。私は弾かれたように飛びあがって、後先も考えず、ノートPCを抱えて東急東横線の電車に乗り、終点である横浜元町まで逃げだした。
ゴールデンウィーク中とあって、横浜は家族づれやら恋人同士やらで賑わっていた。その喧噪の合間を縫って、私はあてもなく大桟橋の方面へブラブラと歩いた。
そこに、彼女はいたのである。
着飾った人々の中、その若い女性は、長らく入浴も着替えもしていないのか、薄汚れた肌と髪をして、海沿いをさまよっていた。作家の性であろう、その異様な風体に私の眼は吸い寄せられた。やがて彼女も視線を感じてか、ハッとこちらに顔を向けると、おぼつかぬ足取りで私のもとへとやって来た。
「……あの、すみません。ここは、どこ、ですか?」
と、彼女はギゴチない口調で言った。
「ここ? ここは横浜大桟橋ですね。あっちは山下公園、あっちは赤レンガ倉庫です」
分かりきった問いに呆れを含ませて答えると、彼女は首を振って、
「いいえ、そういう意味ではなく。ここは、えっと、どういう世界線ですか?」
いよいよ怪奇である。オカルト作家に備わった鋭い嗅覚が、物語の蕾の匂いを感じとって、この女性を逃してはならぬと訴えかけてくる。頭の中のヴァーチャルな原稿に、カタカタと音をたてて、文字が刻まれていった。そして、私は慎重に、
「どういう世界線か、この世界に暮らす私からすると、ここは普通の世界としか言いようがありません。比較の対象となる他の世界線のことを知らなければ、あなたが望む答えは提示できないと思われます。そこで、どうでしょう、あなたがどこから来たのか、そこはどんな世界なのか、私に教えてはくれませんか?」
名刺を差しだして作家であることを明かし、情報の収集と訴求にはそれなりの自負があると告げて、力になれるのではないかと申し出ると、その女性は覚悟の塊を飲み込むように、強く深く頷いた。よくよく思うと、私が彼女に奇異なる気配を嗅ぎとったように、彼女もまた、私のことを初めから話の通じる相手と見なしていたようである。
「分かりました。わたしがいた小島での出来事をお伝えします──」
あきらかに所持金がなさそうであった彼女を連れて、身近のカフェへ赴いた。
そして、私は、龍穴島のことを知るに至ったのである。
陽が傾き始めたころ、話を終えてホッと息をついた彼女に、私は作家としての職分において、聞いた話のすべてを、然るべき形で公にすることの是非を尋ねた。彼女は、私になにかを託すかのように、静かに頷いた。なにか。それは市井に対する警告か、あるいは誰かへの伝言か。いずれにせよ、これから記される物語は、彼女の意志に基づいたものであることを、あらかじめ、ここに明言しておく。
なお、その後の彼女の消息は知れぬ。詮索を嫌ってか、あの日、彼女は冷めた紅茶を飲み干すと、そそくさとカフェを辞したのであった。名刺は渡してあるのだから、いずれは連絡が来るものと期待していたが、半年以上が経つ現在に至るまで、一切の音沙汰はない。本書が広まることで、再びの邂逅が訪れることを、祈るばかりである。
それはさておき、私は横浜からの帰りの電車内で、さっそくPCを立ち上げて、龍穴島を舞台とした小説の企画書を作成し、それを、担当編集者の植木くんに送信した。すると、私のことを介錯しようとしていた彼は、未提出の原稿があることさえ忘れて、先生のことを信じていましたなどと、すぐさま興奮気味のメールを寄越してきたのであった。
読者諸君よ、ここまでが、この物語を記すに至った経緯である。かの女性が語った顛末は、あまりに難解、あまりに苛烈、あまりに奇妙であった。嘘か実かは、諸君にゆだねられている。しかし断言しよう、彼女にとっては、真実であったと。
いやはや、いささか前置きが長くなった。さて、そろそろ本題に入ろう。
まず、本書は特殊な構造をしている。それは、かの女性の話が複雑であったことに起因する。読み進めれば自ずと理解されるであろうが、この物語は途中から、A、B、Cの三つの世界線で描かれることになる。
本書においては、A①→B①→C①→A②→B②→C②→……と、三つの世界線を時系列順に並列して記載しているが、それぞれの世界線ごとに、A①→A②→A③→……と読んでからB①→B②→B③→……という順序で読むのも一興であろう。
極論を言うと、それ以外の、自由な順序で読んでも構わぬ。諸君なりの「理解しやすい順序」を選択し、読み進めてもらうことを望ましく思う。
次に、本書の題名について触れておきたい。数ある候補の中から採用したのは、かの女性がこぼした、印象的な一言である。その言葉こそが、これから始まる物語全体を象徴しているように思えたからである。その名も、
流血マルチバース──。
小説の体裁を整えるため、また、関係者への配慮のため、一部については私の独断によって改変を施している旨、あらかじめ承知願いたい。しかし、本旨については、私が聞いた話と寸分違わぬものであることを、ここに誓う。それでは幕を切って落とそう。
さあ、進め、この物語は三つに「分岐」する!
令和七年十一月某日 五条紀夫
「流血マルチバース」は全4回で連日公開予定