序
東京都練馬区郊外の借家で二つの遺体が発見されたのは、六月末日のことである。
死亡していたのは、家の世帯主である五十代の男と、その妻であった。
第一発見者である夫妻の娘が家を訪れるまで、誰も、近隣の住人でさえも、二人が死亡していることに気が付かず、遺体は死後二週間近くが経過していた。
男は、そして妻も、社会から断絶された生活を送っていたのである。
借家は今時珍しい平屋の戸建てで、和室二間と台所、風呂、便所だけの小さなものであった。三和土を上がればすぐ台所という造りをしていて、玄関の引き戸を開け放つと、外からでも男のぶら下がっていた鴨居を望むことが出来る。
そう。男は首を吊って死んでいた。台所と居間との間にある格子状の欄間に紐を通し、そこにぶら下がっていたのである。
そういった事情もあって、娘からの通報は、「父が首を吊っている」という内容だけであった。
男は血まみれの状態であったが、外傷がなく、すぐに、もう一人別の被害者がいるであろうことが分かった。案の定、一番奥の部屋、夫妻が寝室として使っていた部屋に、男の妻の遺体が転がっていた。
全身を数十ヶ所も刺されたことによる、失血死であった。
妻殺害の凶器は現場に残されていた刺身包丁であることが判明。また、首の索状痕から、男は自殺である可能性が高いとされ、この事件は、無理心中として処理された。
悲劇ではある。悲劇ではあるが、下卑た表現をするならば、老夫婦の無理心中など良くある話。ところが、この事件は世間の耳目を一身に集めることとなった。
その要因は、『チクワ』である──。
遺体発見当日、駆け付けた捜査員が現場に入った際、そこには異臭が立ち込めていた。梅雨時の閉め切られた室内に半月近くも放置されていたのだ、当然、遺体の損傷は激しかった。しかし強い臭気は、それによるものだけではなかった。見回すと、室内のあちらこちらに、長さ十センチ、直径三センチほどの筒状のものが散乱していて、それが腐敗臭を漂わせていたのである。
散乱していた筒状のもの、それらはすべて、チクワであった。
その数、数千本、否、数万本か。居間の座卓が埋もれて見えなくなるほどの量である。何ヶ月も前に製造されたものから、夫妻が死亡する直前に購入されたと思われるものまであり、入手経路は複数あったと考えられる。常温下に置かれ、中には、黒色や白色の毛羽立ったカビを生やしたものや、干涸らびたもの、溶け出しているものもあったため、食用として蓄えられていたものではないであろう。仮に食用であったとしても、とてもではないが、夫妻二人で食べ切れる量ではない。
ならば何故、チクワはチクワ然とせず家屋に散っていたのであろう。
そして何故、夫妻はチクワ色の最期を遂げなければならなかったのであろう。
その答えを示そうとするかのように、鴨居からぶら下がる男の上着、薄手のジャンパーの、そのポケットには、細かな字の印刷された紙束が捻じり込まれていた。それは、遺書と呼ぶにはあまりに長大な、男が書いたと思われる手記であった。
その手記は、『私はチクワに殺されます』という、奇妙な一文で始まっていた。
「私はチクワに殺されます」は全5回で連日公開予定