プロローグ

 

 

 七階建の研究棟の最上階。長い廊下の突き当たりにある部屋の前に立った倉科礼央くら しな れ おは、手にしていた鍵で解錠するとドアを引き開けた。

 地球温暖化の元凶が二酸化炭素の過剰排出にあるとされて以来、排出削減への取り組みは活発化するばかりだ。しかし、エネルギーを含め、消費は美徳とされてきたアメリカ人の生活スタイルが簡単に改まるものではない。

 アカデミズムの場、それも有力大学ともなるとなおさらだ。なにしろ多くの学生や研究者が図書館やラボに二十四時間常駐しているのだ。夜間無人となる部屋の照明は消灯するものの、実験機械には電源を落とすことができないものが多々あるし、空調も稼働し続けることになる。

 そんなこともあって、この部屋の室温は完璧に保たれているのだが、それでも長く閉ざされていた空間には特有の雰囲気がある。

 部屋の主人は、二ヶ月前に九十七歳で逝去したエドワード・キンジー。ここカリフォルニア科学大学理学部の終身名誉教授である。七十三歳が男性の平均寿命のこの国では、紛れもない長寿だし、死因は老衰だそうだから、天寿を全うしたといえるだろう。

 キンジーは謎の多い学者であったようだ。

 その最たるものが、目ぼしい功績があるわけでもないのに、全米屈指の名門難関大学から終身名誉教授の地位を与えられたことにある。

 専門分野は微生物学だが、名誉教授に就任した三十二年前から教鞭を執ったことはなく、引退と同時にフロリダに移住。以来、時折キャンパスにやってきては、一人研究室に籠っていたかと思えばいつの間にか姿を消す。教授専用のサロンに顔を出すこともなければ、すれ違っても挨拶すら交わさない。だから彼がこの部屋の中で何をやっているのかを知る者は一人もいない。孤高の人というより、相当な変人であったらしい。

 もっとも、ここ二十年ほどはキャンパスに姿を見せなくなったというから、今では彼のことを知る者はほとんどいない。

 だから礼央もキンジーと研究室の存在を知ったのは、つい一週間前のことだった。

 東部ニューハンプシャー州ハノーバーにあるダートマス大学で学士号を修め、ここの大学院の修士課程に入学したのが二年前。研究室は同じフロアーにあっても、キンジーの部屋は一番奥。理学部には生物化学、化学・生化学、キネシオロジー・公衆衛生等々、八つの学科があり、教授、准教授の研究室が長大な廊下の両側にずらりと並ぶ。

 礼央の専攻はキンジーと同じ微生物学だが、これだけ科学技術が進歩してくると、同じ分野でも研究内容は細分化、かつ専門的になりすぎて、極端な話、隣の研究室でどんな研究が行われているのか全く分からない。実験室と所属する研究室の往復に終始する日々を送っているのだから、キンジーの部屋の存在に関心を抱いたことはなかったのだ。

 だから、指導教授のスコット・ウイリアムズから、

「レオ、ボランティアを引き受けてくれないか」

 突然言われ、その内容がキンジーの部屋にある書類の整理だと聞かされた時には正直なところ、少しばかり不快な気持ちを抱いたのだった。

 なにしろ修士号を修め、博士課程に進もうという時である。

 季節は六月。夏休みの真っ只中ということもあって、学生の大半はキャンパスを去っており、人手がないとはいえ、博士課程に進もうという人間に書類整理はないだろうと思ったのだ。

 そんな内心が表情に出たのか、

「いや、本来なら私がやるべきなのだが、母親が末期ガンでね。かなり重篤な状態にあって、いつどうなるか分からないのだ。大学はキンジー教授の研究室を早急に空けるよう言ってきているし、夫人も書類の引き取りを望んでいるそうでね」

 ウイリアムズは、申し訳なさそうに言う。

「キンジー教授?」

 初めて耳にする名前に礼央が問い返すと、

「エドワード・キンジー。この大学で微生物学を教えていた終身名誉教授だ」

 それからウイリアムズは、くだんのストーリーを話してくれたのだったが、なるほど確かに謎に満ちた人物ではある。

 ウイリアムズは言う。

「なにしろ、ここ二十年ばかりはキャンパスに現れたことがない人だ。私がここにやってきたのは十年前。彼とは会ったこともないし、研究室に足を踏み入れたこともない。中がどうなっているのか、皆目見当がつかんのだが、終身名誉教授の地位を授かった人の研究資料だ。夫人に送るにしても、分類ぐらいはしておかないとと思ってね」

 ウイリアムズがキンジーに興味を抱いているのは確かだろうが、最後にキャンパスに姿を見せたのが二十年前なら、当時七十七歳。研究者としての盛りはとうに過ぎていたであろうし、輝かしい功績を残したのなら、今にいたってもなお語り継がれているはずだ。なのに、なぜ終身名誉教授の地位が与えられたのか。礼央自身、興味を抱かなかったといえば嘘になる。だが、問題は作業量だ。

 修士課程を終え、博士課程も同じ大学に籍を置くことを許されたのだ。研究テーマも決まっているから夏休みなど無いに等しい。無駄な時間などありはしないのに、見ず知らずの故人の資料を整理するのは労力と時間の浪費のように思えたのだ。

 しかし、ウイリアムズは修士課程入学以来の指導教授であり、博士課程でも師事することになっていて、礼央は『NO』と言えない立場にある。しかも、微生物学専攻の博士課程進学予定者は他に二名いるが、いずれも他大学からの進学者で、新学期が始まる九月まではやってこない。それに、仮にも終身名誉教授が残した資料である。分類するとなると修士課程の学生には荷が重すぎる。

「分かりました。早々に取りかかります」

 礼央が承諾すると、

「鍵は、学事事務室が管理している。君が名前を告げれば、出してもらえるようにしておく。すまんがよろしく頼む」

 ウイリアムズは小さく頷き、ポンと肩を叩いてきた。

 

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