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 別々のベッドで寝るようになって、ちょうど一年になる。
 キッカケは、たわいのないことだった。夜中にエアコンの設定を巡って揉めたのだ。
「そっちも好きにエアコンつけられた方がいいでしょ」
 枕とタオルケットを抱え「私、リビングで寝るから」と背中を向けた麻矢を、彼は何も言わずに見送った。
 ここ数年の猛暑、いや酷暑は「エアコンの設定温度」並びに「就寝時のエアコン」問題を新たに引き起こした。熱中症対策の必要性はもちろん認めつつもあまり体を冷やしたくない麻矢に対し、設定温度はやや高めでいいが常時稼働させたい、と光博は主張した。せめて就寝時はタイマーにして夜中はオフにしたいと反論したが、自動的にオンオフになるのだからタイマーの必要はない、と意見は真っ向から対立したのだ。
「でも実際、夜中に寒くて起きちゃう時もあるのよ」
「寒けりゃタオルケットをかぶればいいだろう」
 それはそうかもしれないが、エアコンが寒くて布団をかぶる、と言うのは本末転倒ではないか。
「タイマーが切れて暑くてまたつける、なんてそれこそ不経済だろう」
 正論で言い返されてもはや反駁する気も起こらず、「じゃあ別々に寝よう」ということになったのだった。
「夏の間だけ」と思っていたのが、「一人寝」はあまりにも快適だった。
 いつ寝るのも自由、遅く帰って相手を起こしてしまうと気にしなくてもいい。いくら寝相が悪くても誰にも文句は言われないし、寝息(時にはいびき)を聞くことも聞かれることもない。
 ベッドを別にして、いいことばかりじゃないか、と自分に言い聞かせる。
 体を触れ合う機会がもはやなくなった、ということを除けば。
 普段の生活の中で彼に性的な欲望を抱くことはもうずいぶん前からなくなっていたが、今でももし体が触れ合うことがあったら。何の気なしに指がからまったり、足の温かさを感じたり、彼の肌と自分の肌が重なることがあったら。その瞬間に「そういう気持ち」を覚えることがあるかもしれない。
 しかし、その機会はもう失われた。
 セックスだけではない。
 快適さと引き換えに、誰かが隣にいてくれる安心感を麻矢は失ったのだ。
 いやこれも逆だ、と再び思う。
 誰かが隣にいる安心感を失う代わりに、結婚していても一人の空間がある、という快適さを得たのだ。それでいいじゃないか。
 ……いつの間に、こんな風になってしまったのだろう。
 付き合っている頃は、一人でいても二人でいるように感じていた。
 あれは交際が始まって三か月ほどが経った頃だっただろうか。
 それまで食事をする場所は大抵、光博の方が決めていた。もちろん「行きたいお店ある?」と何度も訊かれはしたが、麻矢自身はさほどグルメでなく、彼の方がおいしい店を知っていたからだ。そろそろ向こうの行きつけも一回りしたようで、「次は麻矢さんの行きたいところに行こうよ」と言われ、その店を選んだのだった。
「丸多」という名の、浅草にある小さなおでん屋だった。
 行きつけ、というほど通っていたわけではない。璃子に「おいしいのにさほど混みあわない穴場」と教えてもらった店で、出汁と濃口醤油を使って煮込んだシンプルな関東風おでんが売り。特に三日かけて味をしみこませる大根は絶品だった。
 璃子に連れて行ってもらった時にいっぺんでとりこになり、ちょっと頑固風な大将ときっぷのいい娘さんのやり取りも楽しく、女性の一人客でも臆せず入れる雰囲気だったため、それから一人で時折訪れるようになった。
 特に、ちょっとした喜び──担当していた建物に飾ったクリスマスツリーを通りがかった人たちが「きれい」と足を止めてくれ、子供たちが無邪気に喜んでいるのを見た時など──や逆にちょっとした悲しみ──結婚している先輩女性の担当した案件について批判的な意見をした際に「結婚できない女のひがみ」ととらえられていると知った時など──誰ともその気持ちを共有できない時、せめておいしいものでもとこの店を訪れ、大将や娘さん、常連たち相手に気の置けない会話を交わしていると、いつも以上におでんの味が沁みた。
 そんな店だったが、「恋人」を連れてくるのは初めてだった。
 自分だけの場所、という思いを抱く一方で、もし気に入ってもらえなかったら、という不安も正直あった。
 店の大将も娘さんも麻矢の「男連れ」に過剰な反応はせず、「らっしゃい!」「外は寒い?」などといつものように迎えてくれた。
「いい雰囲気のお店だね」
 普段は洋食やバーが多くこういう店は初めてという光博は、落ち着かなげに辺りを見回しながらも、嬉しそうだった。そして麻矢が「お薦め」として選んだ具の中から大根を真っ先に口に運ぶと、驚いた顔をこちらに向けた。
「何これ! 今まで食べたのと全然違う!」
「でしょう?」
「おいしい! また絶対来たい」
 まだ食べ終わってもいないのに「次回」を口にする彼の言葉に、麻矢は思わず笑った。
 あの時が幸せの絶頂だった、と今になって思う。
 プロポーズされた時よりも、式を挙げた時よりも。
 それまで一人で楽しんでいたことを、二人で共有できる喜び。
 一人で食べておいしいと思ったものを一緒に食べ、おいしいねと笑い合う幸せ。
 ああ、こういうことだったんだ。
 みんな、こういう風にして「結婚」を選んでいくんだ。
 そう思ったのだった。
 それなのに今は。
 二人でいるのに一人のように感じてしまう──。

 

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